山旅人の思い
護美のこと

家族の絆

パキスタン・フンザの旅

モハンダイハウスでの事

友を弔う旅の中で

ディープブルーの光

ふるさとの山・川を考える

ゴサインクンドの叫び

ヒマラヤの大地に埋もれて

私からあなたへ


マカルーBCに咲くブルーポピー




護美のこと

ゴミのことで、講演会で質問されたことを思い出す。

 「あなた方は、遠征隊で使ったものはどうしましたか?使用したロープは回収しなかったのですか?」

 私は「持って帰れるものは、できるだけ持って帰り残ったものは燃やして氷河の中に埋めてきました。ロープについては他の隊も利用しており回収は考えなかった。私たちが最後であっても回収は不可能です」と答えた。

 ゴミとは何だろう。環境を守るとは何だろう。

 日本の山々では、奥地まで道路を作り、山小屋を作り、ゴミや排泄物を1ヶ所に集めてどこかに持って行く。沢山の人達は整備された道路と山小屋を利用し自然と触れ合う。

 ヒマラヤの山々も、そうなってきている。沢山のトレッカーのためにロッヂが出来て、トイレも常設されるようになった。訪れる人は数万人単位である。そこに住む人達にとっては良い現金収入源の場となり地域の活性化となっている。

 しかし、私たちの登山はこのようにはゆかない。人里離れた地域でテントを張り、1ヶ月以上滞在し登山活動しなければならない。一般化された地域と違い、年に5〜10隊程度しか入らない。人数は多くても200人位である。ゴミの処理は私たちで行い、できるだけ持ち帰るようにしている。しかし、それでも残ってしまう。特に排泄物についてはどうしようもない。

 私たちのしていることは環境破壊なのだろうか。私たちの行為は冒険的行為と言ってみても、理解してもらえない。止めれば簡単である。悩む必要はない。しかし、止めることは出来ない。

 道が出来て山小屋が出来て沢山の人間が入り込めるような山登りは、環境保全を考えると納得出来ない。

 生き物たちの生態系を考えると、先進国といわれる人達は、自分たちの都合のいいように開発してきている。自分たちに不便であれば『だれもが自然と触れ合うために』という名目で開発してしまう。見た目に汚いものは覆い隠してしまい、不必要なものはゴミとして限りなく放出する。

 人間側の見た目できれいであれば良とし、汚く見えれば悪としている。見る人間の価値基準で変わってゆく。見る人間の地域差によっても変わってくる。

 しかし、そこに住む命は与えられた環境の中で生きている。人間の価値基準によって生かされているのではない。全ての生命は、様々な生態系に影響されながら共に生きている。

 私たちは何をすべきだろう。『知恵』ある人間は何をすべきだろう。

ギブソンの唱えたアフォーダンス論は大量消費社会の行過ぎたアメリカの産物であるが、古来の日本人が大切にしてきた自然を崇拝する考え方と同じである。それに、ヒマラヤなどの奥地に住む人々の生き方に通じるものがある。

ギブソンが示唆するように、我々の行為が適切であるかどうかは、人間も含めた環境全体を考えて判断すべきである。

世界中で行われている戦争、豊かさを求める開発。物質的豊かさのみを追求して、見た目の清潔さ快適さにとらわれて他の命を脅かしている。

破壊される森と大地。やがて私たち自身に、そのつけが回ってきて社会問題となり、環境保全、ゴミの処理と騒がれている。それも、人間たちに都合のいいように。そして、その中で私たちの登山も批判される。

私たちの登山は、登るために半永久的な道を作ったり山小屋を望んだりしない。与えられた最小限の行為によって登らせてもらっている。そして、人間の中にある他の生物とは違う欲求を得るために、争うことなく他を破壊することなく、未知への探究心と私自身の可能性を追求するために登らせていただいている。都合の良い理屈になってしまうが、止めることはできない。

その上で考えたい。美しさを護るにはどうしたら良いのか、地球という大きな生命体を守るにはどうしたら良いのかを考えたい。

 そして、日本が世界で最も豊かな国なのに、なぜ豊かさを実感出来ないのか、何を求めて生きていたいのか、何が幸せなのかを子供たちに伝えてゆきたいと思う。

1994年12月記

Top



家族の絆

 家族は社会の最小単位といわれる。私たちはその中で育ち沢山のことを学習してきた。

 日本の家族制度は戦前にあった直系家族制から戦後は夫婦関係制に変わり、夫婦家族は父から長男へと永続されるものから結婚によって生じ死亡によって消滅する一代限りの家族制となってしまった。

