2001年秋マナスル峰(8163m)遠征記録

 山友の原稿依頼を受けて何かを書こうと思ったら、2年もの間、埋もれていたノートが出てきた。偶然にも、今日は救出された日(2003年10月16日)である。

 久しぶりにノートを開くと、あの時の事が昨日のことのようによみがえる。日記の終わりの方を見ると、感情を失い戸惑う私がいた。

 それが今も続いていることに気がつく。この2年間は、空白の時を過ごしていたのかもしれない。

 酒井さんからのファックスレターは、この状態から抜けだすきっかけになるかもしれない。2年前の姿を見つめ直して仲間の死という事実に戸惑う私を取戻すために、この記録をまとめることにした。

この記録は、ノートに書いている事を出来るだけ忠実に書くことにしました。他の方にはつまらないものになるかもしれませんが、簡略することで事実をあいまいにするおそれがあるからです。私が当時の私を見つめ直すためにも必要だからです。

8月16日

 午後10時40分ナイトバスにて盛岡発。

8月17日

 労山事務所にて倉橋さんと打ち合わせをする。夕食は、墨田山の会の大竹さん宅にてごちそうになる。倉橋宅にて宿泊。

8月18日

 午前、倉橋宅にて大久保さんのホームページ、メールを見て過ごす。午後、近くのそば屋で昼食を取った後、倉橋さんと別れて上野駅まで歩く。

 大阪行きのナイトバスの乗車時間には間があるのでアメ横、秋葉原、有楽町を見て回る。午後9時40分ナイトバスにて東京駅八重洲口発。

8月19日

 午前6時大阪駅着。午前6時8分発のハービス大阪で関西空港に行く。午前7時、関西空港着。宅配便の荷物を受け取り栗原さんを待つ。

 午前9時30分栗原さんに会う。ミナのお母さんにも会う。

 ダウラギリ1峰に行く京都の仕立さんと話をする。群馬との合同チームで許可を取り群馬は北東コルから東壁に向かい、京都は北東稜を登るとのことである。

 搭乗手続きの時、荷物の軽い石井さんにお願いして一緒に手続きをする。23キロオーバーが8キロオーバー(12800円)ですむ。

 デューティーフリーでお土産のジョニ黒(2000円)を買い搭乗する。

 午後12時35分発。

 午後1時40分上海空港着。日本との時差1時間。同空港2時50分発。


飛行機の中でのうつろい

日本での日常が、うつろいの中で遠ざかって行く。先日までの出来事が記憶の片隅に押し込められて現実から離れてしまう。空間の中の無限の広がりは時を失わせる。

すべてが過ぎ去り新たな今が生じる。連続する今という現実の中で我を知る。未来とは現在である。そして、現在とは過去である。

その今という一瞬の中で自らを表出し演じる私。自らの姿を知る時、過去も現在も未来もない。

 「まわりの出来事にとらわれることなく、今を生きよ」 その時、初めて全てが見える。

時空という観念は人間達が作り出した尺度である。全ては生じて消滅する。その必然を受け入れようとしない浅はかな知恵を持った人間の産物である。

自らを知り、今を生きるものたちは、あるがままを受け入れる。

 「全てを受け入れよ」

 全てを受け入れたとき確かな変化が見える。それが、私達の必要とする世界である。

 午後5時35分カトマンドゥ着。日本との時差3時間15分。

 午後6時30分モハンダイ宅着。近藤さんからの40万円をモハンダイより受け取る。

  モハンダイ(出産)とスディール(結婚)にみんなからのお祝い金を渡す。子供達に大津フミさんからのピアニカを渡す。

8月20日

 午前9時20分ラジェンドラさんに午前11時頃行くとの電話をする。

 午前11時〜11時30分、ラジェンドラの店で5万円(36000Rs)、100$(7600Rs)を両替する。奥さん(礼子さん)も来ていたのでマオイストの件を聞く。

マオイストは、王様を排除し酒を禁止する事を選挙で国民に決めてもらうようにと話している。最近、ビール工場が爆弾テロにあったとのこと。

25日の夜、子供のお祝いがあるので近藤さんと一緒に来てほしいと言われるが、近藤さんと連絡が取れたなら連絡することにする。難しいと思う。

午後12時〜3時、コスモトレックにて


  

●マナスルは現在のところ我々だけである。9月1日に新しい情報が入る。

●バンクドラフトのため登山料の入金は2週間ほどかかる。いったんニュウヨーク銀行に送って確認後になるため、登山隊の手続きはその後になる。ヘリの手配(危険地帯のため)、観光省とのブリーフィング、情報省との無線手続き等である。ただし、ヘリの手続きは問題なしとMr.シャルマンは話す。

●25日に来る近藤さん(パキスタンから)と後発隊(日本から)の出向かいの手配を頼む。

●私と栗原さんのチケット・パスポート、栗原さんの現金25万円をMr.ジョシに預ける。

●倉庫の2Fから労山の荷物を全部1Fに降ろす。

●キッチンテント・ダイニングテントを張り、ティカさん、パダムさん達にチェックしてもらう。

●作成見本のフライシートが見つからない。モハンダイハウスのデポ品を捜すことにする。

●ハイポーターのMr.パルデン、Mr.フィンジョ、Mr.ラハールを紹介される。作業を手伝ってもらう。

●明日は午前10時まで来て大津さんと打ち合わせをする。

 午後3時〜4時30分、タメールにて

●私のザックを修理に出す。明日の午後に取りに来る。

●Mr.ミンマの新しい店でスノーバー50本、アイススクリュウハーケン30本、ロックハーケン10本、カラビナ20枚を注文する。明日の午後に取りに来る。

●いつもの山の店で、私のオーバーミトンと厚手の手袋(フリース)を併せて700Rsで購入する。

●カメラ屋で電池(CR123)4本を700Rsで購入する。

 その後サンセットビューにて

●はがき50枚、切手37枚を購入する。切手の不足分は明日までに取り寄せてもらう。

●フロントでMr.アルジュン、Mrs.タマン小川、ミナのお母さんと会う。

 モハンダイ宅にて

●近藤さんの荷物を預けている部屋から食料品を私達の部屋に移動する。近藤さんのデポ品に見本のフライシートが無いかを確認をする。

●日本から持ってきた荷物を整理する。高所順応でナヤカンガ峰に行って来る間、食料と薬はモハン宅におくことにする。リストに書いているテントが無いので後で倉橋さんに連絡をする。ガスボンベの空き缶はプラパールごと明日運ぶ。

