事故









1992年6月13日









谷川岳一ノ倉沢・滝沢第3スラブ


発刊にあたり

 
 谷川岳一ノ倉沢での遭難事故から5ヶ月が経過し、山はまさに冬本番の季節になりました。
 この度の事故では、多数の方々に大きな御迷惑をおかけしたことをここに深くお詫び申し上げます。おかげさまで上野は無事救助され怪我の回復も順調で元気にダウラギリ1峰の遠征にでかけました。

 遭難者3名の救助は、雲表倶楽部、山形クライミングクラフト、あらかわ山の会、江戸川山の会水戸葵山岳会など多くの岳友や、群馬県警・沼田警察署のお力添えにより、極めて迅速的確に行われました。ご協力いただいた皆様に、改めて心からのお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 今日までこの類の報告書は数多く世に出されて、多くの教訓を与えてくれてきています。それでもやはり、私たちはこの拙い報告書が、山を愛する仲間の遭難防止に少しでも役立てばと思うのです。

 「事故は起こしてはならない」と考えて登山を続けて参りましたが、今回の事故により活動の甘さを痛感いたしました。私たちの行うべきことは、今回の事故から得た教訓を踏まえ、会活道の全てを再点検して二度とこのような事故をおこさないよう、永く安全な登山活道を続けることだと思います。

 皆様の変わらぬ御指導をよろしくお願い申し上げて、お礼と発刊の御挨拶といたします。

        1992年11月

                       橋本 久   上野 幸人   高橋 尚子


入山から事故発生までの経過

橋本 記

  滝沢第3スラブは、リーダーの上野は過去夏は2回登っているが、冬期は5~6回気象条件が悪く撤退しており今年の2月も今回のパートナーの高橋と下部登攀のみで引き返している。

 ダウラギリの遠征のトレーニングとして向かった上野、橋本。サトパント遠征の技術アップの為向かった高橋。それぞれ異なった思惑を持っての入山となった。

1992年
6月12日(金)雨
 盛岡発(18:40)  東北自動車道を一路谷川岳へ。

6月13日(土)雲り
 一ノ倉沢出合着(1:40) 車内で仮眠をとる。一ノ倉沢出合発(5:30) 天候は曇りであるが回復の兆しがあり、とりあえず第3スラブ下部まで行くことにする。下部まではテールリッジから南稜テラスを回って行くことも考えられたが、雪渓がかなり残っておりしかも安定していたのでそのまま沢を詰めることにする。雪渓の上部は固く、ピッケルで足場をカッテングしながら登る。上野はジョッキングシューズ、橋本と高橋は軽登山靴。

 滝沢下部着(6:55) 先行パーティー1組(2組)。腹ごしらえし、すぐに上野がトップで雪渓と岩の空間の少ない所を見つけ2~3m下降し本来の取り付き点まで階段状のトラバースをし、登り始める。先行パーティーが雪渓上部から取りついてきて、我々に追いついてきたので先行を譲る。しかし、2ピッチ目で詰まり下降する事となる。我々もルートを間違っているのではないかと思い、滝口の方に上野が下降しながらトラバースしてみたがだめであった。結局ルートは間違っていなかった。先行パーティの懸垂下降でかなりのロスタイム。

 滝沢下部登攀再開(10:00)2ピッチ目は、ルートが所々濡れているうえに残地ハーケン、シュリンゲが頼り無く慎重に登る。2ピッチ目終了点のテラスは3人では窮屈であった。上野トップで続行。3ピッチ目は沢の水量が多く全体的に濡れておりⅣ級A1以上の困難さを感じる。滝沢下部を抜け、2級の斜面を橋本、高橋が先行してY字河原へ向かう。

 Y字河原(12:15~12:30) 行動食を食べ、上野トップで登攀を再開する。天候が回復し3人の調子もいいので、今日中にドームまで行けると判断。しかし、春のダウラギリ偵察から帰ってから体調がいまいちの上野は、動いているときはいいが立ち止まって確保していると貧血症状が出、苦しんでいる。また、上部は交代でリードする予定であったが、濡れていてコンデションが悪いのと、下部を抜けるのに時間をくってしまったので上野のリードで登攀を続ける。

