南米の旅、バルパライソにて

 1997年12月上旬にエクアドルのチンボラソ峰登山を終え、アルゼンチのアコンカグア峰登山までの間、チリのバルパライソで過ごしたときの思い出です。


 12月6日 エクアドル・キト⇒チリ・サンチェゴ

 今日はキトのお祭りであった。昨日の夜は前夜祭で町の中はにぎやかだったらしい。私は洗濯と出発準備のためホテルにいて町の様子が分からなかったが、朝食のときに従業員の顔を見ると、みんな寝ぼけ顔だった。

 キトでの日々は僅かであったが、楽しく過ごすことが出来た。一人で旅をすると他人との関わりが、いかに大切であるかが分かる。言葉は大切であるが絶対に必要なものではない。大切なことは相手を思う心である。そして、相手に慕われる心である。思いやりを持って誠心誠意ぶつかってみて分かる。そんなことを改めて感じた日々であった。

 午後12時20分、キト空港発。

 午後8時5分、サンチェゴ空港着。

 とても暑い。出迎えの人が来ていないので、急遽、旅の本に書いていたスペイン語を使いタクシーでホテル日本に行く。

 ホテルから、こちらで手配してくれることになっていた早乙女さんに電話をする。すると、日本の佐藤さんから連絡が入っていないとのことであった。突然の来訪に驚いていた。今日は遅いので明日相談することになる。30度を超える暑さも加わり、心身共々疲れてしまう。


 12月7日 サンチェゴ⇒バルパライソ

 早乙女さんと相談し、宿泊代の安い従業員の川口重行さんのペンションに行くことにする。バスターミナルまで川口さんに送ってもらい、ペンションまでの行き方を教えてもらう。

 川口さんに「ペンションには連絡するつもりだが、連絡が取れないときは私からだと言えば大丈夫だ」と言われる。

 バスに乗り2時間ほどでバルパライソのテルミナル(終点の停車場)に着く。

 コレクティーボ(相乗りタクシー)の乗り方が分からないのでうろうろしていると、フェルナンドという男性がオフィーギンス行きのコレクティーボを拾ってくれる。思わず『グラシャス、グラシャス』と何度も言ってしまった。

 ペンションには、すぐに入れてもらえなかった。辞典を見ながら身振り手振りを加えてスペイン語で話すと「ブエノ(分かった)」と言い門を開けてくれる。

 重行さんと連絡が取れていたようだったが、正体不明の人間は簡単に入れないようだ。

 この辺りの家は、どこも鉄格子で囲まれており番犬を飼っている。
家には、ナンシー(奥さん)、パトリック(長男9歳)、タダシ(次男)が居た。

 宿泊代は、食事込みで1日10ドルにしてもらう。ようやく落ち着き先が決まり安心する。

 夕食の後、宿台帳のようなものを渡される。すると、ここに宿泊した人達のメッセージがあった。


旅人のメッセージを読んで

 この民宿を始めて2年位しか経っていないせいか、今まで泊まった人達は30人もいないようだ。メッセージも10人位であった。書いている人達は20代〜30代と思われるが日本の若者としては珍しく自己主張をしている。短い人で3ヶ月、長い人では5年以上の旅をしている。

旅を目的としている人達の意見は、日本の社会を背景としながら南米の人達を見ているようだ。

若いゆえにしょうがない面もあるが、大部分の人が、この国の人達を批判している。ひどいものが有り、暴力的な言葉で表現したもの、人間性を無視した行動(異性との関係・麻薬)を取ったことを自慢していた。読んでいて残念であった。

物に溢れて確立された日本の社会に育った世代には、便利な物がない不安定な社会に生きる人々を理解することが難しいのかもしれないが、生きてゆく人々の姿勢を社会の仕組みや国という存在に求めるのはおかしい。

 そして、自分たちと違う社会の仕組みや考え方の違いを軽蔑するのはおかしいと思う。

それぞれの国には、それぞれの歴史があって今に至っている。習慣はもちろんのこと住んでいる環境が違うのだから、日本の社会の常識を持ってくることじたいがおかしい。

生きるということは個人の問題であり、一人の人間としてのアイデンティティーは、日本の社会で育とうが南米やチベットの社会で育とうが関係なく確立されてゆくと思う。

 国境がなくなり社会の仕組みが地球規模になったとしても、家族や育った環境によって影響されて個性は確立してゆくと思う。

書かれていることは批判ばかりで、何を求めて旅をしているのか書かれていなかった。

私は登山をするためにチベット・ネパール・パキスタン・南米などを訪れている。そこには社会の仕組みや国という存在はない。形式として存在しても、私の中には存在しないのである。

