カール・セーガン氏を読む旅

2月26日にバンコク経由でネパールに来る。昨年の11月から3ヶ月ほどしか経っていないのにカトマンドゥの街が違って見える。目に映るものだけでなく、人々の考え方まで変わろうとしている。発展途上国の首都はどこも同じなのだろうか?都市の息づかいが荒く感じる。先進国から流れ込むものが消化できないまま排泄されている。そして、また新たなものを飲み込んでいる。ここはカオスである。

一年前の友の死がずいぶんと昔のことのように思えてしまう。街並みの変化だけでなく、私の心まで変わってしまったようだ。
 トレッキングに出発するまでの間、日本から持ってきたカール・セーガン氏とアン・ドルーヤン女史の共著『はるかな記憶』という本を読んでいる。まだ上巻であるが、既にとても大切なことを示唆している。種の起源を触れた章で『自然淘汰、適者生存』の事を帰納法によって科学的に説いていた。今西錦司さんが進化論に対抗して『棲み分け論』を提起したと思っていたが、カール・セーガン氏の言葉をみると、その本質は全く同じである。物事の本質を追求すると行き着くところは同じことになるのだろう。棲み分け論は、進化論の中で説かれている『弱肉強食』の部分に異説を唱えているように思える。弱肉強食に対して棲み分けと表しただけの違いのように思える。もしかしたら、日本に根づいた『思いやり』の情が譲り合うという言葉になり、棲み分けという言葉になったのかも知れない。欧米でも思いやる情はあったが、日本に根づいた儒教の思想と漢字による表意文字に対して、欧米では合理主義と表音文字であるため、その違いが表現力の差となったのかも知れない。どちらの理論にしても、全ての生き物たちは変化して新たな環境に適応してゆく『様』を表していると思う。そして「現在の生き物たちは、その結果として存在している」と言っている。

現在の生き物たちは、その時々の環境に適応した能力を備えながら生き残ってきた。そして、適応した環境を維持するために互いに一定以上になると淘汰し、相手を必要以上に侵すことなく共存してきたと思われる。人間という『種』が繁栄してきたのもその結果であるが、これ以上、他の領域を侵すと自らを淘汰することになるのかもしれない、と警告していた。

3月2日

モハンダイとシッタラムさんがインドに行くので、一緒にハウスを出る。カンティパトで彼らと別れ、バス停でハスターと合流する。そこでマカルー1峰のハイポーターに予定しているプラチリ・シェルパさんを紹介される。私はコミュニケーションを大切にしたいので、人柄を確認するために来ていただいた。

プラチリさんはソロ・クンブー出身の29歳である。昨年の秋、明治大学のチームでマナスル峰に登頂している。マカルー1峰には、1995年の春、JAC隊で東稜ルートに参加して最終キャンプまで行っている。1987年のカンチェンジュンガ峰の遠征以来、毎年、遠征隊のシェルパとして参加しているが、8000m峰の登頂はマナスル峰のみであった。彼らでも8000m峰の登頂に恵まれることはまれであった。

カトマンドゥからポカラまではツーリストバスで行き、ポカラからルムレまでタクシーで行く。ルムレから歩き始めた。




  

3月4日

ガンドゥルンからチョムロンを通りヒマラヤホテルに着く。昨日まではTシャツで過ごしていたが、ここまで来るとさすがに寒い。フリースを出す。それに、今日は天気が悪く、時折、雨が降る。昨年の今頃も、ここを訪れた時、悪天で大雪となりデオラリから引き返した。ここは雪崩の通り道であるため、肝を冷やしながらの帰り道となったことを思い出す。

夕食までの間、『はるかな記憶』を読む。『種の起源が』が出版された当時の状況が説明されていた。当時の状況を考えると、まさに勇気ある行動であった。聖書における人のあり方を否定したこの説は、ガリレオの地動説と同様に「科学革命」であった。

当時の日本は幕末から明治維新へ移行する時期であった。新政府を望んだ若い知識人の中には、この世界の大きな変化を感じ取り、尊皇・攘夷論よりも学問の開放のために、新しい時代を望んでいた人達が居たのではないだろうか。

カール・セーガン氏が私を刺激する。科学的に人間の本質に迫ってくる叙述は私を惹きつける。この本の最終章には、どんな言葉が待っているのだろう。

3月6日

マチャプチャレベースキャンプは風雪模様であった。アンナプルナベースは諦めることにする。私達は吹雪の中、腰まであるパウダースノーをラッセルしながら降りた。昨日の踏み跡はなく視界も悪かったが、ハスターとプラチリの勢いが不安を感じさせなかった。1時間半ほどでデオラリに着く。さらに2時間ほど降りるとドバンに着いた。

天候が回復して日が差してくる。ラリグラスの花が輝きだし、鮮やかな紅色を見せてくれた。ここまで来ると雪崩の心配はなくなり、安心して歩くことが出来る。私達は冗談を言いながらチョムロンまで降りた。

プラチリさんと私の気持ちが触れ合い始めたようだ。ハスターが盛んにマカルー1峰の話を始める。プラチリさんも、グルン族のハスターをサーダーとして認めたのか、気を使い始めた。