 リーダーよりルート確認の指示がでるものの、高橋、橋本は第1バンドも第2バンドも確認できぬままただついていくだけ。天候は持ちそうであるが、滝という滝がすべて濡れている。

 F4通過(14:30) シャワークライミングに近い登りを強いられる。残地ハーケンはあるがフリクションが殆ど効かず、かなり苦労して登る。

 F5は濡れているが3級程度の易しさなので橋本リードですすむ。

 F6(15:30~16:00) 上野リードで登る。上野が登り切り確保体制に入り、橋本、高橋が自己ビレイを解いた直後岩が落ちてくる音がする。2~3個小さな岩が背中をかすめる。

 お互いにコールして無事を確認する。「また来るぞ」の声を聞くや否や、今まで聞いたこともないような轟音が聞こえてきた。ただ岩にくっつき必死に流されないよにするだけ。岩と氷の混じった流れ、何が起きたかぜんぜん分からない。





事故発生

橋本 記


6月13日(土曜)
 16時頃第3スラブF6において第3スラブ上部からのブロック雪崩に直撃される。

 トップで登り切り、確保体制に入っていたリーダーの上野幸人(38)が頭部を受傷する。セカンド(高橋)ラスト(橋本)の2名は自己ビレーを解除し登攀体勢に入っていたもののまだ登りはじめておらず、しかも、沢の左端でややかぶり気味の場所にいたため、直撃を免れ大事に至らずにすむ。

 雪崩直後、下の2名は急ぎ事故ビレーを取り、上野にコールするが全く返事がない(本人は下を見ながら反応していたつもりだった、との事)。緊急事態発生を認める。約10分後、呻く様な声が微かに確認される。このままでは3人共最悪の事態になる可能性が高いと判断し、衝立付近に取り付いているパーティー(後に雲表倶楽部の藤原雅一氏パーティーであることを知る)に救助依頼のコールを送る。微かに「了解」のコールを聞く。しかし確実に通じたかは翌日の救助隊の偵察ヘリに出会うまで確認できなかった。

 16時20分。このままバラバラでビバークするのは危険と判断し、ザイルが固定されていることを確認し、橋本がプルージックで上野の所まで登る。すぐ岩陰にうずくまっている上野を発見。下部と違い雪崩の余韻がなまなましく残っている。2次3次の崩壊の危険を動物的に察知したのか、上野が『早く(下の安全なテラスまで)下りましょう』と、呟く。意識は朦朧としているが何とか自力でクライミングダウン出来そうと判断。ザイルを引き上げ、約20m下、高橋のビレー点の上部のテラスまで橋本の確保で上野をクライムダウンさせ、すぐ固定する。このテラスは3~4人が腰掛けて座れる程度の広さがあり、上から雫が落ちてるが本流の影になっており、再びブロック雪崩がおきても直撃は避けられる所であった。ヘルメットを上野自ら外す。危険だからと言っても無理やり外してしまう。後頭部からの出血が止まらない。血に混じってゼリー状のモノが見える。しきりに吐き気をもよおす。上野の服装は、綿のTシャツの上にセーター、下はトレーニングパンツ。ザックの中は綿のトレーナー。本人は痛がり拒否したが何とか高橋のパイルジャケットと雨具(上)を着せると、自らツエルトを被り座り込む。ボルトを1本打ちたし(上野がうるさいと何度も文句を言う)、セルフビレーを確認し、とにかく楽にさせる。しかし、横になるほどのスペースはない。膝に寄り掛かった状態をつくるのが精一杯である。

 18時36分。ザイル等の回収、固定を完了した橋本がツエルトに落ちつく。

 暗くなるまで2時間程行動できたが、上野を先ず安静にし、ショック死だけは防がなければならないと思い、このテラスでビバークし、明日の朝次の行動を決めることにする。サバイバルシートにくるむ。少し落ちついてから、濡れたクライミングシューズと靴下を脱がせ乾いた靴下と上野自身のジョッキングシューズに履き替えさせる。頭もそうであるが頸の後ろ(頸椎部)を凄く痛がる。『頭が痛い』『ヘリを頼む』『今夜中は持たない』等のうわ言を盛んに発する。意識はあるが、朦朧としている。目は閉じているか時折開いても焦点が定かでない。