 従来の家族制は封建的であったため民主的な欧米の家族制を取り入れられたものと思われる。

 しかも日本の政府は、狭いウサギ小屋から脱却し豊かさを実感するためと、全ての人に一戸建て住宅を提唱してきた。それにより、古くからある『家』という風習はしだいに失われてしまい、世帯の核家族化が進められてしまった。

 今や、おじいちゃん・おばあちゃんが一緒に住んでいた家は失われてきており、『家』という制度の良いところも失われようとしている。

 現在の日本社会は、物に溢れて豊かになったため、お金さえあればだれにも頼ることなく生きてゆけるようになった。若い世代も老いた世代も自分たちの『殻』の中に閉じこもり他人はおろか家族の中でさえも互いの関わりを持とうとしなくなってきている。今や社会の最小単位である『家』は大きく変わろうとしている。

 生まれてきた赤ん坊が、人と人とのつながりを学ぶのは家族の中から始まる。お父さん・お母さん・おじいちゃん・おばあちゃん、それに、お兄さん・お姉さん・弟・妹たちなど家族が大きければ大きいほど、より社会的形態をとる。そこに育つ子供たちは、戦いながら、助けあいながら様々なことを学び大人になってゆく。

 しかし、『家』という形態が小さくなってきている現在、そこに育つ子供たちはどうなってゆくのだろう。しかも、よき伝統であった家族の『絆』はどうなってしまうのだろう。

 私は、辺境の地を訪れるたびに、多くの家庭に老人がいることに気がつく。日本も嘗てはそうであったように、物が豊かでないときは、お互いを必要とするために、お年寄りを大切にして子供を頼りとして互いに助け合い気遣いながら生きてきたと思う。良き伝統は、そんな環境から育まれていったはずである。

 それが、物が豊かになるにつれて失われようとしている。今や世界で最も豊かな国になったといわれるが、政府は、未だに豊かさを実感できない、全ての人に1戸建て住宅という。そして、今ある大切な家を壊し、家族の『絆』さえも壊そうとしている。

 このままでよいのだろうか。良き伝統は、家族の絆はだれが守るのだろう。しかも、豊かさを得るために世界中の山と森から資源を採取し破壊し続けている。際限のない欲望は、それが豊かさだと思い描いて・・・。

 私は辺境の地に住む人々を見ながらこう考えてみた。もし、今ある家を大切にして、家族が一つの家に住むことが出来たならどうなるだろうかと・・・。

 おじいちゃん・おばあちゃんを大切にしている家族と共に住む家庭に育つ子供たちは、家族の中で愛情を知り、社会の仕組みを知り、人として育ってゆくのではないだろうか。そしてさらに、助け合いながら共に生きることを知り、利己的になりがちな人間の欲望から守られて、ほんとうの豊かさを実感できる人間に育ってゆくのではないだろうか。

 そう、大切な家族の絆を守り、共に暮らしてゆくことが出来たなら、社会の世界全体の絆を守ることになるのではないかと考える。

1996年2月記
TOP


パキスタン・フンザの旅


 フンザの旅は私の憧れであった。4〜5年前にテレビで紹介ざれたとき、その風景とそこに住む人々がとても印象的で、いつの日か訪れてみたい場所になっていた。

 荒涼とした山間の中に広がるオアシスの町は桃源郷のようであり、私が思っていた通りの所であった。それまでの地域と違い人々の姿が穏やかに見える。声をかけてくる子供たちも、姿を見せる女性たちも同じ国の人々とは思えないほどやわらかな表情をしていた。

 この地の出身者であるMr.ベイクからきいたところ、富めるものはより多くのお金を差し出し、病めるもの、貧しきものはできる範囲で差し出し、アーガン基金として蓄え、そのお金を学校や病院などを建設する全体の福祉として利用しているとのことであった。そのため、この地では税金を徴収していないとのことであった。まるで宮沢賢治の言っているイーハトーブのようである。

フンザワインを囲んで

異国の地での旅のせいか飲めば飲むほど饒舌になる

僅か一週間ほどの旅なのに気心がふれあい沢山のことを語りあった

ただひとりの人とさえ心を打ち解けあうには長い時を必要とするのに

僅かな時のなかで多くの人達と心が通じ合うことができた

楽しいひと時でであった

フンザの国の夜のひと時である


旅は心を豊かにしてくれる

旅はそれだけでいろいろなことを語ってくれる

フンザの旅はそれをよく物語っていた

1996年8月記

Top



モハンダイハウスでの事(苦言・諫言)