8月21日

 朝早く目が覚める。遠征の準備のことが気にかかり眠れないうでしまう。明るくなってきたので早々に書類を見ながらチェックする。

 午前10時〜午後2時30分、コスモにて

●労山のテントをチェックする。そして、修理品と非修理品を分ける。

●山童子のICI石井テント(7〜8人)をチェックする。

●作成したフライシートをチェックする。明日、作成未了箇所を確認して引き取る。

●ガスボンベの充填をティカさんに頼む。

●パダムに炊事用具のチェックを頼む。購入品は明日、明後日にする。

◎ 大津さんと打ち合わせ

●短波ラジオは市内で売っている。

●テーブル、イスはあるがマナスル峰にヘリで運べるかどうかは荷物の量しだいである。

●ランタン行きのバスは、安全性を考えてチャーターすることを進められる。

●ヒマラヤ観光に預けている山童子のテントは、9月10日に小山さんがカトマンドゥに戻ってから確認する。

●BC用マットレスは、レンタルより買ったほうが安い。

◎ ティカさん、Mr.ラハールと打ち合わせ。

●アルミ梯子が必要である。サマには無いので2ヶ所分カトマンドゥにて購入。

●ランタンに行くバスの件。ドンチェの手前が土砂崩れのため乗換えとなるのでチャーターの必要は無い。

●ナヤカンガのポーターはカトマンドゥから連れていった方がよい。バスの乗換えの時に必要。

●ナヤカンガのルートは、コックのパダムが知っている。後で確認する。

●ローカルポーターのサングラス、手袋はいらない。

●マナスル峰登山終了後のラルキャパス越えはローカルポーターには無理。ローカルポーターはゴルカから帰り、メンバーのみがラルキャ越えであればOK。

 午後3時〜4時30分、タメールにて

●ラジェンドラさんの所で10万円を両替する。61200Rs。

●Mr.ミンマの所でスノーバー50本、アイススクリューハーケン30本、ロックハーケン10本、カラビナ20枚、ガスボンベ24缶を購入する。明日、コスモまで配達してもらう。

●民芸品店にて、上部キャンプのテントで使うためにフェルトのシューズを買う。

 タメールで買い物をした後、サンセットビューに寄り切手を購入する。モハン宅に戻る途中、ビールとジュース買って帰る。夕食時、大津フミさんより電話がある。モハンダイも喜ぶ。

8月22日

 今日も朝早く目が覚める。フライシート作成の件は解決したが、その他の事を思い出して眠れないでしまう。装備の打ち合わせが不充分であった。

 午前10時〜午後2時10分、コスモにて

●テント修理の職人を呼んで、ここで修理をしてもらう。明日まで掛かる見込み。

●デポ品装備をチェックする。

●ナヤカンガ峰分の装備を分ける。

●フライシートが7張り出来上がって来る。チェック後、21000Rsを払う。

●Mr.ミンマが昨日買った装備品を持ってくる。アルミ梯子の値段を聞くと1つ5,000Rsとのこと。

●旗竿の件をラハールに尋ねると、現地調達でOKと言う。

●ガス充填の引取りが夕方5時なのでティカに頼む。3500Rs前渡しする。

●明日の買い物は、午前10時からティカとパダムと一緒に行く。Mr.ラハールにはテント修理の確認を頼む。

●倉橋さんと伊東さんにFAXを打つ。

 タメール、ニュウロードにて

●コスモを出た後、Mr.ミンマのところに行き、アルミ梯子の確認をする。8ステップが2台あると言う。値段も再確認する。

●ニュウロードの電気屋で短波ラジオを購入する。

 テンポーに乗って帰えるとモハン宅の前でラジェンドラさんに会う。25日のパーティの招待状を持ってきたとのこと。夕食前に、ナヤカンガ峰分の高所食と薬品を分ける。後送分は、26日にすぐ入れられるようにしておく。

8月23日

 明け方、大津さん親子、おふくろ、遠藤さん達の夢を見る。なぜか女性達だけが印象に残っている。目を覚ますと、昨日までとは違い頭がすっきりする。天気が悪いので頭の疼きはあるが、目がはっきりして景色がよく見える。よく眠れたせいだろう。

 午前10時〜10時30分、コスモにて

●ティカさん、Mr.ラハールとローカルポーターについて話し合う。カトマンドゥからのポーター代は食事付きで250Rs/日くらい。ランタンはオフシーズンなのでポーターはいない。いても高いと言う。

●倉橋さんからのメールを受取る。昨日、届いていたが停電になり印刷出来なかったので今日になる。

●ティカさん、Mr.パダム、私達は食料品以外の買い物に行く。その間、ラハールさん達は修理したテントのチェックと装備の一部を梱包してもらう。

 午前10時30分〜午後12時30分、アッサム、他

●アッサムでキッチン用品を購入。ケロシンとケロシンタンクはナヤカンガ峰から帰った後にする。ケロシン1Lが13Rs、タンク1個が250Rsを確認。

●マットレスの卸店に行き値段を確認する。1枚390Rsを12枚で3,800Rsにしてもらう。ナヤカンガの後に買いに来ることにする。

●ガス充填品の受取がまだなので帰りに寄って行く。1個50Rs、60個受取る。口元の錆びたものははずす。

 午後12時30分〜2時、コスモにて

●大津さんから25日に近藤さんと一緒に来る奥田さんの手紙を空港で渡すように頼まれる。

●ナヤカンガ峰のルートについて他のシェルパから教えてもらう。BCは草地で標高4,000m位、BC〜HC(ハイキャンプ)は3〜4時間、HC〜TOPは、下部が1+1、中間4、頂上直下2の8ピッチフィックスが必要。古いルートより新しいルートの方が良いらしい。ピークの下のところに良いテント場がある。

●明日は10時からBC、ハイキャンプ不足分の食料を買出しに行く。ドッコ、ビニールも購入する。

●今日中にテント修理が終わったら、ティカさんとMr.ラハールに確認をお願いする。修理したテントの種類と数は明日確認する。

●2Fに置いたテント(ポール付)とフライシートを確認してわかるようにしておく。

 今日は、コスモから歩いてロイヤルネパール航空会社前まで行き、そこからテンポーに乗って 帰る。途中でビールを買う。夕食前に個装を整理する。明日、コスモに運ぶ。

8月24日

 今日は、栗原さんと手分けして作業をしようと話す。

 午前10時〜10時50分、コスモにて

●栗原さんに修理テント、ナヤカンガの梱包品のチェック、2F倉庫の荷物の整理を頼む。

●私とティカは、パダムと打ち合わせた後に食料品等を買いに行く。ただし、生鮮食品の購入は出発前日(26日)とする。

●大津さんに、明日来る近藤さん、倉橋さん達の出迎えの手配をお願いする。近藤さんはPK午後3時10分着なので午後2時30分に私達をモハン宅でピックアップしてから空港に行くこと。倉橋さん達はRA410午後6時35分着なので午後6時にピックアップしてから行くことである。

 午前10時50分〜午後1時、アッサムサウジの店にて

 久しぶりにアッサムサウジの店に来る。ここから見る風景は変わっていない。3年ぶりであった。他の所は次々と新しく模様替えをしているのに、この辺りは相変わらず狭い間口と軒下で物を売っている。

 円形の広場は、いくつかの通りの交差点になっているため、行き交う人と車で混雑している。オートバイ、自転車、力車、テンポー、ときおり入って来る自動車、そして人、人、人である。しかし、ここもいつの日か変わって行くのだろう。思い描いてみるのがむなしくもさみしくもある。

 この先のインドラチョーク通りは2年前から洋服、サリー、お土産用のTシャツなどが軒先に並べられるようになってきた。以前のように絨毯を飾っているのは、ラジェンドラの兄の店と、あと2〜3件だけである。今でも日本の遠征隊が利用しているのだろうか。とても懐かしく思う。

 この店のサウジ(主人)は、僕を覚えていた。最初は、息子が番台に居たが、昼頃になってサウジが出て来ていつもの席に座る。そして、息子の書いたビルをチェックして私に渡してよこす。

