2001年秋マナスル峰(8163m)遠征記録 山友の原稿依頼を受けて何かを書こうと思ったら、2年もの間、埋もれていたノートが出てきた。偶然にも、今日は救出された日(2003年10月16日)である。 この記録は、ノートに書いている事を出来るだけ忠実に書くことにしました。他の方にはつまらないものになるかもしれませんが、簡略することで事実をあいまいにするおそれがあるからです。私が当時の私を見つめ直すためにも必要だからです。 8月16日 8月17日 8月18日 8月19日
午後5時35分カトマンドゥ着。日本との時差3時間15分。 8月20日 マオイストは、王様を排除し酒を禁止する事を選挙で国民に決めてもらうようにと話している。最近、ビール工場が爆弾テロにあったとのこと。 25日の夜、子供のお祝いがあるので近藤さんと一緒に来てほしいと言われるが、近藤さんと連絡が取れたなら連絡することにする。難しいと思う。 午後12時〜3時、コスモトレックにて
●マナスルは現在のところ我々だけである。9月1日に新しい情報が入る。 ●バンクドラフトのため登山料の入金は2週間ほどかかる。いったんニュウヨーク銀行に送って確認後になるため、登山隊の手続きはその後になる。ヘリの手配(危険地帯のため)、観光省とのブリーフィング、情報省との無線手続き等である。ただし、ヘリの手続きは問題なしとMr.シャルマンは話す。 ●25日に来る近藤さん(パキスタンから)と後発隊(日本から)の出向かいの手配を頼む。 ●私と栗原さんのチケット・パスポート、栗原さんの現金25万円をMr.ジョシに預ける。 ●倉庫の2Fから労山の荷物を全部1Fに降ろす。 ●キッチンテント・ダイニングテントを張り、ティカさん、パダムさん達にチェックしてもらう。 ●作成見本のフライシートが見つからない。モハンダイハウスのデポ品を捜すことにする。 ●ハイポーターのMr.パルデン、Mr.フィンジョ、Mr.ラハールを紹介される。作業を手伝ってもらう。 ●明日は午前10時まで来て大津さんと打ち合わせをする。 午後3時〜4時30分、タメールにて ●私のザックを修理に出す。明日の午後に取りに来る。 ●Mr.ミンマの新しい店でスノーバー50本、アイススクリュウハーケン30本、ロックハーケン10本、カラビナ20枚を注文する。明日の午後に取りに来る。 ●いつもの山の店で、私のオーバーミトンと厚手の手袋(フリース)を併せて700Rsで購入する。 ●カメラ屋で電池(CR123)4本を700Rsで購入する。 その後サンセットビューにて ●はがき50枚、切手37枚を購入する。切手の不足分は明日までに取り寄せてもらう。 ●フロントでMr.アルジュン、Mrs.タマン小川、ミナのお母さんと会う。 モハンダイ宅にて ●近藤さんの荷物を預けている部屋から食料品を私達の部屋に移動する。近藤さんのデポ品に見本のフライシートが無いかを確認をする。 ●日本から持ってきた荷物を整理する。高所順応でナヤカンガ峰に行って来る間、食料と薬はモハン宅におくことにする。リストに書いているテントが無いので後で倉橋さんに連絡をする。ガスボンベの空き缶はプラパールごと明日運ぶ。 8月21日 午前10時〜午後2時30分、コスモにて ●労山のテントをチェックする。そして、修理品と非修理品を分ける。 ●山童子のICI石井テント(7〜8人)をチェックする。 ●作成したフライシートをチェックする。明日、作成未了箇所を確認して引き取る。 ●ガスボンベの充填をティカさんに頼む。 ●パダムに炊事用具のチェックを頼む。購入品は明日、明後日にする。 ◎ 大津さんと打ち合わせ ●短波ラジオは市内で売っている。 ●テーブル、イスはあるがマナスル峰にヘリで運べるかどうかは荷物の量しだいである。 ●ランタン行きのバスは、安全性を考えてチャーターすることを進められる。 ●ヒマラヤ観光に預けている山童子のテントは、9月10日に小山さんがカトマンドゥに戻ってから確認する。 ●BC用マットレスは、レンタルより買ったほうが安い。 ◎ ティカさん、Mr.ラハールと打ち合わせ。 ●アルミ梯子が必要である。