  昨夜の事である。

 日本のカメラマンが子供に写真を撮らせてくれと頼み「写真を撮ったのにアメ玉1個しか与えなかった、10ルピーでも与えたらよかったじゃないか」とモハンダイが話したので、「仕事で写真を撮ったならお金を払うべきだが、乞食のように『パイサー、ミタイ』とすがってくる子供たちは、ただお金をくれと言っているので良くない」と話した。

じつは、心の中でたかが写真一枚で『パイサー、ミタイ』というのは乞食みたいな真似ではないかと思っていた。そう言うと角が立つと思い、単にお金だけをくれというのは良くないと話を替えて話した。

すると、モハンダイは「私もそう思う。ただでお金をもらうことは良くない。そんなことを覚えると仕事をしなくなる。ただでお金をもらい遊んでいるのは、浅ましい」と言った。

その時である。突然のように、その『浅ましい』という言葉が私に返ってきた。

自分はどうなんだ。年の半分も仕事をしないで会社の世話になり、しかも、ヒマラヤに行くたびに沢山の人達から餞別を頂いてここに来ているのではないか。私とその子供と、どこが違う。同じではないか。まさに、浅ましい姿ではないかと。

私は常々、自分の生き方を通して子供たちに多くのことを伝えたいと言ってきた。社会の枠の中に納まることなく世界中を見よと言ってきた。しかしそのとき、理想は立派でも現実の姿はどうだろうと思ったのである。

私は、昨年から会社での待遇が良くなり、半年も仕事をしないで山に行って良い状況になった。そのことをある人に話したら『売名行為』またある人は『そのお金の半分は俺たちに』と言われてしまった。冗談なのだろうが、ショックだった。

何でそんな言い方をするのだろう。私はヒマラヤに『登りたい』という単純な気持ちである。それに山での時間を優先するために、最小限の時間を働き、生活を切り詰めながら貯えてヒマラヤに来ている。それなのに、何でそんな言い方をするのだろうと考え込んでしまい、自分の生き方に迷っていた。

 それが、昨日の『浅ましい』という言葉で、その謎が解けたのである。そうなのだ、みんなの世話になりながら今こうして登山を続けられるのに、自分に都合よく考えていたのだ。それはまさに『浅ましい』ことなのだ。

 自分を納得させる答えを見つけようとするから迷うのである。無理に理屈をつけようとするからおかしいのだと思った。

写真を撮られた子供が『パイサー』と言ってきたことに対し、写真を撮る側のモラルが貧弱であったため、ただ単に『パイサー』と乞食のようにねだる子供を『浅ましい』と決めつけていたのは私自身であった。

私は、モハンダイが話してくれた人の道の本質をわかっていなかったのである。モハンダイのおかげで見かけだけの姿を気にして、見かけだけの理屈を考えていた自分に気がついた。

 昨夜の出来事は、私を諌めて諭してくれた出来事であった。

1997年3月記

Top



友を弔う旅の中で

 1997年3月〜4月にかけて、リスム峰遠征の前にポカラで亡くなった友人を弔い、その足でアンナプルナ内院を歩いたときの思いです。

カトマンドゥ・モハンダイハウスからポカラへ出発の朝

 今日からアンナプルナ内院へ行く。先ずポカラで門田さんの冥福を祈り、私の心を整理してゆこう。そしてアンナプルナ内院に行き、これからのことを考えなければならない。回りのことにとらわれないで一人になって考える時間が必要だ。

 お手伝いのスクウが起きて入り口を開けてくれる。朝もやの中を一人で歩いていると、ちょっとセンチメンタルになる。そして、一人でいるという自覚が出てくる。

 『感傷的になってはいられない。自分でやらなければ・・・、自分がやらなければならない』と言い聞かせる。この旅で自分を変えたいと思っていたが、もう迷いはない。私の歩くべき道は決まっている。

 日本にいるときは苦しかったが、早めにカトマンドゥに来て良かった。自ら行動することによって、煩っている自分を消滅させることが出来た。

 昨夜、Mr.マットとモハンダイに、私たちが地球に生かされていることをチベットやネパールの奥地に住む人々に教えられたことを話しながら、私がやるべきことを思い出したからだ。

 彼らとは、お金の意味について、宗教について、人間たちの無秩序な行動(開発・戦争)について、人間が地球の一部として存在していることの自覚について、全ての生き物たちとの共生について話し合う。