 落ちついたところで水分を取らせようとしたら、飲んだ物と一緒に吐いてしまった。無理に飲ませないほうがいいと判断する(このような時は絶食がよい)。テラスが傾斜しており、体がズルズル下がり背中が岩に触れる度に痛いと叫ぶ。背中にもブロックを受けているのかもしれないと思う。眠らせたらいいのか、出きるだけ意識をはっきり保たせるのがいいか判断に迷う(橋本は盛んに声を掛けて励ましてしまったが)。

 12時を過ぎるころになると幾らか落ちつき、後にもたれて20~30分間隔で眠るようになる。とにかく早く朝がくることを願う。

 明日の行動について話し合う。救助要請のコールが正確に届いていない可能性も考えられる。橋本が単独で下山して知らせることの是非。二次遭難の危険性、上野の容体、天気等・・・はっきりとした決断がつかない。

6月14日(日)
 4時起床。心配していた天候も夜半から星空となり快晴が期待される。上野は相変わらず朦朧としている。雨具を着ているため寒くはなさそうである。食糧は1食分のみしかないが、水は1ℓ以上残っている。ジャンピングセットは橋本の(もしもの事を考えて個人的に持参したもの)のみで共同のものが上野のザックに入っていると言っているが見当たらない(実は高橋のザックに入っていた)。橋本の持参したボルト3本のみでの下降は不安だが、運良く警察に通報が入っていたとしても救援隊がここに着くまでには1~2日はかかるだろうし、食糧もさることながら、上野の怪我の悪化が一番心配である。高橋は救助要請と状況説明の為に自分が下る自身はないのでここで待つと言う。

 衝立のクライマーの声が聞こえたので、救助要請のコールを送ったが、昨日と違い全く反応がない。6時頃、上野の意識がややはっきりとし、『下りましょう』という。リーダー上野のその一言で次の行動がいままでと全く違う方向に展開する。再度下山の意思を確認したうえ、自力での懸垂下降は無理でもクライミングダウンならば意識があるから何とかなると判断し、下ることとする。

 6時30分行動開始。F5は濡れているが傾斜はゆるい。橋本がトップで懸垂下降し約40m降りた所でハーケン2本で次の懸垂下降の体制を作り、片方のザイルを引き上げさせる。上野をクライミングダウンさせる。思ったより足どりはしっかりしている。続いて高橋が懸垂下降で下る。次のピッチに入るためザイルを回収しようとしたが流れない。2人でひっぱってもびくともしない。しかたなく橋本がプルージックで確保しながら登り返す。ザイルがテラスのすぐ下のハングの所で溝にはまっていた。ザイルの流れを変え、再度懸垂下降をする。今度は旨く回収できた。F5の基部までまだ10m位残っていたので再度懸垂下降する。登るとき使ったボルトが見つけられない。上野の指示で何とか見つける。今度は普通の懸垂下降でも大丈夫だという。朝下り始めた時より元気がでてきた感じである。この時、ヘリコプターが我々の頭上を2~3回旋回。大きく手を振る(これが3人とも大したことがないとの報告の原因か)。救援してくれるかと思いきや、そのまま帰ってしまった。しかし、これで救援体制が出来ていることがわかった。

 F4の下り(40m)にかかる。ここは急なうえに完全に水の流れの中にあるためズルズルである。橋本が下り始めた時、下からの救援隊が確認できた。ここを無事にクリアーすれば全員生きて帰れると初めて実感する。橋本、上野、高橋の順で下降し、さらに下降しようとしたが、またザイルが動かない。良く考えたら、シュリンゲに分散して荷重がかかるようにセットしたのはいいが、カラビナを節約するため直接ザイルをとうしてしまっていたことに気がつく。先ほどのように登り返してセットしなおそうかと思ったが、濡れていて状況が悪いのと、無理して事故をおこしたら何にもならないと思い、救援隊の到着をF4の基部で待つことにする。

