7月9日 成田⇒モスクワ⇒アルマアタ 不安がないといえば、うそになる。一年前の谷川岳での遭難から再起を賭けたこの登山が満足出来るものであって欲しい。一ヵ月後、無事に戻ってこられるだろうか。山に登ることが出来るだろうか。 午前 10:00、成田空港でインツーリストの倉岡さんと会いチケットを受け取る。荷物は1kgオーバーで5000円かかるので手荷物を増やした。手提げ袋を一つ買い、食料・ユマール等を入れる。昨日、荷物の個数を減らすためにナップザックを止めてショルダーバックにまとめたのがあだになった。持って歩くのが大変だ。山に登る以前に、アルマアタに無事に着くか心配だ。 午後12:00、成田空港発。出発ゲートの公衆電話から実家に電話する。母が出る。父親の具合が気がかりだったが、だいじょうぶとのことで安心する。 出発前に、お世話になった友人たちにも電話した。帰ったら成田から電話をくれるようにと、みんなに言われる。良い結果を持って帰りたい。そんな気持ちになった。 午後 5:00、モスクワに着く。時差はマイナス5時間。出迎えの人がいないのでしばらく待つ。 午後6:00、リョ―ダン女史が来る。車が故障したため遅れたとのこと。アルマアタ行きのドボジェドボ空港には午後10:00まで行けばいいので、それまでの間、市内観光をする。彼女は、予定していた人が病気になったため急遽、頼まれたという。日本には仕事で12回来日している日本通であった。 レーニン丘で記念写真を撮る。そばに教会があり、セントラルスタジアムとモスクワ大学が見えた。日本人観光客も来ていた。マロシェカ通りのポートヴォーリアンレストランで夕食を取る。まるでミュージアムのような建物であった。食事のとき、テーブルの前で歌と楽器の演奏をしてくれる。1986年に来た時に比べて人々の顔がにこやかであった。ソ連邦崩壊から2年、すべてが変わろうとしている。 午後 9:55ドボジェドボ空港に着く。 インターナショナルホールで登場手続きをしたあとリョゥダン女史と別れる。日記を書いていると、帰ったはずのリョウダン女史がコーヒーとお菓子を持ってきてくれた。彼女の気遣いに感謝する。 機内預けの荷物が31kgとなりオーバーウエイト料金を払う。ルーブルは断られたので米$で28ドル払った。 午後11:45アルマアタ行きの列に並んでいると、同列者に、あなたは戻りなさいと言われる。しかし、出発の時間なので心配になり階段を下りてきた女性に尋ねた。すると、一緒に来なさいと飛行機まで案内してくれる。スチュワーデスにチケットを提示すると席まで案内された。この飛行機に間違いないと思うが、アルマアタに到着するまでは不安である。後は運を天に任せる気持ちになる。
7月10日 アルマアタ⇒カルカラ 午前 7:00アルマアタ到着。時差はモスクワよりプラス3時間、日本よりマイナス2時間。 タラップを降りインツーリスト専用出口に向かう。ダウレン氏が迎えに来ていた。私より一回り体格のいい青年であった。以前、日本に行き北アルプスの槍ヶ岳を登ったという。 空港からタウガール山(標高5000m)が見えた。 ホテルオタワで朝食を取る。韓国テレビ局の人たちと同席する。 朝食後、セントラルスタジアムのオフィスで打ち合わせをする。最初に写真と地図を見せられる。そして、カルカラキャンプは3日間の滞在でよいかと訊ねられる。了解する。カルカラキャンプまで案内するユーリ氏を紹介される。 午前 9:30、ユーリ氏の車で出発する。 車の中で自己紹介をする。彼の登山歴を聞く。ダウラギリ1峰西壁、ダウラギリ1峰サウスピラー登攀。昨年はエヴェレストサウスにアタック。ポベーダ峰は3回登頂。ハンテングリ峰は沢山登っていた。年齢は38歳。誕生日が9月なので、私と同年輩である。すばらしい山歴の登山ガイドであった。 午後1:00、荒涼とした大地の中に忽然と大きな町、ケケが現れる。この町に向かって左側がカルカラである。あと50km であった。町を過ぎるとキルギスタン共和国の検問所があった。検問所を出ると遊牧民のテント(ユルタ)が見えた。 