 そして、人は弱いものだ。だれ一人、ひとりでは生きてゆけない。だから互いに助け合う必要がある。人間たちだけでなく、全ての生き物たちと助け合わなければならないと一致した。

DEURALIにて

 ヒマラヤに降る雨は身を切るような冷たさだ。暖かい日差しが恋しい。昨日までのまどろむような天気は期待できそうもない。今日は早めにロッジに入ろう。雨と風に耐えて歩くほどつまらないものはない。

 ここから雲が切れて青空が見えるのだが、谷間の向こうは雪模様だ。歩いて3時間ほどでしかないのに、冬と春を同時に現している。とてもミラクルである。
 
 この地に住む人達は、季節の移り変わりを瞬時に受け止めている。動物的といえるほど鋭い感覚である。私のように山から降りてくる感覚とは違う。日常の変化である。
 

 しかも
DEURALIからDOVANの間には、幅200m以上もの雪崩の通り道がある。高度さ1000m以上もある岩壁から落ちる雪崩はすさまじく、山津波のように谷間に流れ込む。
 
 小さなスキー場であれば一度の雪崩で飲み込まれてしまうだろう。そんな雪崩が昼夜を問わず何度も起きている。

 ここに住んでいる人達のたくましさに敬服する。



雨の中に咲いているラリグラスは生き生きとしている

私にとって厄介な雨も他の生き物たちにとっては恵みの雨なのだ

この事実を漫然として受け止めるのではなく理解することが大事である

様々な状況の中で私たちは生きていかなければならないが、人間たちが無理に作り出した

人間達だけの葛藤以外は全て摂理である

私たちは自然の摂理を見つめなければならない

悩める人々は自然の摂理を見つめることだ

そこに求めるものがある

生きとして生ける者たちのシャングリラ

それは捜し求めるものではない

よく理解することだ

シャングリラは心の中にある


CHHOMRONG  PANORAMA  にて

 旅はいい、何ものにもとらわれずに歩く旅はいい。だれのためでもない自分の旅はいい。無理して登ろうと期待に応える登山は自分を見失ってしまう。今の私が本来の姿なのだ。それを忘れずにゆこう。

カトマンドゥ・モハンダイハウスにて

 当たり前と思われていた日本での日常を忘れてこの地に来ると、求めていた自分を発見する。忙しさに埋没し日本での事が全てだと錯覚していた私が、いかに無知であったかを知る。今回のたびは、私に光を与えてくれた。                                 


1997年4月記

TOP



ディープブルーの光


 「無数の星の中に輝くディープブルーの光、これは私たち人間だけのものではない」カールセーガン氏がボイジャー1号より太陽系の端から地球の方向を写した写真を見せながら話した言葉である。

 私は南米の山でその言葉を思い出しながら、その光の中に未来を託す子供たちの姿が見えてきた。そして、次のような言葉が出てきた。

子供たちよ、なぜそんなに急ぐ

まだ見ぬ世界が沢山あるのに、そんなに急いでどこに行く

多くのものを見て経験して、そこから生まれる君だけの世界を

これからいくつも創造できるというのに

そんなに簡単に決めてしまってはいけない

これから先、辛いこと苦しいこと沢山あるかもしれない

でも、それは君だけではない

山や森、公園に咲く花を見てごらん

そして、そこに生きている沢山の生き物たちを見てごらん

あんな小さな虫でさえも一生懸命生きているじゃないか

山や森、公園に咲く花は限られたときを精一杯咲いているじゃないか

君だけではない、幸せそうに見える僕だって同じさ

生きよう精一杯生きよう

生きて君だけが創造できる世界をつくり、みんなに教えてあげよう

生きてゆくことの大切さを

決してひとりでは生きてゆけないことを教えてあげよう

もう君ひとりではない

みんながいるんだ

そんなに悩まないで話してごらん

必ずわかってくれる人がいる

必ず聞いてくれる人が、そばにいるから

話してごらん


僕は、この言葉を思い浮かべながら、いつの間にか、地球に住む子供たちの姿を思い浮かべていた。いじめに悩み自殺しようとしている子供、決められたレールから外れないように必死になっている子供、戦争や災害で夢や希望を失っている子供たちの姿である。

 そして、この地球をもっと歩こう。自分の目で見て確かめて、生きていることのすばらしさを、地球の未来を託す子供たちに伝えてゆこうと思った。              

1997年12月記

Top



ふるさとの山・川を考える

 