サマには無いので2ヶ所分カトマンドゥにて購入。 ●ランタンに行くバスの件。ドンチェの手前が土砂崩れのため乗換えとなるのでチャーターの必要は無い。 ●ナヤカンガのポーターはカトマンドゥから連れていった方がよい。バスの乗換えの時に必要。 ●ナヤカンガのルートは、コックのパダムが知っている。後で確認する。 ●ローカルポーターのサングラス、手袋はいらない。 ●マナスル峰登山終了後のラルキャパス越えはローカルポーターには無理。ローカルポーターはゴルカから帰り、メンバーのみがラルキャ越えであればOK。 午後3時〜4時30分、タメールにて ●ラジェンドラさんの所で10万円を両替する。61200Rs。 ●Mr.ミンマの所でスノーバー50本、アイススクリューハーケン30本、ロックハーケン10本、カラビナ20枚、ガスボンベ24缶を購入する。明日、コスモまで配達してもらう。 ●民芸品店にて、上部キャンプのテントで使うためにフェルトのシューズを買う。 タメールで買い物をした後、サンセットビューに寄り切手を購入する。モハン宅に戻る途中、ビールとジュース買って帰る。夕食時、大津フミさんより電話がある。モハンダイも喜ぶ。
8月22日 午前10時〜午後2時10分、コスモにて ●テント修理の職人を呼んで、ここで修理をしてもらう。明日まで掛かる見込み。 ●デポ品装備をチェックする。 ●ナヤカンガ峰分の装備を分ける。 ●フライシートが7張り出来上がって来る。チェック後、21000Rsを払う。 ●Mr.ミンマが昨日買った装備品を持ってくる。アルミ梯子の値段を聞くと1つ5,000Rsとのこと。 ●旗竿の件をラハールに尋ねると、現地調達でOKと言う。 ●ガス充填の引取りが夕方5時なのでティカに頼む。3500Rs前渡しする。 ●明日の買い物は、午前10時からティカとパダムと一緒に行く。Mr.ラハールにはテント修理の確認を頼む。 ●倉橋さんと伊東さんにFAXを打つ。 タメール、ニュウロードにて ●コスモを出た後、Mr.ミンマのところに行き、アルミ梯子の確認をする。8ステップが2台あると言う。値段も再確認する。 ●ニュウロードの電気屋で短波ラジオを購入する。 テンポーに乗って帰えるとモハン宅の前でラジェンドラさんに会う。25日のパーティの招待状を持ってきたとのこと。夕食前に、ナヤカンガ峰分の高所食と薬品を分ける。後送分は、26日にすぐ入れられるようにしておく。 8月23日 午前10時〜10時30分、コスモにて ●ティカさん、Mr.ラハールとローカルポーターについて話し合う。カトマンドゥからのポーター代は食事付きで250Rs/日くらい。ランタンはオフシーズンなのでポーターはいない。いても高いと言う。 ●倉橋さんからのメールを受取る。昨日、届いていたが停電になり印刷出来なかったので今日になる。 ●ティカさん、Mr.パダム、私達は食料品以外の買い物に行く。その間、ラハールさん達は修理したテントのチェックと装備の一部を梱包してもらう。 午前10時30分〜午後12時30分、アッサム、他 ●アッサムでキッチン用品を購入。ケロシンとケロシンタンクはナヤカンガ峰から帰った後にする。ケロシン1Lが13Rs、タンク1個が250Rsを確認。 ●マットレスの卸店に行き値段を確認する。1枚390Rsを12枚で3,800Rsにしてもらう。ナヤカンガの後に買いに来ることにする。 ●ガス充填品の受取がまだなので帰りに寄って行く。1個50Rs、60個受取る。口元の錆びたものははずす。 午後12時30分〜2時、コスモにて ●大津さんから25日に近藤さんと一緒に来る奥田さんの手紙を空港で渡すように頼まれる。 ●ナヤカンガ峰のルートについて他のシェルパから教えてもらう。BCは草地で標高4,000m位、BC〜HC(ハイキャンプ)は3〜4時間、HC〜TOPは、下部が1+1、中間4、頂上直下2の8ピッチフィックスが必要。古いルートより新しいルートの方が良いらしい。ピークの下のところに良いテント場がある。 ●明日は10時からBC、ハイキャンプ不足分の食料を買出しに行く。ドッコ、ビニールも購入する。 ●今日中にテント修理が終わったら、ティカさんとMr.ラハールに確認をお願いする。修理したテントの種類と数は明日確認する。 ●2Fに置いたテント(ポール付)とフライシートを確認してわかるようにしておく。 今日は、コスモから歩いてロイヤルネパール航空会社前まで行き、そこからテンポーに乗って 帰る。途中でビールを買う。夕食前に個装を整理する。明日、コスモに運ぶ。 8月24日 午前10時〜10時50分、コスモにて ●栗原さんに修理テント、ナヤカンガの梱包品のチェック、2F倉庫の荷物の整理を頼む。 ●私とティカは、パダムと打ち合わせた後に食料品等を買いに行く。ただし、生鮮食品の購入は出発前日(26日)とする。 ●大津さんに、明日来る近藤さん、倉橋さん達の出迎えの手配をお願いする。近藤さんはPK午後3時10分着なので午後2時30分に私達をモハン宅でピックアップしてから空港に行くこと。倉橋さん達はRA410午後6時35分着なので午後6時にピックアップしてから行くことである。 午前10時50分〜午後1時、アッサムサウジの店にて 久しぶりにアッサムサウジの店に来る。ここから見る風景は変わっていない。3年ぶりであった。他の所は次々と新しく模様替えをしているのに、この辺りは相変わらず狭い間口と軒下で物を売っている。 この店のサウジ(主人)は、僕を覚えていた。最初は、息子が番台に居たが、昼頃になってサウジが出て来ていつもの席に座る。そして、息子の書いたビルをチェックして私に渡してよこす。 午後12時30分〜1時、コスモにて ●食料のパッキングをティカに頼む。 ●大津さんとシャルマンさんに再度、明日の車の手配を確認してからラジェンドラさんの所に行く。 午後1時30分〜午後4時、タメールにて ●ラジェンドラさんの店に行き、26日に1400$か17万円を両替するので500Rs札と1000Rs札を用意してくれるように頼む。隊費1万円(6120Rs)と私の100$(7600Rs)を両替する。 ●山の店で、栗原さんがオーバージャケット・ズボンの上下(2000Rs)とフリースの下ズボン(700Rs)を購入する。 タクシーに乗っている時、ラジェンドラさんの店にザックを忘れたことに気がつく。モハン宅から電話をして確認をとる。店の方に取りに行くので預かってもらう。 夕食は弘前の佐藤さんと一緒に取る。佐藤さんは、今年、高校の教師を定年で退職した後、7月12日からトリブバン大学で一年間勉強しに来ている。京都のマイ子さんも交えて夜遅くまで話をする。 8月25日 午後2時10分、コスモの車が迎えに来る。10分程で空港に着く。午後3時20分にPK266が到着。30分後、近藤さんと久しぶりに再会する。一緒に来た奥田さんに頼まれた手紙を渡す。 午後4時20分〜4時40分、コスモにて ●近藤さんから共同装備と、私と倉橋さんのイスラマバードのデポ品を渡される。私のデポ品は、エアーマット、羽毛服、シュラフ、カラビナ、シュリンゲ、ユマール、Pボトルである。 ●近藤さんとミーティングをする。これまでのいきさつを話し、疑問点等を話し合う。 ●ラジェンドラさんの子供のお祝いは近藤さんに行ってもらう。私達は、後発隊を出迎えに行く。 ●シャルマンさんに、夕方6時のピックアップと明日の午前9時30分にシャルマンさんの車でモハン宅に迎えに来る件を話す。 シャルマンさんの車で送ってもらう。そのまま待機してもらい、午後6時に私と栗原さんは空港に行く。近藤さんは、モハンダイと共にラジェンドラさんの所に行く。 8月26日 午前10時〜11時30分、コスモにて ●皆で梱包作業をする。 ●高所食のワカメが見当たらないのでモハン宅のデポ品を捜すことにする。 ●梱包後、ポーターの人数は18人必要となる。日当は225Rs/日となる。 ●食料購入の追加分として、パダムに3000Rs渡す。 ●ナヤカンガの雪袋はビニール袋を使うことにする。 午前11時30分〜午後1時、バラジューにて ティカさん、Mr.ラハールと私とでバスターミナルに来てバスをチャーターする。カトマンドゥ〜グランド間は7500Rs、グランド〜シャブルベシ間は1500Rsとなる。