 10時頃、我々が到着してから20分程で山形クライミングクラフトの滝口さんらと合流。上野は「キジを打ちたい」と言うが、滝口さんの指示で我慢させる。9ミリ45mのザイル・シングルで8ピッチ。各ピッチにそれぞれ1~2人配置されており、橋本、高橋は自力で懸垂下降し、上野は上から確保されながら無事滝沢下部の取り付きに下山。

 下では、山の会・盛岡山想会の仲間が出迎えてくれた。高橋がクライミングシューズのままでは雪渓で滑って危険の為、登山靴をお借りして、下から上げていただいた。さらにテールリッジまでの雪渓にもザイルがセットされており、それをつかみながら下る。上野は両肩を支えられたり、背負われたりしながらも、何とか出合にたどり着く。既に手配された救急車が到着しており、今や遅しと上野を待ち望んでいた。




(谷川岳市ノ倉沢滝沢スラブにおける)
捜索・救助活動記録
                           記録者 雲表倶楽部                            氏 名 藤原 雅一
 日 時 記                        録
 6月 13日
 PM.4:40



 PM.6:00
    ~   
 PM.8:00



 6月 14日
 AM.4:30

     5:00


     7:40


     8:30

    10:00


    11:30


 PM.0:40





 藤原、山田、井上にて一ノ倉沢滝沢第3スラブのブロック雪崩を目撃。登攀中の3人パーティーが心配になりコールを送る。「救助をお願いします。」とのコールを聞き、藤原が谷川岳登山指導センターに走る。そこから水上派出所に連絡し、県警の馬場氏に事故を報告、指導センターに来ていただく。

 計画書を見、状況から判断して上野氏がけがをしたと思われたので、盛岡山想会及びもりおか山の会に連絡をとり救助隊を出すことの許可を求める。東京、山形及び盛岡から救助隊を呼び寄せる。
地元の救助隊に関しては、県警を通してお断りする。


 上野氏の状況が判らないので、下から第3スラブを登るパーティーと稜線下りるパーティーの2つに分ける。

 下部パーティー出発。平行して井上、宮川、水戸葵山岳会のメンバー等で雪渓にフィックスを張る。

 県警の馬場氏に依頼し県警所有のヘリコプターで藤原が一ノ倉沢に飛ぶ。盛岡パーティーが第3スラブF5を下降しているのを確認する。

 稜線から下降する上部パーティーの行動を取り止め、残っていた全員が滝沢下部へ向かう。

 下部から登った救助隊はF4にて盛岡パーティーと合流し、そこまで張ったフィックスロープを使って下降を開始する。

 盛岡パーティーが雪渓を降りる。上野氏の様子がおかしいので救急車の手配をする。全員一ノ倉沢出合に向けて下山する。

 上野氏が救急車に乗る。(沼田脳神経外科へ行くよう救急隊員と交渉する。)

※ なお、盛岡パーティーの動きを把握するため、「あらかわ山の会」のメンバーがテールリッジに登り、常時望遠鏡でパーティーの様子を観察し、一ノ倉沢出合との連絡を行った。






事故原因・反省

                                                    上野 記


原因

 (1)第3スラブ上部に残っていた雪塊の崩壊による大規模な雪崩が直撃する。

反省

 (1)この時期における当地域の情報不足による読みの甘さ。
   (上部に雪塊が残っていることを認識していなかった)

 (2)入山において当ルートの状況をよく確認しなかった。
   (出合出発からY字河原まで曇りであった為、上部をあまり気をつけずそのまま登攀する)

 (3)トランシーバー不携帯
   軽量化も大事であるが、遭難時における対応をみると装備の一部として携帯することが望ましい。
   (私たちは救助依頼を他のパーティーにコールしたものの、確認がとれずその後の行動に迷った)

 (4)救助体制
   今回は藤原雅一さんの迅速な行動により救助体制を作っていただいたが、もし、藤原さんに発見され
  ていなければ今頃どうなっていたことか・・・。今後、このような事故を起こしてはならないが、不幸にも起
  きてしまった場合のことを踏まえ、いつでも直ちに救助に向かえることのできる体制作りを急がなければ
  ならない。