ある交流会場のことである。3人のパネリストが演壇の上で、この町のこれまでの歴史とこれからのあり方を語っていた。その中で、彼らは過疎化する町を活性化するため『経済的豊かさが必要だ』そのためには『施設が必要である』と強調していた。

彼らの話を聞きながらハイゼンベルクの言葉を思い出していた。

部分と全体、複雑から単純、そして、その繰り返しの現世界

極から分散、散らばりから集中。家族社会から世界全体への物理的現象

我々の生態も含めて、生き物たちの世界は離合集散を繰り返している。その中でカオスが生じコスモスが生まれる。ギブソンが唱えたアフォーダンスン論とは違う道筋で出てきた。ハイゼンベルクの唱えた素粒子の振る舞いから導かれた思いである。

彼らの言う地域作りに、なぜ、過疎だから地域活性が必要なのか?なぜ、開発行為が必要なのか?彼らの言う『まほろば』の意味が『おだやか』と言うのであれば、この地に作られてきた『山、川』とそこから見える『空の広がり』を残してゆくべきではないだろうか。

 施設を沢山造り、一時的に金回りが良くなっても何の解決にもならない。地球という全体を見て、我々の行為が正しい選択肢なのかを考えなければならない。

この町に限らず、私たちに残された『ふるさとの山と川』は、経済優先の物社会に利用されてゆくだろう。今一度考えなければならない時ではないだろうか。

1999年1月記

Top



ゴサインクンドの叫び

 ネパール・ヒマラヤにある108つの湖が点在するというヒンドゥ教の聖地ゴサインクンドを回り、首都カトマンドゥに戻るためにバスの始発地であるシャブルベシに泊まったときの事である。

 ロッヂで休んでいると、ガイドから一人旅の日本人が隣のロッヂで行方不明になったと話してきた。さらにアメリカ人のミッシングポスターを見ながら、ポリスたちの話によると、ガイドなしで来る旅行者は狙われている。彼らは殺されてしまったのだろうと言った。

 それを聞いて、数年前にアンナプルナエリアのチョムロン村で行方不明になった一人旅の日本人女性の事件を思い出した。その女性はガイド料金のことで言い争いになりガイドと別れてしまい、一人で旅を続けていたときにチョムロン村で行方がわからなくなったのである。おそらく持っていた金目の物は取られてしまい殺されてしまったものと思われる。

 なぜなら、彼女のものと思われる装飾品を村人が身に着けているという噂が広まっていたからだ。

 そんなことを思い出しながら眠ったせいか、次の日の朝『私が何をしたというのだ!』という声が聞こえてきた。

怒り

私が何をしたというのだ

あなたが持っているものを見せて欲しいと思っただけさ

あなただけが良い思いをして見せびらかさないでおくれ

あなたは沢山持っているのだから一つくらい良いではないか

私の妻が、私の子供が欲しがっているじゃないか

私はちょっと見たかっただけなのに何をそんなに怒るのだ

私はこの家の主だ

私のプライドを傷つけたお前をゆるさない

神様もゆるしてくれるだろう

こうしてくれる!

お前は我々の敵だ!

 

喜び

私はうれしい

妻があんなに喜んでいる

子供もこんなに喜んでいる

我々の神は何て慈悲深いのだろう

こんな私をゆるしてくれる

これらは神様からの授かりものだ

みんなに話してあげよう

私たちだけが良い思いをしてはだめだ

私たちだけが良い思いをすれば、私たちが殺される

 

嘆き

ああ、なんということだ

妻が、子供が私を責める

あれが欲しい、これが欲しい、次は・・・

もういいではないか

そんなに欲しがってはだめだ

私は疲れた

もう無理だ

 

どうしたというのだ

どうして私を避ける

ああ、妻が去ってゆく、子供も行ってしまった

 

なぜなんだ

なぜこんなことになってしまったんだ

私が何か悪いことをしたというのか

 

神よ、あなたは慈悲深いはずだ

私に救いの手をさしのべてくれ

私を見捨てないでくれ

 

 私たちの社会は自ら作り出したシステムに翻弄され苦しんでいる。貨幣社会は封建社会から自由社会へと導いたが、ほんらい求めていた平等社会は、いまだにほど遠い。マネーによる現在の社会システムは新たな体制を作り出してしまい、人間の自由を損なってしまった。