午後 2:00、カルカラキャンプに着く。到着早々、このキャンプのチーフであるカズベク氏とカザーシカ女史を紹介される。 午後 7:30、夕食を取る。 午後 9:40、外はまだ明るかったが寝床につく。 7月11日(晴れ)カルカラ 朝食後、散歩に行く。羊の群れと馬に乗った牧夫に会う。犬を伴っていた。川を渡りしばらく歩くと、馬に乗った少年が2人来る。身振り手振りでキャンプに来ていることを話す。彼らも分かっているらしい。すると、馬に乗れと進められる。生れて初めて馬に乗る。しかし、急斜面の岩場で怖がったせいか馬は動かなくなる。馬から降ろしてもらったあと彼らの写真を撮る。 午後4:00、キャンプに帰る。食事の前に、サウナとシャワーを使わせてもらう。 午後 8:00から夕食を取ったあとパーティがあり、午前0:00までイタリア人・ポーラド人・オランダ人・地元の人たちと過ごす。言葉は分からないが、みんなで歌って楽しく過ごす。 7月12日 カルカラ(晴れ一時雹と雨) 標高2200m 今日は高所順応に行くため、早めの朝食を取る。ピッケルと登山靴を持つ。 午前 8:45、出発。3300mから登山靴に履き替えガリーをつめる。 午後 2:10、3560mの頂きに出る。目標の山は、もう一つ先であったが時間切れなので戻る。 午後3:30、雹が降ったあと雨となったので、雨宿りをしようと近くの家に行く。女の子に声をかけたがドアを閉めて中に入ってしまう。しょうがなく大きな木の下で雨宿りしていると、昨日あった少年の一人が銃を持ってやってくる。女の子が、お兄さんを呼びに行ったのだった。少年は私を見るなり、銃を置いて握手をしてくる。家に入れと私を連れてゆこうとすると青空が広がってくる。天気が良くなったので、帰るとジェスチャーをする。すると、写真を撮ってくれと言う。今日は持ってこないと話すと、とても残念がった。ザックの中に行動食があったので、みんなで食べようと2人にも渡す。すると、「スパシーバ」と言って喜んでくれた。水筒を取り出して喉を潤しザックを担ごうとすると、お碗に牛乳のようなものを持ってきて飲むようにと差し出す。なんだろうと恐る恐る口にするとすっぱい味がする。首をかしげると、馬を指差す。馬乳酒であった。何ともいえない酸味があった。少しだけ頂く。お腹をさすりながら、調子が悪いのでと遠慮する。またいつの日か、ここに来た時は必ず寄ると伝えて別れる。 午後 5:15、キャンプに戻る。軽い食事をしたあと夕食まで休む。韓国人が沢山来ていた。 夕食時、ダウレン氏にパスポート・エアチケット・お金などを預けたいと話す。明日、アルマアタに帰るとき預かると言う。 7月13日 カルカラ⇒ベースキャンプ(BC) 標高3975m 午前 7:00、起床。午前8:00までテントの中で、ボーットしていた。いよいよベースキャンプ入りである。体調は良い。 今日は特別天気が良い。今日の朝のように順調に行って欲しい。何事もあせらずマイペースで行こう。再び、ここに良い思い出を持って帰りたい。 韓国隊のチェイサン氏と話し合う。メンバーは30人。ポベーダとハンテングリの2山を登る予定で来ていた。私が一人で来ていることに驚いていた。 ダウレン氏に、パスポート・エアチケット・お金の入った袋を渡す。 午前 10:20出発。 午前11:00、南イヌリチェリ氷河ベースキャンプに到着。荷物を降ろした後、再びヘリコプターに乗り、この周辺を遊覧する。 ハンテングリのコルを越えた時、私の高度計は5825mを示す。コルを越えた後、北イヌリチェリ氷河に行く。大きな湖があり氷の塊が浮かんでいた。その一つに着陸する。突然のことで、みんな驚いてしまう。ヘリコプターを降りると子供のようにはしゃぎ写真を撮っていた。私はカメラをベースキャンプに置いてきたので撮影できないでしまう。そして、次はモレーンの上に降り立つ。すぐそばに氷塔があった。記念にと思い氷塔に手を当てる。この氷が、どれだけの時間をかけて、ここに流れ着いたのだろうか。そして、どれだけの時間をかけて解けてしまうのだろうか。不思議な気分になる。 