 3年前に比べて食料品の値段が高い。体裁は良くなっており、ルピーの価値も下がっているので当然なのだろう。サストプリーズと言うと、200Rs負けてくれる。相変わらず渋いが元々が安いのだからしょうがないと諦める。

 ここで買った物をパダムに力車で運んでもらう。私とティカは、ザックを入れる大きなビニール袋を買ってコスモに戻る。

 午後12時30分〜1時、コスモにて

●食料のパッキングをティカに頼む。

●大津さんとシャルマンさんに再度、明日の車の手配を確認してからラジェンドラさんの所に行く。

 午後1時30分〜午後4時、タメールにて

●ラジェンドラさんの店に行き、26日に1400$か17万円を両替するので500Rs札と1000Rs札を用意してくれるように頼む。隊費1万円(6120Rs)と私の100$(7600Rs)を両替する。

●山の店で、栗原さんがオーバージャケット・ズボンの上下(2000Rs)とフリースの下ズボン(700Rs)を購入する。

 タクシーに乗っている時、ラジェンドラさんの店にザックを忘れたことに気がつく。モハン宅から電話をして確認をとる。店の方に取りに行くので預かってもらう。

 夕方、モハンダイとシッタラムさんと私とでスディールの新居を訪ねる。新居を構えて10日目だという。アパートの1Fで2室、台所付である。

 奥さんを紹介してもらう。家族はレティに住んでいたが、その後、バクルンでホテルを経営し、今はポカラに居るとのこと。小柄でかわいい女性であった。年齢は19歳。スディールと一回り違う。二人とも幸せそうである。

 夕食は弘前の佐藤さんと一緒に取る。佐藤さんは、今年、高校の教師を定年で退職した後、7月12日からトリブバン大学で一年間勉強しに来ている。京都のマイ子さんも交えて夜遅くまで話をする。

 就寝午前2時。

8月25日

 今日は、午前9時までベッドに入っていた。

 午前9時50分頃、近藤さんから電話がある。荷物が多いので出迎えの車を手配するように頼まれる。

 マイ子さんと一緒に朝食を取っていると、勤めている学校での講演を頼まれる。10月の下旬に日本に帰るので、そのあたりに連絡をするようにと名刺を渡す。

 朝食後、少しの間横になる。その後、2時間ほど手紙を書く。

 午後2時10分、コスモの車が迎えに来る。10分程で空港に着く。午後3時20分にPK266が到着。30分後、近藤さんと久しぶりに再会する。一緒に来た奥田さんに頼まれた手紙を渡す。

 午後4時20分〜4時40分、コスモにて

●近藤さんから共同装備と、私と倉橋さんのイスラマバードのデポ品を渡される。私のデポ品は、エアーマット、羽毛服、シュラフ、カラビナ、シュリンゲ、ユマール、Pボトルである。

●近藤さんとミーティングをする。これまでのいきさつを話し、疑問点等を話し合う。

●ラジェンドラさんの子供のお祝いは近藤さんに行ってもらう。私達は、後発隊を出迎えに行く。

●シャルマンさんに、夕方6時のピックアップと明日の午前9時30分にシャルマンさんの車でモハン宅に迎えに来る件を話す。

 シャルマンさんの車で送ってもらう。そのまま待機してもらい、午後6時に私と栗原さんは空港に行く。近藤さんは、モハンダイと共にラジェンドラさんの所に行く。

 午後7時13分にRA410到着。午後8時30分、ようやく後発隊が出てくる。

 モハン宅に戻ると、近藤さんとモハンダイはラジェンドラさんの所から戻っていた。夕食の準備が出来るまで、ナヤカンガ峰の写真を見せながらルートの説明と明日の予定を話す。

 ビールで乾杯し食事となる。夕食後、日記を書き洗濯をしてからベッドに就く。

 午後11時30分就寝。

8月26日

 午前9時30分コスモの車が迎えに来る。

 午前10時〜11時30分、コスモにて

●皆で梱包作業をする。

●高所食のワカメが見当たらないのでモハン宅のデポ品を捜すことにする。

●梱包後、ポーターの人数は18人必要となる。日当は225Rs/日となる。

●食料購入の追加分として、パダムに3000Rs渡す。

●ナヤカンガの雪袋はビニール袋を使うことにする。

 午前11時30分〜午後1時、バラジューにて

 ティカさん、Mr.ラハールと私とでバスターミナルに来てバスをチャーターする。カトマンドゥ〜グランド間は7500Rs、グランド〜シャブルベシ間は1500Rsとなる。7500Rsは前払い、1500Rsはシャブルベシに着いてからとする。

 午後1時〜1時30分、コスモにて

●明日は、タクシーでコスモに寄りティカさんかMr.ラハールを乗せて一緒にバスターミナルに来ることにする。

●見本にしているフライシートの修理をティカさんに頼む。

●倉橋さんが無線機の型番をジョシさんに報告する。

●残りの作業(生鮮食料、ケロシンの購入に伴う梱包作業)を、ネパールスタッフに頼む。

 午後2時〜4時、タメールにて

●ラジェンドラさんの事務所で28万円を両替をする。73600Rs。店のほうで絨毯を見た後、私以外はマナスル峰のオリジナル絨毯を購入することになる。数量はナヤカンガの登山を終えてからとする。忘れたカバンを受取る。

●山の店で倉橋さんはアイゼン、斎藤さんはシュラフを購入する。

●私は、近藤さん、大久保さんとミンマの店に行きアルミの梯子を注文する。その後、近藤さんはマッサージに行き、私達はモハン宅に帰る。

 モハン宅にて

●ワカメの袋が見つかる。

●両替したルピーを隊長以外で分けて持つことにする。私以外は3万ルピーずつ持ってもらう。

●プロミナさんに、私のお金と隊費445200円を預ける。

●明日の朝までの宿泊費を払う。

 7時頃近藤さんが戻り、夕食とする。皆は疲れているので早めに夕食を終える。私はモハンダイと二人でツクチェブランディーを飲みながら、30分ほど話しをしてから休む。

8月27日 曇り後雨 カトマンドゥ〜シャブルベシ(標高1450m)

 午前5時起床。午前5時40分朝食。午前6時20分発。コスモでティカを乗せ午前6時50分にバスパークに着く。バスはバスパークの入口で待っていた。

 午前7時カトマンドゥ発。ポーターが一人余計にいたので確認してからの出発となる。

 午前9時50分〜午前10時55分、トリスリバザールにて昼食。

 午後12時20分〜午後12時50分、カリカスタンにて休憩。以前は、チェックポストがあったのだが現在は無い。

 午後1時20分〜午後1時25分、ランチェにて検問(軍隊)。

 午後2時〜5時、グランドは聞いていたとおり土砂崩れであった。ブルドーザーが来てくれたのでなんとか越えることが出来る。ここは危険な状態なので歩きとなる。カトマンドゥからローカルポーターを連れてきて良かったと思う。バスが来るまでの間、雨の中を待っているといつのまにかズガ(蛭)の攻撃を受けていた。初日から、さんざんな目に会う。

 午後5時40分、ドンチェのチェックポストにて検問。

 午後7時45分、シャブルベシ着。ブッタホテル泊。近藤さんから細かいルピー(267Rs)を借りる。ビール代は高いので各自とする。倉橋さんからコップ一杯を60Rsで頂く。