3月8日

チョムロンからゴラパニを越える。途中でダウラギリ1峰とツクチェピーク峰の写真を撮る。どちらも思いで深い山であった。ハスターと一緒に眺めながら、あの日のことを思い出していた。そして、次はマカルー1峰で思い出を作ろうと話していた。ハスターとなら出来る。そう思えたひとときであった。

予定ではビレタンティで泊まるつもりであったが、時間が早かったのでポカラまで降りる。ポカラではホテルモナリサで祝杯をあげる。そして、プラチリさんにマカルー1峰に来ていただきたいと、正式にお願いをする。

3月9日

午後2時、ツーリストバスでカトマンドゥに着く。コスモトレックで精算した後モハンダイハウスに帰る。モハンダイも一昨日インドから帰って来たとのことであった。

―――モハンダイハウスでの事―――

久しぶりにモハンダイとお酒を飲んでいるとジャリトラが来る。彼は耳鳴りがすると言いながら、私にも耳鳴りがするかと聞く。私は5年前に谷川岳の第3スラブで遭難したときに頭蓋骨陥没の重傷を負い、その後、耳鳴りがしていたことを彼に話していたので、聞いてきたのだろう。僕はだいじょうぶと答えると、突然、モハンダイが語気を強め『身体が疲れると眠れる。お前は身体が疲れず、色々な事を考えるから耳鳴りがするのだ!』と言った。すると、ジャリトラは興奮して言い返し、2人の口論が始まってしまった。

2人は兄弟であった。年が親子ほど離れているため、親子の口論のようであった。しだいに2人の声が大きくなったため奥さんとラリーさんが止めに入った。

モハンダイは弟のアルジュンと共に、父親がなくなった後、ジャリトラの親代わりとなって育ててきた。2人のおかげで、彼は恵まれた環境の中で教育を受け学校を優秀な成績で終えた。その後、経済学を勉強したくてアメリカに留学しようと試みたが、許可が取れないで悩んでいた。モハンダイは、日本だったら世話をしてくれる人がいるから日本で勉強してはどうかと話していた。モハンダイにしてみれば、アメリカに知り合いもなく心配であった。ジャリトラはどうしてもアメリカで勉強したいと言い、友人と相談していた。彼の話を聞くと、英語は読み書き出来るので問題はないが、日本語は、話は出来るが漢字が難しい。それに、テレビや映画を見るとアメリカは可能性に満ちている「自分を試したい」と言った。

日本や欧米の恵まれた国であれば、才能を生かして夢に進むことが出来るだろうが、ここはNEPALである。やりたいことが出来ないゆえに悩むのであろう。彼の頭の中には、世界中の情報が入っていた。しかし、現実の社会では習ってきたことを発揮できないでいる。NEPALと恵まれた国とのギャップが大きすぎてどうしようもない現実があった。2人は互いの事情を分かりつつ納得の出来ない歯がゆさをぶつけ合っていた。

日本で起きている教育問題とは違うが、世代の違いから来る相違という事では同じである。しかも、出来ないことを人のせいにし社会のせいにする所も同じである。

ジャリトラが帰った後、涙ぐんでいるモハンダイの姿があった。NEPALで考えられる最高の条件を与えて教育を受けさせたはずなのに、兄たちの気持ちをわかってくれない悔し涙であった。そして「長女のチェトナは違う」と独り言を言いながら酔いつぶれてしまった。

10歳になるチェトナは、学校でいつもトップの成績であった。いつかこの子も同じような問題で悩むのだろうか、と案じているようだった。

3月10日

『はるかなる記憶』を読み終える。この本の最終章の終わりの部分に次のように書かれていた。


 私たちは、人間が地に足をつける以前の地球について書いてきた。化石の記録と、今、地球を美しく飾っている生命の豪華なパノラマを手引きに、我々の祖先を理解しようと勤めてきた――――――科学の発達によってそれらの一部をうかがうことくらいは可能になった。しかし、私たちはみなし児の記録の、まだほんの初めの章を探索したにすぎない。人類の夜明けから文明の創造にいたる進化の歴史を綴る作業の核心部分は、このシリーズの次の本での課題となる。

私は、この本を読む前に次に書かれた本を読んでいた。PALE  BLUE  DOTといい、日本でのタイトルは『惑星へ』となっている。そして、最終章の終わりには次のように書かれていた。


 彼らは空を見上げ、目をこらして、青い点を見つけるだろう。それがかすかで壊れやすいからといって、彼らがそれを愛する思いに変わりはない――――私たちすべての可能性の宝庫である地球がかつてどれほど壊れやすいものであったか――――――――――――――――――彼らはきっと、驚くに違いない。

私たちの子供たちは地球を飛び出して、はるかかなたから地球という星を見つめていた。壊れやすいかけがえのない地球を・・・・。

3月11日

日本に帰る時間が迫ってくると、時折、むなしさにおそわれる。

窓越しに見る街の風景は音を遮って見るのがいい

サイモン アンド ガーファンクルの曲を聞きながら

カトマンドゥの街を見る

流れるものがすべて雲のようだ

目にうつる車のながれ

目にうつる人々

目の前を通りすぎてゆく窓の向こうの喧騒を

椅子に寄りかかりながら見る

すべてが流れてゆく

雲が流れるように

1998年3月記


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