トロンパスを超えながら『部分と全体』を読む旅

インドヒマラヤに行く前に、ネパールにて、高所順応を兼ねてマルシャンディからトロンパスを越えたときの旅の記録である。

1999年6月20日 日本⇒上海空港⇒KTM(カトマンドゥ)         

関空にて搭乗手続きを終えて、出発までの間、ハイゼンベルク氏の『部分と全体』を読み始める。あとがきに、この本は「科学と哲学、そして、さらに深く物事の本質を人々に考えさせるように書く」と書かれてあった。とても興味深い言葉であった。この本は何か大切なことを示唆してくれるのではないかと思った。

 日本を出発して、2時間30分で上海空港に着く。空港の中が随分と変わっていた。待合室から見る
フロアは日本のデパートのように沢山の商品で溢れていた。空港から見る外の様子も変わっていた。

 民主化政策が浸透してきたのだろうか、彼らを見ていると激しい息づかいを感じる。


 自由経済がこの社会にもたらしてくれるのは、民主主義であって、ブルジュア的志向を進めるものであってはならない。

 拝金主義になってはならない。お金優先の物社会になってはならない。心の豊かさを失ってはならない。


 定刻よりやや早くKTMに着く。空港には、いつものようにモハンダイが迎えに来てくれた。

 6月21日 KTMにて

 朝食の後、三本教授から西ネパールの農民たちの様子を聞く。

 西ネパールでは、カーストの高いブラーマンたちが広大な土地を所有し、カーストの低い民族は小作農として従事している。いまだに封建的な体制のままである。多くの人達は地主に搾取されている。しかも、満足な学校や病院がなく、苦しい生活を余儀なくされている。そのため、マオイストと呼ばれる人達が現れてきた。マオイストは、政府に抗議するためと言い、警察署などの建物を襲っている。

 そして、扇動された若者たちは、それだけでは治まらず、略奪を行っているという。


 暴力によって進めた改革は悲惨な運命を辿る。

 ハイゼンベルク氏が言っているように、どんなに崇高な目的であっても、その手段が暴力的で卑劣なものであるならば、その行為は目的にかなわない。

 過去の歴史が物語っているように、結果として、憎しみと苦しみしか残らない。


 三本さんと話しているうちに、西ネパールの経済社会を動かしているハイカーストの人達と、裏社会のボスである国王の弟と国賊たちの悲惨な末路が私の脳裏をよぎっていた。

 午後からコスモトレックに行き打ち合わせをする。夕方に帰ってくると盛岡の伊東さんと大津さんから電話が入る。2人は、私がこちらに来るといつも電話をくれて励ましてくれる。『ありがとう』と感謝の気持ちで一杯になる。

 今夜もまた三本教授とロキシーを飲み、語り合う。シェルパ社会から昨今の大学生事情・大学体制について、環境問題からアフォーダンス論による人間たちの行動様態について、心の問題から認知科学と八正道との比較など尽きることなく話が弾む。

 三本教授は哲学と心理学を専攻してきたが、現在はネパールの民族と社会を研究している。明快な言葉が私を楽しませてくれる。

 モハンダイハウスでは、三本教授に限らず、いろいろな人達が語り合う。ここは日本の民宿のような雰囲気があり、モハンダイを慕って訪ねてくる。ここでは日本での肩書きは無縁で、その人自身が尊重される。息が合うと語り合う。他のホテルとはひと味違うモハンダイハウスである。

 6月24日 KTM⇒ベッシャール

 午前5時45分、モハン宅を出発。タクシーを拾い。コスモトレックでガイドのチェトさんを乗せてバラジュのバスパークに行く。ツーリストバスの乗車場と違い、大勢の人達でにぎわっている。

 午前6時30分、ポーターのプラカッシュさんが来る。3人が揃ったのでチケットを買い、バスを探して乗る。出発を待っていると若い女性がカードを配り始めた。カードには「恵まれない子供たちに寄付をして下さい」と書かれていた。カードを回収にきたとき50ルピーを添えて渡す。

 午前7時25分出発。バスは所々でお客さんを拾ってゆく。通路まで一杯となる。その中に、ひどく弱々しい年老いた女性が乗ってきた。座席は息子と思われる男性がバスパークから乗って確保していたが、バスの中は暑苦しく乗り心地が悪い。病人には大変こくな状況である。