事故を振り返り

                橋本 久


 事故とは『防げる事故』と全く偶発的で『防げない事故』があります。『防げる事故』とは主に人間の側に責任があり、『防げない事故』は全く人間の側にミスがない場合と考えます。そして、今回の事故も『防げる事故』だったと言えます。

 「事故のない登山などというもが考えられない」と言われることと、『防げる事故』を『防げない事故』にしてしまうことは全く別のことだと思います。

 この報告書が完成するまえに、また会の者が岩登りで事故を起こしてしまいました。原因は(個人的な)単純なザイル操作ミスでした。しかし、何ら原因追求せず、同じような事故が起こる可能性を秘めたまま何も無かったのように山行が企画され実行されてます。『防げる事故』は徹底的に防ぐ努力をしなければ同じ様な事故がまた起こります。事故がなければ全て良しでは危険です。そして、このことに対し自分が何の役にもたっていないことを同じ会の人間として反省しています。

 仲間は一人として失いたくありません。(山の)仲間とは、ただ集まっているだけでなく、切磋琢磨しあいながらも、遭難事故に対する率直な意見を出し合うことも必要だと痛感しました。

 さらに、今回の事故の最大の原因が技術的なものでなく、自然状況のリーダー判断の甘さが大きく取り上げられますが、ただ付いていこうとしていた自分の責任を見過ごしては今後の教訓にならないと思っています。登山に危険はつきものです。だからこそ、主体的に登山に取り組まなければならないと思います。

 事故直後、もう登山をきっぱりやめようと思いました。しかし、救援隊の方々が確認出来たとき、涙がとまりませんでした。そして、見ず知らずの自分達の為に、体を張って登ってくる姿を見て、登山の素晴らしさを感じました。やめても後悔しないような内容の登山を暫く追及してみよう。結果(成果)を気にしないで、自分の納得いく登山をしようと思いました。

 今回の事故を振り返り、「名声を望むな」「登山に対しもっと厳しくあれ」と常に考えるようになりました。


                                高橋 尚子


○ブロックの残る第3スラブに取り付いたことついて
 下部の雪渓の状態を考えることはあっても、上部に雪が残っていることなど思いつきもしなかった。何の根拠があったわけでもなく、ただ漠然と上部の雪は全部落ちていると思い込んでいた。また、リーダーが以前に何度か登っているということでルート選定について何の疑問も持たず、ルート図はよく研究したが季節的なことまで含む記録は意識しては探さなかった。

○私自身の状態について
 登り始めて1ピッチで、リーダーから固くなっていると指摘される。確かに大きな壁を前にしたせいか、大して難しいとも思わないのに手足が萎縮しているのが自分でもわかった。登って行くうちにほぐれてはきたが、濡れている岩はスリップしそうで気持ちが悪くなかなかスピードが上らなかった。

○救助隊を待たずに下降を始めたことについて
 衝立のクライマーがなんの反応も示さない事で救助隊を待つつもりでいた気持ちが一気にぐらついた。確かに「了解」と聞いたから、橋本さんに何度その事を確認されても「間違いない」と答えた。「救助隊はきっと来てくれるから待とう」と。けれども、今朝の反応はどうだ。本当に昨日の私たちの救助要請はとどいたのか、救助隊は来てくれるのか。そんな時、上野さんが「下りる」と言いだした。
 ボロボロの支点を補うには不十分なボルトの数。いつ動けなくなるか分からない上野さん。今後安定した場所など望めないのだ。それなのに、私たちは行動した。
 橋本さんが先に降り支点を確認し上野さんをクライムダウンさせる。数メートルで彼の姿が見えなくなるともう降り始めたことを後悔していた。一ピッチの下りで、私が握るザイルに彼の身体がぶら下がっていることを思うと冷や汗が流れた。上野さんの眼はまた虚ろになりヘルメットの重みで水っぽい血が流れ出した。


  結果的には、ヘリが飛び救助隊は来てくれた。上野さんは自力で懸垂して下まで降りた。けれどもそれは結果論である。救助がこないことを前提に、降りはじめたのだ。もし救助隊と合流できなかったら、私たちは最後まで自力で下降できただろうか。私はできなかったと思う。上野さんを動かすべきではなかった。そして、意識の朦朧とした上野さんの言葉で行動を決定するべきではもちろんなかったのだ。