私には「山に登る」という行為だけが存在している。日本の山であろうが他の国の山であろうが、登山という行為は一つである。

私は、こんな人生が他では得られないから登り続けていられる。この人たちのメッセージを読みながら、いまさらに思う。

 12月8日

 朝早く散歩するつもりであったが、さわやかな朝のせいで寝坊してしまう。バルパライソは海辺の町のため、朝は涼しかった。

 サンチェゴにアコンカグア登山隊の用件で出かける。帰りは午後6時頃になるだろうと言って出かけた。

 この時期は日暮れが午後9時頃なので、時間を気にせずゆっくりして来る。帰りが午後8時になってしまう。

 ナンシーは玄関にて開口一番『遅い!』と言って怒る。ちょっと遅れただけなのに、なぜ怒っているのか分からずシャワーを浴びる。この分では夕食は出ないだろうと思っていたら、夕食が用意されていた。しかもセルベッサ(ビール)があった。

 食事をしながらナンシーの小言を聞いているうちに、遅れたことを怒っているのではなく私のことを心配していることが分かった。

 始めのうちはまくし立てる言葉で理解できなかったが、日本のツーリストが時々襲われていると手でピストルのまねをしたとき、前後の言葉の意味が分かった。彼女は、私を心配していたのだ。遅れるときは電話をするべきであった。
 
 昨日あったばかりの外国のツーリストに、こんなに気遣ってくれた事に驚く。

 12月9日

 朝食の後、ナンシーが市内に行くので一緒に行く。タダシを連れて歩くのがたいへんなのでタダシの面倒を見てほしいと言う。私は両替をしようと思っていたので、ついでに両替所を案内してもらうことにする。

 最初に病院に行く。ナンシーが診察室に入っている間、タダシを抱きながら待っていると、いろいろな人から声をかけられる。言葉が分からないので「私は日本人です」と答える。しかし、みんなは気にしないで声を掛けながらタダシを撫でてゆく。そのせいか、タダシは泣かないでくれた。

次に両替所に案内される。入り口に両替屋が立っており声を掛けてくる。僅かであったがレートが良いので20ドル変える。混雑していたので、目の前で数えたお金を信用して別れる。
 
 歩きながらレートを計算していると、ナンシーが計算違いをしていないかと言う。落ち着いて確認してみると少し足りなかった。しょうがないとジェスチャーをすると、私を引っ張って両替屋のところに戻る。
 
 ナンシーは大変なけんまくでまくし立て、もう一度お金を数えさせた。そして、足りない分を取ってくれた。

彼女は、日本人はおとなしいのでカモにされる。気をつけるようにと言われる。それに、両替所には強盗が目をつけているので、たくさん両替しないようにと言ってくれる。

 両替の後、スーパーマーケットに行くと、すぐそばで銃声が2発鳴る。強盗であった。2人組みの強盗は車で逃げて行った。ポリスがマシンガンとピストルを構えながら来たが後の祭りであった。回りの人達は一時だけ注目したが、すぐ平常に戻る。

ナンシーに聞くと、クリスマス前は、お金のない人達が子供たちにクリスマスプレゼントを買ってあげたいため、お金持ちを襲う事件が起きるという。危ないので大金は持って歩かないように、カメラはザックに入れるようにと注意される。

 12月10日

バルパラソに来て以来、肌寒い日が続く。ここではネブリーナといい南極からの寒流であるフンボルト海流が近海を流れるため起きている。三陸海岸のヤマセと同じである。

午前中。ナンシーとセントロへ買い物に行く。私はタダシの子守をしながら彼女の後をついて行く。女性の買い物はどこも同じらしい。あちこち見てまわり、なかなか決めようとしない。結局、食料品を買っただけであった。帰りにパトリックの学校によりタクシーで帰る。

午後から、運動を兼ねて散歩に行こうとすると、パトリックが一緒に行きたいと言う。それではと、いつもより遠くに行こうと上に向かうと、上は危険だと手でピストルのまねをして注意してくれる。


 この辺りはベルナルド・オヒィーギンスという中産階級の住宅地で、上のほうには低所得者の住宅地があり、山の上にはイスラム教の人たちが住んでいる。

 この国はカトリック教の人達が多く、カトリック教が政治と経済に深く関わっている。金持ちは下のほうに住み、白人系が多い。

 イスラム教の居住区を避けるように山の上を2時間ほど歩く。山の上は見晴らしが良かった。

 イスラム教の居住区を過ぎてまもなくすると、道路の脇に沢山のゴミが捨てられてあった。パトリックに聞くと、この先にゴミ捨て場があるという。街の中や下の居住区はきれいなのだが、このように目のつかないところは汚い。この都市の一面を見る。とても残念であった。





 帰りにコスモスの花が咲いていたので2人で摘んでゆく。ナンシーに持って行くと、とても喜びパトリックにキスをする。私はテーブルに飾られた花を見ながらセルベッサを飲み、いい気分になった。