 夕食を終えてベッドに就いたのは午後10時頃となる。

8月28日 雨後晴れ シャブルベシ〜ラマホテル(標高2400m)

 ポーターの前払い分10000RsをMr.ラハールに渡す。食料等、追加購入した不足分をティカさんに払う。バス代の後払い分もティカさんに頼む。大久保さんから預けていた隊費30000Rsを引取る。

 午前8時発。今日から歩きとなる。午前9時55分〜10時25分、ドコン(1615m)にてお茶。早々ズガの洗礼を受ける。午前11時50分〜午後1時15分、バンブーにて昼食。

 午後3時30分、ラマホテル着。チベットロッジ泊。ポーターが遅く、近藤さんの荷物が来たのが午後6時20分、全ての荷物が来たのは午後6時30分となる。明日、私達の個装を運ぶ人は強い人に代えてもらう。

 夕食を7時頃からいただき8時にはベッドに就く。

8月29日 雨または曇り ラマホテル〜ランタン(3320m)

 午前8時10分発。明け方、雨が弱まり歩きやすい天気となる。ツーリストが少ないせいか、久しぶりのお客に喜んだサウジ(主人)とサウニ(おかみさん)の機嫌が良かった。

 午前9時20分〜午前9時50分、リバーサイドホテルにてお茶。

 午前10時55分〜午後12時40分、ゴラタベラにて昼食。

 午後3時5分、ランタン着。ビレッジビューホテル泊。今までの会計を整理する。シャワールームで体を拭いた後、日記の整理と葉書を書く。

 8時頃ベッドに就く。

8月30日 晴れ ランタン〜キャンジュンゴンパ(3860m)〜BC手前(4300m)

 快晴である。さっそく写真を撮る。

 午前8時10分発。午前10時45分、キャンジュンゴンパ着。今日の宿となるヤラピークロッジにて昼食を取った後、順応のためBCまで行って来る。

 午後12時40分発。

 午後3時15分〜午後3時35分、BC手前のコル(4300m)で休んだ後キャジュンゴンパに戻る。

 午後5時10分キャジュンゴンパ着。ヤラピークロッジ泊。

8月31日 晴れ後雨 キャンジュンゴンパ〜BC〜C1(5000m)

 出発前にMr.ラハールへポーター代を10000Rs払う。

 午前7時35分発。

 午前10時10分、BC着。テントを設営し昼食を取った後、C1まで順応に行く。

 午後12時25分発。

 午後2時10分〜午後3時10分、C1にテントを設営する。

 午後4時40分、BCに戻る。

9月1日 雨 BC〜C1〜5200m〜C1

 午前7時55分発。

 午前11時5分〜午後12時25分、C1着。荷物を降ろし、上部にルート偵察を兼ねて順応に行く。

 午後2時25分〜2時45分、5200m地点。ハイポーターにロープ、スノーバー等を荷揚げしてもらう。私達もロープ3本、多少のガチャ類を上げる。午後4時、C1に戻る。

9月2日 雪後雨 C1〜BC〜キャンジュンゴンパ

 頭痛と食欲不振のため、下山する。

 午前6時45分発。

 午前7時45分、一日遅れで上がって来た近藤さんとティカさんに会う。近藤さんからキャンジュンゴンパまで降りた方が良いと言われる。そして、無線機を渡される。

 8時25分〜10時25分、BC。午前9時、倉橋さんと交信する。現在5300mとのこと。パダムにスパゲッティを作ってもらい食事を終えた後、ジットさんとキャンジュンゴンパに降りる。
 
 午前11時55分、キャンジュンゴンパ着。ヤラピークロッジ泊。

 午後12時、倉橋さんと交信。現在5740m。お湯が出るのでシャワーを浴びる、ついでに洗濯もする。高度を下げたせいか気分が良くなる。

 午後3時、倉橋さんと交信。栗原さん以外は頂上に到達する。全員C1に戻る。

 午後6時、倉橋さんと交信。近藤さんと大久保さんは先に降りる。現在、がれ場を過ぎた辺りを斎藤さん、栗原さんと共に下降中。明るいうちにBCに着けると思うとのこと。

 午後8時、交信ならず。

9月3日 曇り時々雨 キャンジュンゴンパ〜BC

 良く眠れる。体調が良くなったのでBCへ戻ることにする。この高度で一晩休息を取っただけなのに体力の回復を感じる。近藤さんから二日ほど休養を取るように言われたが、上部での順化を考えれば戻った方が良いと思う。

 午前8時発。

 午前9時、ティカと交信。BCに戻ると伝える。

 午前10時50分、BC着。

 夕食時に近藤さんと話し合う。明日、私はBCから頂上往復とし頂上直下には泊まらないことにする。斎藤さんは雪盲のためBCで休養する。

9月4日 曇り後雪後雨 BC〜頂上(5846m)〜BC

 午前4時に起床。近藤さんは上部に行かないことになる。

 午前5時10分発。皆より早めに出発する。

 午前7時10分〜8時10分、C1で登山靴に履き替えて休んでいるとMr.ラハール、Mr.パルデンが来て先に行く。出発前に倉橋さん、大久保さんも来る。

 午後12時55分、頂上着。ハイポーター達が先行してラッセルをしてくれたので助かる。テント場の下部で倉橋さん、大久保さんと擦れ違う。二人は順応のため上部に泊まる。

 午後5時、BC着。C1で靴を履き替えようと思ったが、靴が濡れていたので登山靴のまま降りる。がれ場が歩きにくかった。

9月5日 雨 BC

 午前6時に起床。午前7時に朝食をとる。

 午前10時、倉橋さん、大久保さんが戻る。荷下げのため朝早く出かけたスタッフも戻って来る。

 午前11時、昼食。午後から下山準備のため装備類を梱包する。ティカにキャンジュンゴンパから追加購入したケロシン、食料代を払う。2075Rs。

9月6日 晴れ後雨 BC〜ラマホテル

 出発前に栗原さんから隊費30000Rsを引き取る。

 午前7時45分発。すぐそばのコルで写真を取ったあと出発する。

 午前10時35分〜午前11時5分、ランタンのビレッジビューホテルにて昼食。

 午後12時30分、ゴラタベラの手前のチェックポストにて検問。

 午後12時45分〜午後1時20分、ゴラタベラにてお茶。

 午後2時50分、ラマホテル着。チベットロッジ泊。今日は前半の天気が良かったので、写真を撮りながら来る。高度が下がり皆の体調もいいので、夕食前にビールで乾杯する。3本分は隊費で出す。

9月7日 曇り ラマホテル〜シャブルベシ

 午前8時10分発。

 午前9時45分〜10時10分、バンブーにてお茶。

 午前10時55分〜午後12時15分、パイロにて昼食。手前でシシャパンマ隊のペンバツェリンとナレンドラに会う。順応のためナヤカンガ峰に行くとのこと。

 午後2時5分、シャブルベシ着。ブッタホテル泊。久しぶりにホットシャワーを浴びる。倉橋さんから隊費30000Rsを引き取る。Mr.ラハールにポーター代の残金、23040Rsを渡す。