 1時間ほどでラルケに着き休息をとる。ここで軽い食事をする。先ほどの年老いた女性のことが気になったのでチェトさんに聞いてもらう。すると、年老いた女性は自分の生まれ故郷に帰るということであった。

 私は、とても弱っている身体なのに大丈夫なのだろうか、しかも、乗り心地の悪いバスに乗ってまで行かなければならない事情があるのだろうか、いったい何がそうさせるのだろうかと気に掛かってしまう。

 ラルケを出発して2時間位経ったとき、突然、年老いた女性が苦しむ。バスは一時停車をする。乗客たちは、その女性を後ろの窓際に移動させて落ち着かせる。そしてまた出発した。しかし、凸凹道のため後の座席は乗り心地が悪く、結局もとの座席に戻ってしまった。依然として具合は良くならず、吐き気を催していたが、バスは止まらないで走り続けた。

前の席の男性が、老女のことを気にかけて、ミネラルウオータの入ったペットボトルを付き添っている息子に渡す。息子は、母に水を飲ませようと口元に持ってゆくがだめであった。しかたがなく、母親の背中をさすり、額の汗を拭き、苦しみをやわらげようと一生懸命介抱していた。

 母親は息子にもたれかかり苦しいのをじっと耐えていた。そしてやがて静かになり眠ったようであった。

 しばらくすると、老女の様子がおかしいのでバスを止める。前の席の男性が様子を伺うと、年老いた女性は死んでいた。おもわず、乗客たちは息子に声をかける。息子は答えることが出来ずに、小さな母親を膝に抱えながら、声を殺して泣いていた。

 運転手が、ドゥムレで昼食を取る予定であったが、もう少し先に行きますと告げ出発した。乗客たちは静かに2人を見守っていた。

 彼らは、このような死を日常の出来事として捉えているのだろうか。死者に対して恐れはなく静かであった。

 ボッテオラードに午後12時に着く。ここで2人は降りた。チェトさんに尋ねると、この年老いた女性の村は、ここから歩いて丸一日掛かるという。そして、この年老いた女性は「生まれ故郷に帰りたかった。故郷で死にたかった」のだと言った。

 ベッシャールに午後1時30分に着く。まだ早い時間だが、ここに泊まることにする。5年ぶりに訪れたこの村を散策しながら今日の出来事を思い浮かべてみた。


 人間の死が特別なことでなく当たり前の出来事として捉えている人々の姿を見る。死を悲しむが恐れることなく受け入れている。死を日常の出来事として受け入れている。
 
 私たちの社会では、病院で生まれ病院で死んでゆく。死ぬことに恐れ必死になって抵抗し一分一秒でも生かそうとする。

 病人の希望は無視されて、健康に生きている人達の都合で病院のベッドに縛り付けてしまう。

 死んでゆく人間の尊厳は無視され、カーテンの中に閉じ込めてしまう。死んで逝く人の思いはシステムの中で処理されてゆく。
 
 なぜだろう?なぜこんな風に考えてしまうのだろう?死んで逝くことの意義を深く考えさせられてしまう出来事だった。


 6月30日 トロンフェディにて(標高4,400m)

 ベッシャールを出発して6日目に着く。一昨日までは雨模様であったが、昨日から晴れる。ヤクカルカから3時間でここに着く。

 昼食の後、高所順応とブルーポピーの撮影を兼ねて上部のロッヂまで行ってくる。その後『部分と全体』を読む。


 ハイゼンベルクの本は、私を退屈にさせない。この本を読みながら思考することが楽しい。

 決して快適な場所でないのに、限られた時間の中で読むことに満足し思考することに満足している。

 4,400mの高度の中で、不快な状態であるのに、次のページをめくるのが楽しい。それほどこの本に書かれていることが興味深い。


 
 (ブルーポピー)

 7月1日 トロンハイキャンプロッヂにて(4,800m)

 花の写真を撮りながらゆっくりと登る。1時間30分ほどでトロンハイキャンプロッヂに着く。今日は高所順応を高めるためにトロンパスを超えずに、ここに泊まる。今日もまた、順応を兼ねて写真を撮りに行く。しかし、雨が降ってきたので、あまり上部には行かず、無人小屋から引き返す。