 
12月11日

今日は選挙なので、セントロの周辺は危険だと言う。午前中は家の近くで子供たちと遊んで過ごし、午後からナンシーの投票に付き合う。

投票場は事前に知らされていないので、警戒しているポリスと軍人に聞きながら行った。ここでは男性と女性の投票場が分かれている。しかも地区ごとに分かれているため分かりづらくなっていた。この仕組みは、投票場をテロから守るためらしい。

 今日の夕食は、ロベルト(ナンシーの兄)の家で焼肉パーティをすることになっていた。私も招待される。
 
 ロベルトの家は高台にあり、バルパライソの港が良く見える所だった。日が沈み港の灯りが輝きだすと幻想的な雰囲気になる。香港の夜景よりきれいであった。ナンシーとグリョニカ(兄嫁)に、クリスマスイブにまたここでパーティをしようと言われる。26日まで居る予定なので『OK』と返事をする。


 12月13日

セントロでクリスマスツリーを買ってきて、ナンシーと2人で飾り付けをする。ナンシーはとてもうれしそうに飾り付けをしている。周りの家を見ると、どの家庭でも窓際にクリスマスツリーを飾り始めていた。僕は真夏にクリスマスをすることに違和感を覚えながら、改めて南半球に居ることを実感する。


 12月15日

サンチェゴのエージェントに打ち合わせに行くと、登山隊からFAXが届いていた。
 
 登山隊は12月23日に来ることになった。それまでに買い物をするため21日にはサンチェゴに移動しなければならない。

 
 バルパライソに帰りナンシーに話すと、クリスマスに私がいないことをても残念がる。
 
 夕食のとき、パトリックは私の顔を見ながら口を尖らせていた。ナンシーも『ポルケ、ポルケ(なぜ)』と何度も言いながらむくれていた。



 夕食の後は、いつものようにパトリックと腕相撲をする。今夜はむきになって何度も向かってくる。



 12月16日

朝早くグリョニカが来る。

 ナンシーは、私がクリスマスイブにみんなと一緒に過ごせないと話すと、悲しそうな顔をして私を見る。

午後からパトリックとサッカーをして過ごす。

12月18日

昨日はサンチェゴに行き帰りが遅かったので子供たちと遊ぶことが出来なかった。今日は、タダシとパトリックと一日中遊ぶ。

12月19日

昨夜、重行さんがサンチェゴから帰ってきた。なぜかナンシーの機嫌が悪い。朝から口争いをしている。重行さんは犬の身体を洗った後、タダシと一緒に風呂に入る。しかし、パトリックとは入らなかった。

午後からみんなで買い物に行く。パトリックが私のそばを離れず案内してくれる。しかし、いつものようにはしゃぎまわることなく大人のように振る舞っていた。

12月20日

朝早く重行さんがサンチェゴに戻る。

ナンシーに、子供たちの前で重行さんと口争いをするのは良くないと話す。すると『彼は仕事、仕事で家に帰って来ない。子供と遊ぶこともない。何のために結婚したのか。私の相手もしてくれない』と私に対してまくし立てる。

今日もセントロやバザールにクリスマスの買い物に行く。帰ってくるとナンシーとパトリックからプレゼントを頂く。

12月21日

ナンシーたちとお別れの日である。

朝食後、ミクロ(小型バス)を家の前で待っていたが、パトリックが見送りに降りてこなかった。ナンシーに聞くと、部屋で泣いているとのことだった。残念であった。こんな別れ方をしたくなかった。

 パトリックには理解できないのだろう。楽しかった思い出だけを残して、勝手に去って行くなんて・・・。許せないと思っているのだろう。子供は正直である。


 パトリックは前の夫の子供である。甘えたい年頃なのに、重行さんに遠慮し母親にも気を使っている。家庭の状況を考えるとパトリックの気持ちが分かる。

 彼は、僕に父親に近い感情を抱いたのかもしれない。


家の前でナンシーとミクロを待っている時間がとても長く感じた。辛かった。待っていると切なさが増してくる。早くミクロに乗ってここを離れたかった・・・。

ミクロが見えた。ようやく離れることが出来る。すると、ミクロが止まる直前にパトリックの部屋の窓が開いた。

 パトリックは窓から身体を乗り出して大きく手を振ってくれた。うれしかった。ミクロに乗りながら『アディオス』と言いながら手を振った。

 ナンシーに笑顔が戻り、私に微笑んでくれた。

 さよなら、ナンシー。さよなら、パトリック。



 今までにない出来事であった。地球の裏側で初めて会った人達と一緒に暮らし、家族のふれあいを教えてもらった。

 世界の至る所に家族が居て、この世界が有るということを教えてもらった。




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