9月8日 雨後曇り シャブルベシ〜カトマンドゥ

 カトマンドゥにはローカルバスで帰る。24名と荷物12個分で6960Rsとなる。

 午前7時40分発。

 午前9時40分〜10時5分、ドンチェのチェックポストにて検問。

 午前10時50分〜午後12時5分、グランドにて乗換えする。荷物代の件で車掌同士が揉めたので出発が遅くなる。

 午後12時30分〜午後12時45分、ランチェにて軍隊の検問。

 午後1時20分〜2時、カリカスタンにて昼食。

 午後2時30分〜3時、タイヤがパンクする。

 午後4時20分〜5時、バフタールにてパンク修理。モハン宅に、遅くなると電話する。

 午後7時50分、バスパーク着。バスを乗換えてコスモトレックに寄り共同装備を降す。

 午後9時、モハン宅に着く。

9月9日

 朝食後、会計簿を整理する。近藤さんに確認をしてもらった後、大久保さんに引き継ぐ。ただし、ルピーのみとしドルと日本円は近藤さんに引き継ぐ。その後、洗濯をする。

 午後1時30分〜4時30分、コスモにて

 飛田さんと会う。チョオユー峰に行き、その後、田辺さんとローツェ南壁に行くと言う。彼が来ていると思わなかった。

●テントを全部出す。ナヤカンガ峰で使ったテントは、ネパールスタッフが、すでに乾かしていてくれる。

●Ms.ホーリーの助手が取材に来る。

●伊東さん、大津フミさんにFAXを送る。

 倉橋さん、斎藤さん、栗原さんはラジェンドラの所に寄ってから帰る。近藤さん、大久保さん、私は、華に寄りマッサージをしてから帰る。華に、片山右京さんも来る。

9月10日 

 午前10時〜11時、コスモにて

 テントをチェックしていたが、斎藤さんと私は病院に行くため、残りの準備作業は皆にお願いをして行く。

 午前11時30分〜午後3時、病院にて

 斎藤さんは眼科で雪盲の状態を診てもらう。私は車に衝突したときの後遺症を整形科に診てもらう。ジットさんが同行してくれる。

 モハン宅にて

 遅い昼食を取った後、私と斎藤さん、栗原さんは先に帰りモハン宅にデポしている食料を整理する。

9月11日

 午前10時40分〜11時、コスモにて

 今日の作業の打ち合わせをする。私と大久保さん、ティカさん、パダムさんは買物に行き、他のメンバーには準備作業をしてもらう。

 午前11時〜午後2時30分、タメール、アッサム、カララディにて

 

●空缶にガスの充填を頼む。

●Mr.ミンマの店でアルミ梯子2台、新しいガスカートリッヂ12缶を購入する。明日の午後4時頃に届けてもらう。

●アッサムでブルーシート、キッチン用品を購入する。

●カララディにてマットレス、テーブル、イスを購入する。

 午後3時30分〜5時、コスモにて

●Mr.ミンマがアルミ梯子とガスカートリッヂを持って来る。

●ブルーシートにハトメを付ける。

9月12日

 午前10時〜午後12時、コスモにて

 マナスル峰のフライトが14日になるかもしれないと言われる。生鮮食料品以外は今日中に買うことにする。

●テントの修理とトイレ用テントの張り具合を確認する。

 午後2時〜6時30分、アッサムにて

●アッサムサウジの店で食料品を購入。35日分、8300Rs。

 午後7時〜午後7時30分、コスモにて

●マナスル峰のフライトが15日になり、観光省でのブリーフィングが明日の2時となる。

 モハン宅に帰り夕食を取っているとモハンダイが呼びに来る。モハン宅のテレビを見ると、アメリカの世界貿易センタービルに旅客機が衝突したシーンが映し出されていた。キャスターはテロでないかと言っている。

 午後9時頃、大津フミさんから電話が来る。台風15号のため蕎麦が倒れてしまったこと、花が咲き始めたことを聞く。それに、アメリカの旅客機の件も話題となる。

9月13日

 午前11時30分〜午後6時、コスモにて

 午前11時にシャルマンさんの車で迎えに来てもらう。各自の個装と食料を運ぶ。ラジェンドラさんの所で両替をするため、大久保さん、斎藤さん、栗原さんがタメールの入り口で降りる。到着そうそう、ヘリコプターが明日飛ぶかもしれないと言う。確認中とのこと。

●高所食、個装を梱包して重量を測る。

●急遽、倉橋さんはスコップを買いに行く。


 午後2時45分、近藤さん、倉橋さん、Mr.ラハールは観光省にブリーフィングに行く。その間、私は華へマッサージに行く。

 華から戻るとブリーフィングを終えて戻っている。リエゾンオフィサーの装備代も決まっていた。1300$+100$(ボーナス)=1400$。

 明日ヘリコプターが飛ぶかもしれないと言っていたが、結局15日となる。明日は空港まで荷物を運ぶだけである。

 予定外のパウダさんを連れて行くことになる。BCからサマに買物に行ってもらうために必要と言われる。

 午後6時〜午後9時、大津宅にて

 夕食に招待される。食事をしながら世界貿易センタービルに旅客機が衝突をする場面を見る。衝撃的であった。昨日は追突した場面を見ただけであったが、今日はビルが崩れる場面も見る。


 アメリカの報復がどのような形で行われるのだろう。一ヶ月後、私達がカトマンドゥに戻ってきたときには世界戦争が始まっているかもしれない。

 人間達の愚かさは、やがてこの世界を滅ぼして行くのだろう。

 知恵ある生き物はどこに行ってしまったのだろう。

 憎悪だけが取り巻いている。

 理性は言葉だけとなっている。

 この星の未来は、不安と失望と恐怖で渦巻いている。



9月14日

 午後12時〜午後2時30分、タメールにて

 ラジェンドラさんの所に両替を頼み行く。レートが不安定でT/Cが使えないと言う。ラジェンドラさんの知り合いがキャシュ$か円なら良いとのこと。アメリカなどの事情らしい。

 確認をしてもらう間、ふる里で昼食を取る。

 昼食後、戻ってきて両替をする。T/CもOKとなる。両替後、近藤さんと大久保さんはコスモに行く。私達はタメールを見学して帰る。

 モハン宅にて

タメールから帰った後、日記を整理して大学ノートに書く。近藤さん達が遅いので先に食事をする。近藤さん達は、ボードナートにプジャー(祈願)に行き、その後、マッサージに行って来たとのこと。明日は6時に迎えが来るので、5時30分朝食とする。

9月15日 (晴れ)カトマンドゥ〜マナスル峰BC(曇り時々雪)