 昼食を取った後ベツトで横になっていると、頭がぼんやりしてくる。今のところ顕著な頭痛はないが、頭の回りをハケのようなもので触られているような気がしてくる。手術をした頭の傷が疼いてきた。きっと悪天の知らせと高山病の初期症状である。今夜は辛い夜になるだろう。

 7月2日 トロンハイキャンプロッヂにて⇒カクベニ

 昨夜は頭が重苦しくて眠れなかった。シュラフを畳んでいると吐き気を催す。とにかく身体を動かしかった。

 歩き始めると頭痛がなくなる。何の不安もなくトロンパスまで登る。2時間で最高地点(5,400m)に着く。


(トロンパス)

 ムクティナート(3,800m)で昼食を取り、カクベニまで来る。思ったより早めに着く。無理をすればジョムソンまで行けるが、この村の雰囲気が良いので、ここに泊まることにする。久しぶりにシャワーを浴びてビールを飲む。ビールがうまい!


(ムクティナート)

7月3日 カクベニ⇒ツクチェ

 カクベニからジョムソンまでカリガンダキ川沿いを歩く。道筋が幾らか変わっていたが全ての景観は5年前と同じであった。風化した岩肌と渇いた大地は雨季というのに砂塵が舞う。マルファで昼食を取りツクチェ村に午後1時30分に着く。
 
 この村も5年前のダウラギリ1峰登山以来である。道路の石畳がきれいになっていたが、以前と変わらぬ雰囲気は残っていた。常宿にしていたヒマールロッヂもあまり変わっていなかった。部屋のベツトに横になり天井を見上げると、相変わらず垂木がむき出しになっていた。

           
 1991年のツクチェピーク登山から1994年のダウラギリ1峰の登山まで、4年間の思い出がここにあった。

 7月4日 ツクチェ⇒ダナ

 ツクチェからカロパニまで、どしゃ降りの中を歩く。カロパニで昼食を取っていると雨が弱くなる。レティの下りから雨は上がり、ダナに着くころは日が射して蒸し暑くなる。

今日は雨と汗で不快なはずなのに、そんなことを気にかけず、ブッタの教え諭した八正道・四聖諦について対話形式で考え始める。部分と全体を読んでいたせいか、末法の時代に考えが及ぶと、いつの間にか素粒子の振る舞いと宇宙の成り立ちとが重なってしまった。


 結局、粒子はエネルギー体の様々な有り様である。

 その作用と反作用が、結びつきと分離を繰り返し、創造と消滅を繰り返すのであれば、ビックバン説は狭い宇宙観でありフレッドホイルの定常論は広義の意味での宇宙観である。

 フレッドホイルの方が本来の宇宙の有様を示しているのではないかと思う。

 つまり、宇宙全体はゆらぎの中で、それぞれの宇宙が収縮と膨張を繰り返し、様々な世界を創造し消滅させているのではないだろうか。

 そこに現れる宇宙は有限の世界を作り出すが、私たちには余りに大きすぎて、私たちの観念では捉えることが出来ないのだろう。

しかし、人間という生命体が地球で行っていることは、地球に生まれた同じ生命体を破壊していることは確かである。

 私たちを構成している素粒子の有様が、始めの方にあるのか終わりの方にあるのかは分からないが、私たちの現世界は、明らかに消滅寸前であることは間違いない。


 

 高度が下がって、気持ちがハイになっているのだろう。雨の中を、わけも分からぬ事を考えながら歩いていた。

 7月6日 ベニ⇒ポカラ

 ダナからベニまで歩き、ベニからは車でポカラに来る。

(ポカラのモナリサホテルにて)

 『部分と全体』を読み終える。日本に帰るまで、もう一度読みたい。30年前に書かれた本であるが、物事に対する考え方を知る上で、とても大切な事を示唆していた。ハイゼンベルク氏の生き方に感銘する。

 7月7日 ポカラ⇒KTM

 ポカラからはツーリストバスでKTMに来る。そして、モハンダイハウスに戻る。

 今回もまた思い出深い旅であった。出発早々に遭遇した年老いた女性の死、ツクチェ村でのひと時、読み続けるほど刺激するハイゼンベルク氏の本。瞬く間に過ぎた2週間の旅であった。


    

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