午後 12:00、ベースキャンプに戻る。資料の地図では、ベースキャンプは標高4200mとなっているが、私の高度計は標高3925mを示す。300m近い誤差があった。対岸にキルギス共和国側のベースキャンプが見える。 ベースキャンプのチーフであるオレック氏と会う。登山ガイドのアナトゥリ氏を紹介される。テントは二人一緒でよいか聞かれる。「OK!」と返事をする。 午後 2:00、昼食。キャンプでは若い人たちが大勢働いていた。肉体労働は男性が行い、女性は台所の方を主に行っている。日差しが強いので、みんな日焼けをしていた。食後、順応のため散歩しようと思いアナトゥリ氏に声をかける。同行するという。ズックでなく登山靴が良いとアドバイスしてくれる。 午後 3:00、出発。 午後 500、高度計は4120mを示す。雪が降ってきて寒く感じる。少し頭痛がした。 午後 6:20、ベースキャンプに戻る。キャンプに戻ると頭痛が治まっていた。 午後7:00、夕食。食欲はある。体調は良い。しかし、今夜は頭が痛くなるだろう。 午後 9:30、アナトゥリ氏とチーフと3人で打ち合わせをする。ガイド料金で揉める。話し合いの結果、一週間で280ドル。2日間は順応のためのサービスとなる。なお、ポベーダの登山は申し込みがないので許可できないと言われる。 日本のエージェントである倉岡さんより、現地で追加申し込み出来ると聞いてきたことを話したが、断られる。支払いは、お金をアルマアタのダウレン氏に預けてあるのでアルマアタで良いか聞くと、お金は後で送ってもらうので、ここで払うように言われる。やはり、すんなり行きそうもない。これからも何かありそうだ。 午後 11:00、就寝。疲れた。
7月14日(晴れ)BC⇔キャンプ1(C1) 標高4275m やはり頭痛のため、よく眠れなかった。しかし、小便に何度も行ったので、それほどひどくはなかった。今日は休息日にしようと思ったが朝食を取っているうちにC1まで行きたくなる。 午前 9:33、出発。途中でポベーダのルートを聞く。 歩いている氷河の右側に見える山稜を登り、奥の稜線にぶつかった所を右に登ると頂上への稜線にぶつかるという。 いずれ次回である。
午後 3:00、高度4275m地点で引き返す。 午後 5:16、BC到着。とても疲れた。お茶と軽い食事を取り横になる。 午後 7:00、夕食。アナトゥリ氏と話し合い明日は休息にする。どうも調子が悪い。食後サウナに行く。アナトゥリ氏の友人、ラーニャ氏とセルゲイ氏も一緒に入る。ラーニャ氏が、草を束ねたものを水にぬらして身体にかけたり拭いたりしてくれる。90度以上のサウナの中でやるので、濡れた水滴が熱くて大騒ぎとなる。私は悲鳴を上げた。そしてウオッカをいただく。今夜はぐっすり眠れそうだ。 午後 9:00、アナトゥリ氏がターニャ氏を連れて来る。アナトゥリ氏は、明日一人でC1に行くので、明後日、ターニャ氏と来て欲しいと話す。了解する。 7月15日(晴れ)BC 食堂に行くと韓国隊のリーダらしき人が声をかけてくれる。今朝の朝食は韓国隊に、ご馳走になる。美味しかった。特に味噌汁のようなスープが美味しかった。 午前 9:00、明日の準備をする。1時間ほどで終わってしまう。アナトゥリ氏はまだ出発しない。明日は友人のセルゲイ氏も同行するという。 午後 2:00、ちょっと横になるつもりが昼食の時間が過ぎていた。アナトゥリ氏が迎えに来る。そして昼食後、私の持ってきたテントを張ってみようという。どうやらアナトゥリ氏は出発しそうもない。 昼食後、ラーニャ氏も来てテントを張ってみる。アナトゥリ氏は明日一緒に出発するという。せっかくなので日本食を作ってみせる。アナトゥリ氏は美味しいと言ってくれた。 午後 7:00、夕食。 夕食後、昨日の夢を思い出して書いてみる。早く寝ても頭が痛くなるので暗くなるまで書いてみた。 「僕が登ろうとした訳」という表題が出てきて、子供達の前で今日までの私を語っていた夢である。 人間の可能性を他人と争うことなく自分自身の中で培ってきたことを山で実践していると話していた。決められたレールの上を歩き始めようとしている子供達に、生きるということは決められたレールの上を歩くことでなく、自分で道を作ってゆくのだと話していた。