7500Rsは前払い、1500Rsはシャブルベシに着いてからとする。 午後1時〜1時30分、コスモにて ●明日は、タクシーでコスモに寄りティカさんかMr.ラハールを乗せて一緒にバスターミナルに来ることにする。 ●見本にしているフライシートの修理をティカさんに頼む。 ●倉橋さんが無線機の型番をジョシさんに報告する。 ●残りの作業(生鮮食料、ケロシンの購入に伴う梱包作業)を、ネパールスタッフに頼む。 午後2時〜4時、タメールにて ●ラジェンドラさんの事務所で28万円を両替をする。73600Rs。店のほうで絨毯を見た後、私以外はマナスル峰のオリジナル絨毯を購入することになる。数量はナヤカンガの登山を終えてからとする。忘れたカバンを受取る。 ●山の店で倉橋さんはアイゼン、斎藤さんはシュラフを購入する。 ●私は、近藤さん、大久保さんとミンマの店に行きアルミの梯子を注文する。その後、近藤さんはマッサージに行き、私達はモハン宅に帰る。 モハン宅にて ●ワカメの袋が見つかる。 ●両替したルピーを隊長以外で分けて持つことにする。私以外は3万ルピーずつ持ってもらう。 ●プロミナさんに、私のお金と隊費445200円を預ける。 ●明日の朝までの宿泊費を払う。 7時頃近藤さんが戻り、夕食とする。皆は疲れているので早めに夕食を終える。私はモハンダイと二人でツクチェブランディーを飲みながら、30分ほど話しをしてから休む。 8月27日 曇り後雨 カトマンドゥ〜シャブルベシ(標高1450m) 午前5時起床。午前5時40分朝食。午前6時20分発。コスモでティカを乗せ午前6時50分にバスパークに着く。バスはバスパークの入口で待っていた。 午前7時カトマンドゥ発。ポーターが一人余計にいたので確認してからの出発となる。 8月28日 雨後晴れ シャブルベシ〜ラマホテル(標高2400m) ポーターの前払い分10000RsをMr.ラハールに渡す。食料等、追加購入した不足分をティカさんに払う。バス代の後払い分もティカさんに頼む。大久保さんから預けていた隊費30000Rsを引取る。 午前8時発。今日から歩きとなる。午前9時55分〜10時25分、ドコン(1615m)にてお茶。早々ズガの洗礼を受ける。午前11時50分〜午後1時15分、バンブーにて昼食。 8月29日 雨または曇り ラマホテル〜ランタン(3320m) 午前8時10分発。明け方、雨が弱まり歩きやすい天気となる。ツーリストが少ないせいか、久しぶりのお客に喜んだサウジ(主人)とサウニ(おかみさん)の機嫌が良かった。 8月30日 晴れ ランタン〜キャンジュンゴンパ(3860m)〜BC手前(4300m) 快晴である。さっそく写真を撮る。 午前8時10分発。午前10時45分、キャンジュンゴンパ着。今日の宿となるヤラピークロッジにて昼食を取った後、順応のためBCまで行って来る。 8月31日 晴れ後雨 キャンジュンゴンパ〜BC〜C1(5000m) 出発前にMr.ラハールへポーター代を10000Rs払う。 午前7時35分発。 9月1日 雨 BC〜C1〜5200m〜C1 午前7時55分発。 9月2日 雪後雨 C1〜BC〜キャンジュンゴンパ 頭痛と食欲不振のため、下山する。 午前6時45分発。 9月3日 曇り時々雨 キャンジュンゴンパ〜BC 良く眠れる。体調が良くなったのでBCへ戻ることにする。この高度で一晩休息を取っただけなのに体力の回復を感じる。近藤さんから二日ほど休養を取るように言われたが、上部での順化を考えれば戻った方が良いと思う。 午前8時発。