 しかし、では一体どうすることが最善と言えたのか私には分からない。いつか再び、あのような状況下に置かれた時、私は今回の経験を生かすことが出来るだろうか。経験を積み重ねたなら、これが最善の方法だと自身を持って判断しその通りの結果を得ることが出来るようになるのだろうか。





その他


(1)登山届けの記入ミスについて
  イ. 日程が6月14日(日)~15日(月)で届けられているが、実際は6月13日~14日であった。
  ロ. メンバー変更  小野 一太は都合で入山出来なかった。

(2)医療上の注意事項
  イ.ケガなどした時は、原則として絶食。
  ロ.今回のような場合は、頭を上にし楽な姿勢をとらせ安静にしているのがよい。

(3)装備・食糧の問題
  イ.装備点検のミス
     ジャンピングセットが2台もあった。また、リーダーの物が高橋のザックに入っており、無いものと勘
   違いし結局使えなかった。
  ロ.上野の下着が綿のTシャツであり、もし雨になり気温が下がっていたら、と考えると問題を感じる。
  ハ.食料
     個人の判断で行動食を持参したが、不十分であった(1ビバークを甘く考え)。

(4)保険について
  上野、高橋は日山協の保険(遭難・捜索救助費用共済)に加入。高橋はその他に橋本と同じ労山の遭
 難対策基金に加入。しかし、実際には日山協の共済金が2名分のみしか下りなかった。今後の注意点と
 して、各自加入の保険内容を吟味しておく必要があると思われる。
 ( ※ 現在は、今回のような場合でも労山の遭難対策基金は支払われる。 )




お世話になった方々


                                                                (順不同、敬称略)


 群馬県警察本部                                                    

 群馬県警航空隊

 沼田警察署
  馬場 保男

 谷川岳登山指導センター  ℡0278-72-3688

 雲表倶楽部
  武藤 英生  藤原 雅一  井上 勝行  岩谷 堅太郎  小林 宏   山田 祐一  伊藤 準一

 山形クライミングクラフト
  高瀬 吉幸  滝口 康博  日塔 光一  宍戸 英樹  池田 裕景

 あらかわ山の会
  小松 猛    矢崎 政美  加藤 茂   平野 智代  樫村 修二  福岡 幸雄

 江戸川山の会
  池田 勝裕  今野 一男  

 水戸葵山岳会
  秋山 和明  武藤 康宏  三村 相佑  佐藤 敏雄  菊池 正則  古目谷 忠  大貫 光則

 もりおか山の会 
  伊東 隆    小野 一太  佐藤 敏和  菅野 隆介  松島 祐一

 盛岡山想会
  千葉 健吉  及川 トミ  玉内 大唇  佐々木 将近  林 吉之

 しゃくなげ山想会
  菊地 晴美

 盛岡山友会

 沼田脳神経外科病院  ℡0278-22-5052

 〔盛岡留守本部〕
  阿部 あきら  阿部 光子  出掘 宏一

                                 他、多くの方々のお世話になりました。
   



編集後記


 お世話になった方々にできるだけ早くご報告しなければと思いながら、今日まで報告書の発行が遅れてしまったことを深くお詫びいたします。
 「発刊にあたり」の中でも触れておりましたように、その後、上野はダウラギリ1峰、高橋はサトパントに出かけ、登頂こそなりませんでしたが、貴重な体験をして無事帰国いたしました。
 今回の事故の教訓を生かし、山を愛する多くの仲間がいつまでも夢と希望を持って登山し続けられるよう、仲間つくり、遭難対策のシステム作りに初心に帰って取り組む所存です。
 この報告書が、一人でも多くの岳人に役に立ち、遭難防止の一助になればと願っております。

                                                 (橋本 記)



事故報告書

                    1992年6月13日

                 谷川岳一ノ倉沢・第3スラブ

                                    1992年11月 発行

編集者   橋本 久



2007年1月25日、HPに掲載

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