 午前6時モハン宅を出発。10分ほどで空港に着く。

 空港に来て洗濯物を取りこんでないことに気がつく。ギャルツェンさんの携帯を借りてプロミナさんに洗濯物を頼む。

 フライとは2回となる。私は2回目となる。

 第1回目、午前7時に近藤さん達が空港待合室を出る。

 第2回目、私達は午前8時55分に待合室を出て午前9時40分、Take off。

 午前10時15分〜午前10時35分、ケルモカルカ(3660m)。

 午前10時35分、BC(4860m)着。

 早々、BCにテントを張る。荷物を運ぶと息が切れるが頭痛はしない。昼食もおいしく食べられる。

 食事の後、テントの中を整理して休息を取る。夕食もおいしく食べられる。ナヤカンガ峰の効果が出ているのが分かる。これで良く眠ることが出来れば問題は無い。

9月16日 晴れ後曇り後雨 BC

 午前中、高所食をメニューごとにパック詰める。午後は休養。昨夜は眠れなかったせいか1時間半も眠ってしまう。

9月17日 晴れ後曇り BC

 朝食後、ティカさん、パウダさん、ハイポーター3人は村長への挨拶と祈願祭のラマ僧をお願いするためにサマ村まで降りる。

 午前中、梱包された装備を取りだして仕分けをする。午後は休養。午後5時にティカさん達が戻る。パウダさんは野菜と肉を担いでくる。

星野道夫さんの「旅をする木」のルース氷河の所を読む。日本の子供達をアラスカのルース氷河に呼んで一週間過ごしたとき、最終日の夜、オーロラを見た子供達の状況を書いた所が印象に残る。

言葉だけでなく、体験を通じて得ることがとても重要なことであると思った。星野さんの生き方は単なる自己満足でないと思う。

9月18日 晴れ後曇り BC

 朝食後、パウダさんは旗竿用の竹を買いに行く。

 午前10時30分〜11時50分、プジャー(祈願祭)。サマ村からラマ僧が来てお祈りをしてくれる。午後からこいのぼりを立てる。その後は休養。夜、星空となる。星がきれいだ。天の川がよく見える。

9月19日 晴れ BC〜C1(5725m)〜BC

 午前7時30分発。午後12時20分〜1時50分、C1(黒岩の上)にテントを張る。ハイポーター達は先に着き、上部ルートを工作に行く。

9月20日 晴れ後曇り BC〜C1〜BC

 午前7時45分発。午後12時18分〜午後1時、C1に荷揚げをする。

 午後2時45分、BC着。帰りながら写真を撮ってくる。到着後、パダムさんの作ったうどんを食べる。うまかった!隊長はBCで休養。

9月21日 晴れ後曇り BC〜C1〜BC

 午前7時22分発。倉橋さんとハイポーターは朝早く出発する。

 午前11時〜12時20分、C1に荷揚げをする。倉橋さん達は6120mまでルート工作をする。午後2時18分、BC着。サマ村の若いリーダーが中国製のビールを持って来る。今日は泊まるらしい。

9月22日 晴れ BC

 今日は休養する。昨夜、首から肩にかけて湿布をしてもらい幾分眠れたが、顔のむくみが取れない。朝食後、サマ村のリーダーが村に帰る。彼は村でロッヂを経営しており帰りに寄ってくれと話していた。

 午前、洗濯の後は横になっていた。午後、花の写真を撮りに200mほど下る。数種類のエーデルワイス、キノコ、その他の草花を撮る。

   

9月23日 曇り時々晴れ BC〜C1

 今日から2〜3日C1に泊まる。上部のルート工作、荷上げ、順応などのため。

 午前8時5分発。

 午後1時20分着、C1泊。食料は4泊分持ってくる。

9月24日 晴れ C1〜6405m〜C1

 午前6時40分発。午後3時〜午後3時22分、6405m地点到達。荷揚げ品をデポする。午後5時20分、C1着。 

9月25日 晴れ C1〜6600m〜C1

 

 午前6時35分発。

 午前11時45分〜午後12時20分、6405m地点。デポ品を回収。

 午後1時20分〜2時10分、6600m地点到達。荷揚げ品をデポする。

 午後4時20分、C1着。セラック帯の最初のクレバスが大きく広がる。危険であった。C1には、隊長、私、栗原、斎藤のみが泊まる。後のメンバーはBCに降りる。

9月26日 曇り後雪 C1〜BC

 午前7時5分発。

 午前8時35分、BC着。到着後、食事以外は一日中横になっている。

9月27日 曇り時々雪 BC

 今日は休養日。

 午前、写真を撮りに行く。鷲の飛来した写真を撮る。午後、明日の先発隊の食料を用意する。5人(日本側2人、ネパール側3人)の4泊分を用意する。

9月28日 晴れ時々曇り BC

 午前8時55分、倉橋さん、ハイポーター達が出発する。先発の日本側は倉橋さんだけとなる。他のメンバーは休養。

 午前、リンドウの写真を撮りに行く。午後、明日からの食料、個装の用意をする。服装を高所用に替える。

9月29日 晴れ BC〜C1

 朝食前に荷揚げの食料、装備を用意する。

 午前9時55分発。

 午後1時25分、C1着。先発隊の倉橋さんとMr.フィンジョはC2泊。残りはC1に戻る。私はネパールスタッフのテントに入る。

9月30日 晴れ C1〜C2

 午前7時30分発。午後3時38分着、C2泊。倉橋さんとMr.フィンジョは7350mまでルート工作をしてくる。私は、倉橋さん、Mr.フィンジョのテントに入る。

10月1日 晴れ C2〜C3(7500m)〜C2

 倉橋さん、Mr.フィンジョウはBCに降りる。

 午前6時30分発。

 午後1時40分〜午後1時50分、C3。

 午後5時10分、C2着。帰りに食べ物を取らなかったのでバテる。ネパールスタッフはBCに降りる。

10月2日 晴れ後雨 C2〜BC

 出発前に、食料の在庫、不足分を調べる。

 午前8時20分発。

 午前11時10分〜午前11時30分、C1で休む。

 午後1時20分、BC着。BCに着くと、チェコ隊が近くにテントを張っていた。昼食を少し取り横になる。

 午後4時、パウダさんがミルクティーを持って来て目が覚める。雨が降っていた。この時期に、この高度で雨が降るのは異常である。夕食はあまり取れず残してしまう。不調である。

10月3日 みぞれ後霧 BC

 良く眠れる。夜半に降り出した雪がテントに積もる。朝、モーニングティーを持ってきてくれたパウダさんが雪かきをしてくれる。ありがとう。

 午前、朝食の後は横になっていた。午後、また花の写真を撮りに行く。途中で、サマの村人がチェコ隊の荷物を担いできたので写真を取らしてもらう。

10月4日 雪後雨 BC

 午前、隊長、倉橋さん、私の3人で最終の打ち合わせをする。午後、皆と打ち合わせをする。第1次隊は、倉橋さん、大久保さん、斎藤さん。第2次隊は、隊長、私、栗原さんとなる。明後日、第1次隊が出発する。

10月5日 曇り後雪 BC

 午前、写真を撮りに行く。午後、高所食の準備をする。

10月6日 晴れ後曇り BC

 久しぶりに快晴となる。マナスルのピナクルの上におもしろい雲が掛かっているので写真を撮る。

 第一次隊が頂上を目指して出発する。C1に追加分の食料を荷上げしてもらう。

 夕食の後、チェコ隊の2人が来る。フィクスロープの件で揉める。結局、話し合いにならずに終わる。
 
 明日、ハイポーターに荷上げしてもらう食料の一部を2次隊で持って行くことにする。パダムさんから、ダウラギリ1峰に石井さんのメンバーが登った事を聞く。ラジオで聞いたとのこと。