9月4日 曇り後雪後雨 BC〜頂上(5846m)〜BC 午前4時に起床。近藤さんは上部に行かないことになる。 午前5時10分発。皆より早めに出発する。 9月5日 雨 BC 午前6時に起床。午前7時に朝食をとる。 9月6日 晴れ後雨 BC〜ラマホテル 出発前に栗原さんから隊費30000Rsを引き取る。 午前7時45分発。すぐそばのコルで写真を取ったあと出発する。 9月7日 曇り ラマホテル〜シャブルベシ 午前8時10分発。 9月8日 雨後曇り シャブルベシ〜カトマンドゥ カトマンドゥにはローカルバスで帰る。24名と荷物12個分で6960Rsとなる。 午前7時40分発。 9月9日 朝食後、会計簿を整理する。近藤さんに確認をしてもらった後、大久保さんに引き継ぐ。ただし、ルピーのみとしドルと日本円は近藤さんに引き継ぐ。その後、洗濯をする。 午後1時30分〜4時30分、コスモにて 飛田さんと会う。チョオユー峰に行き、その後、田辺さんとローツェ南壁に行くと言う。彼が来ていると思わなかった。 ●テントを全部出す。ナヤカンガ峰で使ったテントは、ネパールスタッフが、すでに乾かしていてくれる。 ●Ms.ホーリーの助手が取材に来る。 ●伊東さん、大津フミさんにFAXを送る。 倉橋さん、斎藤さん、栗原さんはラジェンドラの所に寄ってから帰る。近藤さん、大久保さん、私は、華に寄りマッサージをしてから帰る。華に、片山右京さんも来る。 9月10日 午前10時〜11時、コスモにて テントをチェックしていたが、斎藤さんと私は病院に行くため、残りの準備作業は皆にお願いをして行く。 午前11時30分〜午後3時、病院にて 斎藤さんは眼科で雪盲の状態を診てもらう。私は車に衝突したときの後遺症を整形科に診てもらう。ジットさんが同行してくれる。 モハン宅にて 遅い昼食を取った後、私と斎藤さん、栗原さんは先に帰りモハン宅にデポしている食料を整理する。 9月11日 午前10時40分〜11時、コスモにて 今日の作業の打ち合わせをする。私と大久保さん、ティカさん、パダムさんは買物に行き、他のメンバーには準備作業をしてもらう。 午前11時〜午後2時30分、タメール、アッサム、カララディにて
●空缶にガスの充填を頼む。 ●Mr.ミンマの店でアルミ梯子2台、新しいガスカートリッヂ12缶を購入する。明日の午後4時頃に届けてもらう。 ●アッサムでブルーシート、キッチン用品を購入する。 ●カララディにてマットレス、テーブル、イスを購入する。 午後3時30分〜5時、コスモにて ●Mr.ミンマがアルミ梯子とガスカートリッヂを持って来る。 ●ブルーシートにハトメを付ける。 9月12日 午前10時〜午後12時、コスモにて マナスル峰のフライトが14日になるかもしれないと言われる。生鮮食料品以外は今日中に買うことにする。 ●テントの修理とトイレ用テントの張り具合を確認する。 午後2時〜6時30分、アッサムにて ●アッサムサウジの店で食料品を購入。35日分、8300Rs。 午後7時〜午後7時30分、コスモにて ●マナスル峰のフライトが15日になり、観光省でのブリーフィングが明日の2時となる。 モハン宅に帰り夕食を取っているとモハンダイが呼びに来る。モハン宅のテレビを見ると、アメリカの世界貿易センタービルに旅客機が衝突したシーンが映し出されていた。キャスターはテロでないかと言っている。 9月13日 午前11時30分〜午後6時、コスモにて 午前11時にシャルマンさんの車で迎えに来てもらう。各自の個装と食料を運ぶ。ラジェンドラさんの所で両替をするため、大久保さん、斎藤さん、栗原さんがタメールの入り口で降りる。到着そうそう、ヘリコプターが明日飛ぶかもしれないと言う。確認中とのこと。 ●高所食、個装を梱包して重量を測る。 ●急遽、倉橋さんはスコップを買いに行く。
午後2時45分、近藤さん、倉橋さん、Mr.ラハールは観光省にブリーフィングに行く。その間、私は華へマッサージに行く。 午後6時〜午後9時、大津宅にて 夕食に招待される。食事をしながら世界貿易センタービルに旅客機が衝突をする場面を見る。衝撃的であった。昨日は追突した場面を見ただけであったが、今日はビルが崩れる場面も見る。