 そして、後進国といわれる国々は物に溢れる私たちの世界を見て、憧れ、それが幸せの世界と夢みている。

 どんなにすぐれた社会体制を作り出しても、そこに住む人間たちが自らの欲望を抑えなければ何の意味もない。先進国の物社会のツケが世界の至る所に出てきている。

 このままでいいのだろうか。未来を担う子供たちに伝えられる事は、尽きることのない人間たちの振る舞いの結末だけなのだろうか。何を伝えていったら良いのだろうかと考えてしまう。

 私は、子供たちが自然に触れて自分たちの住む世界のことをよく考えるようになって欲しいと思っている。物にあふれる世界の中で、何が大切なのかを考えて欲しいと思っている。そのために、自らの足で歩きそこで感じたことを子供たちに伝えながら、共に考え、共に歩く理想の社会を夢見てきた。

 本当にこれで良いのだろうか、ここで感じたことは物に憑かれた悲惨な結末であった。伝えることを失ってしまい理想だけが空回りしている、私であった。

2000年5月記

Top



ヒマラヤの大地に埋もれて

 私は、2001年秋のマナスル登山で遭難した。マナスル峰から10月16日に救出され、17日には日本に帰国し盛岡の栃内第2病院に入院出来た。多くの方々のおかげであった。

 しかし、一緒に登っていた山の仲間が死んでしまった。あの時から、どうしようもないもどかしさが私を巡っていた。

 生死の狭間で、死に行く友と過ごした4日間は悲しみという感情を喪失させてしまった。自分を見失ってしまった。
 
 病院の中でリハビリの順番を待っていた時、外の雪景色を見ていたら、あの時のことが突然、目の前に浮かんできて言葉になった。


ゆっくりと刻む時の中で

このまま大地に眠るのだろうか

まだ指先に痛みを感じるがどうでもいい

生きることも死ぬこともどうでもいい

このまま静かに闇に包まれていたい

マイナス40度

湿度0パーセント

透徹した大気の中で私は巡る


いつの間にか眠ったようだ

夜明けの寒気に目が覚める


静かだ

静寂が私を包む

テントをたたく風の音がどこか遠くのことのように思える

流れ落ちる雪の音が聞こえない

ただ感じるだけだ

静けさが私を包む


空が明るくなってくる

やがて暖かい光が差すだろう

やわらかな大気が私を包んでくれるだろう

まちどおしい


日が昇る

朝日がテントを包む

やわらかな暖かさが私を包む

静かに眠る仲間のそばでほんの少し希望が見える

あきらめなどはない

きっと彼らは来てくれる

信頼は真実となって現れてくれる


のどが渇く

乾いた雪をプラスチックのボトルに詰め込み溶けるのを待つ

じっと待つ


やがて溶けて湿ってくる

暖かい日が差しているうち取り出してしゃぶりつく

口の中に吸い込まれてゆく

あっという間に無くなる

また雪を詰めて溶けるのを待つ

僅かな時がとても長く感じる


風が出てくる

助けに来てくれるだろうか

幻聴と分かっていてもヘリコプターの音が聞こえる

再び凍える闇に包まれるだろうか


明日の朝・・・

目覚めることが出来るだろうか


もし闇夜が私を導いたとしたら・・・


それもいい

それも心地いい

ヒマラヤの大地で眠ってしまうのもいい

苦しくはない

静かな眠りがあるだけさ


生きることも死ぬことも

どちらでもいい


明日の朝・・・

この大地が私を必要としたなら

きっと朝の光に目覚めるだろう


そんな思いが私を巡る

2002年2月6日記

Top



私 か ら あ な た へ

  私は、この世に何一つ不必要なものはないと言ってきた。存在するもの全てに意味が有ると。私自身はどうだろう。私の存在に意味が有ったのだろうか?

 私は何一つ見出せないでいる。今の私には未来を担う子供達の姿が見えない。蠢くもの達の姿しか見えない。理性と知性はどこに行ってしまったのだろう。

 日記を書き始めると、思い詰めていたものを吐き出すように、次々と現れる言葉を手帳に書いていった。


彼の地へ行くことも

再び甦ることも

魂となって彷徨うこともなく

死を受け入れたい

私という存在がこの地に存在できた

そのことに感謝したい

そしてあなたに伝えたい


生という営みを良く享受しなさい

自分という存在に気がつきなさい

自ら求め 歩きなさい

相手を思いやりなさい

決して傷つけてはいけない

感情に振り回されてはいけない

良く考えなさい

ほんとうに求めるものが見えます

あらゆるものを感受出来ます


未来を担うあなたへ

伝えたいのはこのことです

2002年9月10日、モハンダイ宅にて

Top


ホーム       プロフィール       旅の記録