10月7日 晴れ BC

 午前6時頃、ハイポーター3人がC2に出発。午前、明日の出発準備をする。午後、休養する。

10月8日 曇り BC〜C1

 午前7時、C2にいる1次隊と交信。C2は視界50m。雪のため様子を見ているとのこと。食糧については、C3のレーションを確認してから持って行くように伝える。

 午前8時交信。1次隊がC3に向けて出発する。私達もC1に向けて出発する。

 午前9時15分。

 午後1時40分着。C1泊。マキシムテントを片付けてしまう。全員、ジャンボテントに入る。

10月9日 晴れ C1〜C2

 午前7時30分発。

 午後3時12分着、C2泊。1次隊は登頂する。

10月10日 晴れ後風雪 C2〜C3

 午前8時20分発。

 午後5時20分着、C3泊。

 7000m付近で1次隊と擦れ違う。この辺りまでは暖かく羽毛のジャケットを脱ぐほどだったが、後半に風が強くなり寒気が来る。 あまりの寒さに行動が鈍る。

 テントで暖かいミルクティーをティカに入れてもらい落ち着く。


10月11日 地吹雪 C3

 テントから出られず。停滞となる。

10月12日 地吹雪 C3〜6600m

 テントの中はマイナス20度。ガスストーブを3つも焚いているのに暖かくならない。外は台風並の風である。

 朝食を取るが、吐いてしまう。私は順応が出来ていなかった。標高7500mでは体力も消耗してくる。明日の好天も望めそうも無い。体力が残っているうち下降しなければ危険であった。

 アタックは中止となる。強風の中でテントをたたむ。私の100Lザックは一杯となり、入りきらない荷物を脇に付けて立つと風に煽られてひっくり返る。崖際であれば落ちていた。

 急いで降りる。ティカ、私と続く。テント場を出てすぐにアイスバーンとなる。傾斜は緩いが風に煽られるため踏ん張りながら少しずつ下りる。しかし、稜線を下がると風は弱くなり気持ちに余裕が出る。

 しばらくして後ろを振り返ると2人の姿が見えなかった。すぐに無線機をオープンにする。

 間もなく近藤さんから連絡が入る。先行しているティカに、テントを置いて上に来るように指示がある。私にはテントを設営して待つようにと指示がくる。

 ティカが空身で上がってくる。ティカのヘッドランプは寒さに弱いので私のと交換する。

 6600m付近にテントを設営。傾斜地で風に煽られるため時間が掛かる。

 厚手の手袋では作業が出来ないので、薄手の手袋で設営をする。

 雪で濡れたため感覚が麻痺してしまうが、なんとか明るいうちに設営する。しかし、谷側の方がはみ出し不安定であった。

 ペグもないのでピッケル、バイル、スノーバーで固定する。中に入らなければ風でテントが飛ばされそうであった。

 しばらくして暗くなり、近藤さんからビバークをすると連絡が入る。そのうちティカが降りてきて2人で待機する。

 ガス、食糧はなし。シュラフに包まりながら連絡を取り合う。ティカは疲れて眠ってしまう。

 BCにいたハイポーター達は動かないので倉橋さんが1人でそちらに向かっていると連絡が入る。なぜ?と疑問が湧く。

10月13日 雪 6600m付近

 午前2時頃、倉橋さんが到着。ガスボンベ、酸素、食糧を持って来る。早々、コンロを焚きお茶を飲む。倉橋さんは眠ってしまう。

 火のばんをしながら、BCと連絡を取り合う。

 倉橋さんは2〜3時間眠った後、近藤さんの所に向かう。

 ティカも目を覚まし、ホツトジュースを飲んだあと向かう。

 私は、体力、気力が無くなっており行動不能に陥っていた。テントで待つことにする。それにテントが飛ばされる心配もあった(自分自身に対する言訳である)。

 午後12時30分頃、栗原さんは、倉橋さんとティカさんに搬送されてくる。

 近藤さんは後から空身で降りてきた。

 近藤さんから、倉橋さんがつく前に栗原さんは異常を来たして服を脱ぎはじめたとのことを聞く。

 私の横になっている彼の姿はとても痛ましく、見ることが辛かった。

 日が差してテントの中が暖かくなると、栗原さんは気持ち良さそうに笑みを浮かべて、ときおり手を差し上げる。だれかがそばに来ているのだろう。

 午後2時40分、栗原さんの死亡を確認する。

 午後3時頃、倉橋さんとティカはBCに降りる。私は救援が来るまでの間、隊長をサポートするため残ることにした。

10月14日 晴れ後風雪 6600m付近

 午前、レスキュウヘリが近くまで来るが、テント場には届かず。今日来るはずのハイポーター達が来ない。ガスは昨夜に無くなり食糧も無し。

10月15日 晴れ後風雪 6600m付近

 午前、大型ヘリが頭上に来るが、我々をピックアップしないで戻る。食糧をテント近くに投下するが、中身は生野菜。バカにしている。

 午後、レスキュー隊が到着する。カトマンドゥからプラチリさん達が来てくれる。倉橋さんとティカも来る。しかし、サーダーは来なかった。

 栗原さんの遺体をヘリがピックアップ出来る所まで降ろすようにプラチリさんに頼む。

 私と近藤さんは、今から降りるのは危険(空腹状態で夜間行動になる)と感じ、腹ごしらえをして明日降りることにする。

結局、栗原さんは降ろすことが出来ず途中に放置されてしまう。

10月16日 晴れ6600m〜C1〜BC〜ケルモカルカ〜カトマンドゥ

 午前6時30分発。途中で、栗原さんの遺体をクレバスに投下する。降雪で雪が深く、しかも、クレバス、セラック帯の搬送が不可能であった。

 午前9時45分、C1着。斎藤さんが来ていた。ここでヘリコプターを待つ。

 午前10時45分、ヘリにピックアップされる。

 午前10時50分〜午前10時55分、BCの荷物とメンバー達を乗せる。

 午前11時〜午前11時50分、ケルモカルカで給油。

 ヘリの中でサーダーであるMr.ラハールに、サマ村の警察署に行く仕事が残っているので降りろと言うと、私に殴りかかってくる。あきれてしまう。

 その後、遅れて乗って来た近藤さんもラハールに降りろと言うと、暴れ出した。どうしようもない苛立ちが私を包む。

 午後12時40分、カトマンドゥ着。すぐコスモトレックに行く。

 日本から宮崎さんと永田さんが来ていた。事務所で話しているとき、大津さんの主人がおかしなことを言ったので、大声を上げてしまう。また、どうしようもなくなる。

 片山右京さんが居たので、プラチリさんの件でお礼を言う。プラチリさん達はチョオユー峰の登頂パーティに招待されていたのを止めて救援に来てくれたのだった。

 おなかが空いてきたので菊レストランに食事に行く。おいしかった。今朝、6600mの所にいたのに、今ここで食事をしているのが妙であった。不思議な気持ちであった。

 その後、私と近藤さんは病院に行く。宮崎さんと千葉から来ていた野田さんが付き添ってくれる。

 隊長はここで入院となる。私は指の状態が悪いのですぐに日本へ帰るように言われる。今夜の関空便で帰国となる。

 モハン宅に帰ると、モハンダイが泣きながら抱きしめてくる。そして、「もう山には行かないで」と言われる。私は驚いて戸惑ってしまう。プロミナさんも涙を流している。感情をあらわにして心配してくれる気持ちがうれしかった。