9月14日 午後12時〜午後2時30分、タメールにて ラジェンドラさんの所に両替を頼み行く。レートが不安定でT/Cが使えないと言う。ラジェンドラさんの知り合いがキャシュ$か円なら良いとのこと。アメリカなどの事情らしい。 モハン宅にて タメールから帰った後、日記を整理して大学ノートに書く。近藤さん達が遅いので先に食事をする。近藤さん達は、ボードナートにプジャー(祈願)に行き、その後、マッサージに行って来たとのこと。明日は6時に迎えが来るので、5時30分朝食とする。 9月15日 (晴れ)カトマンドゥ〜マナスル峰BC(曇り時々雪) 午前6時モハン宅を出発。10分ほどで空港に着く。 9月16日 晴れ後曇り後雨 BC 午前中、高所食をメニューごとにパック詰める。午後は休養。昨夜は眠れなかったせいか1時間半も眠ってしまう。 9月17日 晴れ後曇り BC 朝食後、ティカさん、パウダさん、ハイポーター3人は村長への挨拶と祈願祭のラマ僧をお願いするためにサマ村まで降りる。 午前中、梱包された装備を取りだして仕分けをする。午後は休養。午後5時にティカさん達が戻る。パウダさんは野菜と肉を担いでくる。 星野道夫さんの「旅をする木」のルース氷河の所を読む。日本の子供達をアラスカのルース氷河に呼んで一週間過ごしたとき、最終日の夜、オーロラを見た子供達の状況を書いた所が印象に残る。 言葉だけでなく、体験を通じて得ることがとても重要なことであると思った。星野さんの生き方は単なる自己満足でないと思う。 9月18日 晴れ後曇り BC 朝食後、パウダさんは旗竿用の竹を買いに行く。 午前10時30分〜11時50分、プジャー(祈願祭)。サマ村からラマ僧が来てお祈りをしてくれる。午後からこいのぼりを立てる。その後は休養。夜、星空となる。星がきれいだ。天の川がよく見える。 9月19日 晴れ BC〜C1(5725m)〜BC 午前7時30分発。午後12時20分〜1時50分、C1(黒岩の上)にテントを張る。ハイポーター達は先に着き、上部ルートを工作に行く。 9月20日 晴れ後曇り BC〜C1〜BC 午前7時45分発。午後12時18分〜午後1時、C1に荷揚げをする。 9月21日 晴れ後曇り BC〜C1〜BC 午前7時22分発。倉橋さんとハイポーターは朝早く出発する。 9月22日 晴れ BC 今日は休養する。昨夜、首から肩にかけて湿布をしてもらい幾分眠れたが、顔のむくみが取れない。朝食後、サマ村のリーダーが村に帰る。彼は村でロッヂを経営しており帰りに寄ってくれと話していた。 午前、洗濯の後は横になっていた。午後、花の写真を撮りに200mほど下る。数種類のエーデルワイス、キノコ、その他の草花を撮る。
9月23日 曇り時々晴れ BC〜C1 今日から2〜3日C1に泊まる。上部のルート工作、荷上げ、順応などのため。 午前8時5分発。 9月24日 晴れ C1〜6405m〜C1 午前6時40分発。午後3時〜午後3時22分、6405m地点到達。荷揚げ品をデポする。午後5時20分、C1着。 9月25日 晴れ C1〜6600m〜C1
午前6時35分発。 9月26日 曇り後雪 C1〜BC 午前7時5分発。 9月27日 曇り時々雪 BC 今日は休養日。 午前、写真を撮りに行く。鷲の飛来した写真を撮る。午後、明日の先発隊の食料を用意する。5人(日本側2人、ネパール側3人)の4泊分を用意する。 9月28日 晴れ時々曇り BC 午前8時55分、倉橋さん、ハイポーター達が出発する。先発の日本側は倉橋さんだけとなる。他のメンバーは休養。 午前、リンドウの写真を撮りに行く。午後、明日からの食料、個装の用意をする。服装を高所用に替える。 9月29日 晴れ BC〜C1 朝食前に荷揚げの食料、装備を用意する。 午前9時55分発。 9月30日 晴れ C1〜C2 午前7時30分発。午後3時38分着、C2泊。倉橋さんとMr.フィンジョは7350mまでルート工作をしてくる。私は、倉橋さん、Mr.フィンジョのテントに入る。 10月1日 晴れ C2〜C3(7500m)〜C2 倉橋さん、Mr.フィンジョウはBCに降りる。 午前6時30分発。 10月2日 晴れ後雨 C2〜BC 出発前に、食料の在庫、不足分を調べる。 午前8時20分発。 10月3日 みぞれ後霧 BC 良く眠れる。夜半に降り出した雪がテントに積もる。朝、モーニングティーを持ってきてくれたパウダさんが雪かきをしてくれる。ありがとう。 午前、朝食の後は横になっていた。午後、また花の写真を撮りに行く。途中で、サマの村人がチェコ隊の荷物を担いできたので写真を取らしてもらう。 10月4日 雪後雨 BC 午前、隊長、倉橋さん、私の3人で最終の打ち合わせをする。午後、皆と打ち合わせをする。第1次隊は、倉橋さん、大久保さん、斎藤さん。第2次隊は、隊長、私、栗原さんとなる。明後日、第1次隊が出発する。 10月5日 曇り後雪 BC 午前、写真を撮りに行く。午後、高所食の準備をする。 10月6日 晴れ後曇り BC 久しぶりに快晴となる。マナスルのピナクルの上におもしろい雲が掛かっているので写真を撮る。
午前6時頃、ハイポーター3人がC2に出発。午前、明日の出発準備をする。午後、休養する。 10月8日 曇り BC〜C1 午前7時、C2にいる1次隊と交信。C2は視界50m。雪のため様子を見ているとのこと。食糧については、C3のレーションを確認してから持って行くように伝える。 午前9時15分。 10月9日 晴れ C1〜C2 午前7時30分発。 10月10日 晴れ後風雪 C2〜C3 午前8時20分発。
テントから出られず。停滞となる。 10月12日 地吹雪 C3〜6600m テントの中はマイナス20度。ガスストーブを3つも焚いているのに暖かくならない。外は台風並の風である。 アタックは中止となる。強風の中でテントをたたむ。私の100Lザックは一杯となり、入りきらない荷物を脇に付けて立つと風に煽られてひっくり返る。崖際であれば落ちていた。 しばらくして後ろを振り返ると2人の姿が見えなかった。すぐに無線機をオープンにする。 6600m付近にテントを設営。傾斜地で風に煽られるため時間が掛かる。 しばらくして暗くなり、近藤さんからビバークをすると連絡が入る。そのうちティカが降りてきて2人で待機する。 BCにいたハイポーター達は動かないので倉橋さんが1人でそちらに向かっていると連絡が入る。なぜ?と疑問が湧く。 10月13日 雪 6600m付近 午前2時頃、倉橋さんが到着。ガスボンベ、酸素、食糧を持って来る。早々、コンロを焚きお茶を飲む。倉橋さんは眠ってしまう。 午後12時30分頃、栗原さんは、倉橋さんとティカさんに搬送されてくる。 午後2時40分、栗原さんの死亡を確認する。 午後3時頃、倉橋さんとティカはBCに降りる。私は救援が来るまでの間、隊長をサポートするため残ることにした。 10月14日 晴れ後風雪 6600m付近 午前、レスキュウヘリが近くまで来るが、テント場には届かず。今日来るはずのハイポーター達が来ない。ガスは昨夜に無くなり食糧も無し。
10月15日 晴れ後風雪 6600m付近 午前、大型ヘリが頭上に来るが、我々をピックアップしないで戻る。食糧をテント近くに投下するが、中身は生野菜。バカにしている。 午後、レスキュー隊が到着する。カトマンドゥからプラチリさん達が来てくれる。倉橋さんとティカも来る。しかし、サーダーは来なかった。 栗原さんの遺体をヘリがピックアップ出来る所まで降ろすようにプラチリさんに頼む。 結局、栗原さんは降ろすことが出来ず途中に放置されてしまう。 10月16日 晴れ6600m〜C1〜BC〜ケルモカルカ〜カトマンドゥ 午前6時30分発。途中で、栗原さんの遺体をクレバスに投下する。降雪で雪が深く、しかも、クレバス、セラック帯の搬送が不可能であった。 午前9時45分、C1着。斎藤さんが来ていた。ここでヘリコプターを待つ。 午前10時45分、ヘリにピックアップされる。 午前10時50分〜午前10時55分、BCの荷物とメンバー達を乗せる。 午前11時〜午前11時50分、ケルモカルカで給油。 午後12時40分、カトマンドゥ着。すぐコスモトレックに行く。 おなかが空いてきたので菊レストランに食事に行く。おいしかった。今朝、6600mの所にいたのに、今ここで食事をしているのが妙であった。不思議な気持ちであった。 モハン宅に帰ると、モハンダイが泣きながら抱きしめてくる。そして、「もう山には行かないで」と言われる。私は驚いて戸惑ってしまう。プロミナさんも涙を流している。感情をあらわにして心配してくれる気持ちがうれしかった。 午後11時45分、カトマンドゥ発。 10月17日 関西空港に着く。大神田さんが出迎えてくれる。花巻空港までの手配をしてくれる。 午後6時45分、花巻空港に着く。 10月18日 栃内第2病院 午前8時10分、目が覚める。病院のベッドに居ることが夢のようだ。48時間前にヒマラヤの6600mに居たという事実が夢のように思える。 2002年12月14日 栃内第2病院 生と死の狭間で死に行く仲間と過ごした4日間は、悲しみという感情を喪失させてしまった。 マナスルで撮った花の写真を見ながら過ごす。ヒマラヤに咲く花。この輝きがいい。精一杯生きている姿は私に勇気を与えてくれる。