 午後11時45分、カトマンドゥ発。

10月17日 

 関西空港に着く。大神田さんが出迎えてくれる。花巻空港までの手配をしてくれる。

 午後6時45分、花巻空港に着く。

 報道人が出口を塞ぐように沢山いるのに驚く。お世話を掛けた人達に一言お礼を言いたかったのに塞がれてしまう。わけもなく怒りが込み上げてくる。

 すぐに、家族と共に栃内第2病院に行く。院長が待っていてくれた。早速、ブロック治療をしてくれる。

10月18日 栃内第2病院

 午前8時10分、目が覚める。病院のベッドに居ることが夢のようだ。48時間前にヒマラヤの6600mに居たという事実が夢のように思える。

2002年12月14日 栃内第2病院

 生と死の狭間で死に行く仲間と過ごした4日間は、悲しみという感情を喪失させてしまった。

 なぜだろう。求めるものが余りにも大き過ぎるのだろうか。苦しみが重く這い上がることが出来ない。新たな試練なのだろうか。ヒマラヤの神々が私に問うている。

 マナスルで撮った花の写真を見ながら過ごす。ヒマラヤに咲く花。この輝きがいい。精一杯生きている姿は私に勇気を与えてくれる。



退院後

2月6日 


透徹した大気の中で

マイナス40度C、湿度0%、希薄な大気の中で私は無に帰る

ゆっくりと動く時の刻みの中で

このまま大地に眠るのだろうか

まだ指先に痛みを感じるが

もうどうでもいい

生きることも死ぬこともどうでもいい事なのだ

このまま静かに闇に包まれていたい



いつの間にか眠ったようだ

夜明けの寒気に目が覚める

やがて暖かい光が差すのだろう

やわらかな大気が包むのだろう

待ちどおしいと思う



静かだ

テントを叩く風の音がどこか遠くの事のように思える

流れる乾いた雪の音も聞こえない

静かだ

静寂な闇が私を包む



やわらかい

やわらかな暖かさが私を包む

静かに眠る仲間のそばで

ほんの少しの希望が私を支える

きっと彼らは来てくれる

信頼は信実となってあらわれる

そんな思いが巡る

あきらめなどはない



のどが乾く

乾いた雪をプラスチックのボトルに詰め込み

雪が溶けるのを待つ

幾らか湿り気が出てくる

暖かい陽射しが差している間にしゃぶりつく

口の中に吸い込まれてゆく

あっという間に無くなってしまう

また、ボトルに詰め込み溶けるのを待つ

僅かな時の刻みが無限の長さに思える



このままヘリがこないのだろうか

幻聴とわかっていてもヘリの音が聞こえる



再び冷気の中で無に帰るのだろうか



苦しくはない


それもいい


それも心地いい





恐怖は無い




静かな眠りがあるだけさ



再び闇夜が訪れようと

再び無に導かれようと

必ず光の朝が私を甦させる



大地の営みが私を必要とするなら

私は再び目覚めるだろう

そして、感受するだろう

身体を包む全てが生きていることを




3月26日

 マナスル峰での事は、生と死の分岐点だった。

 生の道を取った時点で切り替える事が出来ない宿命を背負う定めになった。

 それを重荷として引きずって行くか、受け止めて行くかのどちらかだ。


 忘れてはいけない。逃げてはいけない。

期日不明

 失われた感情を取戻すため沢山の映画を見る。抗いがたい何かが私を苦しめる。

期日不明

 栗原さんの山岳会から追悼文を依頼されて、気づいたことを箇条書きに書いてみる。

◎言葉が少ない人だった。

◎彼が亡くなった翌日の夜明け、日の出を見ていると涙が自然と流れてきた。その時ようやく栗原君が死んだという実感が湧いて来た。

◎彼が息を引き取った姿。おだやかな顔であった。私は彼の瞼に手を添えて、瞼を閉じる。彼の死を実感出来ず、むなしさだけが広がっていった。

◎16日の朝。私と近藤さんは、出来るだけつれて帰ろうとしたが、深雪とクレバスに阻まれてしまい止む無くクレバスに埋葬する。せめて家族の元へ届けようと思ったが、余りにも無力であった。気が抜けたのかもしれない。その後、空身の下降であったが足取りが重かった。

◎マナスルからヘリでピックアップされ30時間後には、日本の病院に居た。そして3ヶ月余り、ドクターの懸命な治療により指をきることなく退院することが出来る。

◎彼の死はとても重く、これまでの登山のあり方を深く考えさせられた。私の生き方は、ヒマラヤ登山を通じて多くの人達に感動を与え勇気を与えることだった。だから生と死の狭間を何度となく乗り越えてきた。私のような行為は無謀なのだろうか。

◎彼とは先発隊として一週間早くカトマンドゥに来て準備作業をしてきた。慣れない海外登山なので、私が仕切り、彼には事務的にしか話しかけなかった。

◎入院をして間もなく、ロビーでテレビを見ていると、ドラマの中で秋祭りのような場面が出てきた。ふと、栗原君はもう二度とこんな所にも行けないと思ったら、急に切なくなり病室に戻った。涙が止まらないのだ。生きている自分、死んでしまった栗原君。とても辛かった。



追悼文

栗原さんを偲んで

 栗原さんとは先発隊として、皆より一週間早くカトマンドゥに入り、準備作業をした仲です。彼は初めての海外登山であり、慣れていないので、最初のうちは出来るだけ一緒に行動していました。言葉の少ない、静かでまじめな人という印象を受けました。そのために、私のほうから一方的に話すことが多く、会話になることが余りありませんでした。今にして思えば、だれよりも身近な間柄だったはずなのに、コミュニケーションが取れていなかったと思います。もっと積極的に話し合っていれば良かったと思います。

 栗原さんの思い出といえば、カトマンドゥからベッシャールへ向かうバスの中で、相席の大久保さんと楽しそうに話していたのが印象的でした。まあ、彼に限らず若い女性がそばにいればいい気分に成るのですが、それにしても、それまでだれとも会話が少なかっただけに、何時間も話し続けているのには驚きました。それと、ベースキャンプで夕食を取っていたとき、突然、大久保さんに対して「女王様」と言って皆を笑わせたことがありました。まじめな人だけに大いに受けました。しかし、そのこと以外は目立つことがなく、ベースキャンプでは一人で過ごして居ることが多かったように思えます。こうして見ると、栗原さんは寡黙で孤独な人でした。

 今回の出来事は、私のヒマラヤ登山の中で最も印象的な出来事になってしまいました。病院での3ヶ月間は、あの時の出来事を検証する日々となり、無限にくり返される思考の中で、自分の無力さを思い知らされる日々でもありました。しかし、今となっては取戻すことができません。2度とあのような事故が起きないように今後のヒマラヤ登山に生かすことが、栗原さんに対して出来る供養であると今は思っています。

 マナスル峰の氷雪に眠る栗原さん。心からご冥福をお祈り申し上げます。

合 掌

 ようやく書き上げる。7日間も掛かってしまう。これで気持ちの整理が出来たわけではないが、埋もれていたノートと同じように埋もれていた私を取り出したようだ。酒井さんファックスをありがとう。

 2003年10月23日に書き上げ山友会の会報係りに提出する。



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