退院後 2月6日
透徹した大気の中で マイナス40度C、湿度0%、希薄な大気の中で私は無に帰る ゆっくりと動く時の刻みの中で このまま大地に眠るのだろうか まだ指先に痛みを感じるが もうどうでもいい 生きることも死ぬこともどうでもいい事なのだ このまま静かに闇に包まれていたい
いつの間にか眠ったようだ 夜明けの寒気に目が覚める やがて暖かい光が差すのだろう やわらかな大気が包むのだろう 待ちどおしいと思う
静かだ テントを叩く風の音がどこか遠くの事のように思える 流れる乾いた雪の音も聞こえない 静かだ 静寂な闇が私を包む
やわらかい やわらかな暖かさが私を包む 静かに眠る仲間のそばで ほんの少しの希望が私を支える きっと彼らは来てくれる 信頼は信実となってあらわれる そんな思いが巡る あきらめなどはない
のどが乾く 乾いた雪をプラスチックのボトルに詰め込み 雪が溶けるのを待つ 幾らか湿り気が出てくる 暖かい陽射しが差している間にしゃぶりつく 口の中に吸い込まれてゆく あっという間に無くなってしまう また、ボトルに詰め込み溶けるのを待つ 僅かな時の刻みが無限の長さに思える
このままヘリがこないのだろうか 幻聴とわかっていてもヘリの音が聞こえる
再び冷気の中で無に帰るのだろうか
苦しくはない
再び闇夜が訪れようと 再び無に導かれようと 必ず光の朝が私を甦させる
大地の営みが私を必要とするなら 私は再び目覚めるだろう そして、感受するだろう 身体を包む全てが生きていることを
3月26日 マナスル峰での事は、生と死の分岐点だった。
期日不明 失われた感情を取戻すため沢山の映画を見る。抗いがたい何かが私を苦しめる。
期日不明 栗原さんの山岳会から追悼文を依頼されて、気づいたことを箇条書きに書いてみる。 ◎言葉が少ない人だった。 ◎彼が亡くなった翌日の夜明け、日の出を見ていると涙が自然と流れてきた。その時ようやく栗原君が死んだという実感が湧いて来た。 ◎彼が息を引き取った姿。おだやかな顔であった。私は彼の瞼に手を添えて、瞼を閉じる。彼の死を実感出来ず、むなしさだけが広がっていった。 ◎16日の朝。私と近藤さんは、出来るだけつれて帰ろうとしたが、深雪とクレバスに阻まれてしまい止む無くクレバスに埋葬する。せめて家族の元へ届けようと思ったが、余りにも無力であった。気が抜けたのかもしれない。その後、空身の下降であったが足取りが重かった。 ◎マナスルからヘリでピックアップされ30時間後には、日本の病院に居た。そして3ヶ月余り、ドクターの懸命な治療により指をきることなく退院することが出来る。 ◎彼の死はとても重く、これまでの登山のあり方を深く考えさせられた。私の生き方は、ヒマラヤ登山を通じて多くの人達に感動を与え勇気を与えることだった。だから生と死の狭間を何度となく乗り越えてきた。私のような行為は無謀なのだろうか。 ◎彼とは先発隊として一週間早くカトマンドゥに来て準備作業をしてきた。慣れない海外登山なので、私が仕切り、彼には事務的にしか話しかけなかった。 ◎入院をして間もなく、ロビーでテレビを見ていると、ドラマの中で秋祭りのような場面が出てきた。ふと、栗原君はもう二度とこんな所にも行けないと思ったら、急に切なくなり病室に戻った。涙が止まらないのだ。生きている自分、死んでしまった栗原君。とても辛かった。
ようやく書き上げる。7日間も掛かってしまう。これで気持ちの整理が出来たわけではないが、埋もれていたノートと同じように埋もれていた私を取り出したようだ。酒井さんファックスをありがとう。 |