もっといろんな事を話していたが、文字にすると上手く書けない。 子供達に、分かりやすい話し言葉で書き所々で撮った写真を載せて本でも作れないかなと思った。 午後 9:00、就寝。 7月16日(曇りのち雪)BC⇒C1 昨夜も頭が痛く、よく眠れなかった。 午前 9:42、出発。ビデオカメラはBCに置いてゆく。 午後12:21、C1到着。途中からセルゲイ氏が私のザックと交換して担いでくれる。アナトゥリ氏は、私の倍の荷物を担いでいるのに一昨日より速いペースで歩く。 C1に常設してある大きなテントに入る。みんなでココアを飲みながら、私の行動食とアナトゥリ氏が持ってきた魚の燻製を食べる。 上部キャンプからキルギス人が来る。和気あいあいとした歓談となる。 午後1:20、天候は雪となる。3人はBCに戻る。外に出ると、上のキャンプから次々と降りて来る。 アナトゥリ氏から、明日は午前4:00出発と言われる。腕時計のアラームをセットする。 午後 3:00、男女2人のエスパニア人が登って来る。C2まで行く予定だったが、ここに泊まってよいかとアナトゥリ氏に尋ねている。私に確認を求めたので了解する。 午後6:40、夕食を取る。メニューは、ウドン・モチ・サラミ・ビスケット・お茶である。アナトゥリ氏はモチを半切れしか食べなかった。ウドンも一杯だけだった。あとはサラミ・ビスケット・チョコを食べていた。私は余ったモチとウドンを食べたので、お腹が一杯になった。サラミは合わなかった。 外の天気は相変わらず悪い。 7月17日(晴れのち雪)C1⇒C2 標高5070m
午前 5:15、BC出発。 午:00、昼食を取る。クイックライス・ミソスープ・ゼリーを食べる。エスパニアの2人とカザフスタンの3人は、お茶を飲んだあと横になり眠ってしまう。アナトゥリ氏も横になる。私は横になると頭が痛くなるので正座したり、あぐらをかいたりして起きていた。 エクササイズとアナトゥリ氏に言テントの周りを歩いてみるが、途中で吐き気をもよおす。むくみを取るためにラシックスを半錠飲む。 テントに戻ると、アナリ氏が心配して明日戻ろうと言う。しかし私は、明日の体調を見て決めたいと話す。さらに、もう一つの案として、今すぐC1に戻り、明日またC2に来ようと話す。しかし、一度BCに帰ったほうが良いと言われる。 帰ると決めたせいか気が萎える。食欲もなく、夕食はお茶とビスケット2枚で済ます。ラシックスが効いたせいか2時間で3回も小便が出る。
午後 8:00であるが、まだ明るい。天気は悪くなり、湿っぽい雪が降っている。雪崩に気をつけなくてはならない。 7月18日(曇り)C2⇒BC 夜半から朝にかけて雪が降っていた。やはり頭が痛い。ゆるされるなら、すぐにでも下りたい。昨年のダウラギリ1峰でのことを思い出す。何でこんな思いをしてまで山に来るのだろう。とにかく呼吸をしなくては、深く呼吸しなくてはと思い、何度も身体を起こし深呼吸をする。このままでは死んでしまうのではないかと弱気になりそうだった。とにかく朝になればなんとかなる。深く呼吸しようと自分に言い聞かせた。それでも眠ってしまい夢を見ていた。頭に障害が出ているせいか、夢がおかしい。初めての経験だ。 何時だろう?ようやく朝が来る。アナトゥリ氏は、まだ眠っている。私は起こす気力もない。 午前 6:10、アナトゥリ氏が起きる。 「ヘッドシック?」「イエス。シック」 「ゴーバック!」「イエス。ゴーバック」 すぐに準備を始める。しかし、私はすぐに行動が出来なかった。 のどが渇き水を飲む。アナトゥリ氏がシュラフを片付けたあと、ようやく私も始める。しかし、思うように出来ない。アナトゥリ氏が片付けてくれる。 私は、なんとかオーバーズボンを穿きオーバーヤッケを着る。そして、靴を履く。とてもつらい。マットを畳んでいると吐き気を催す。先ほどの水を全部吐く。 午前 7:30、C2出発。カザフスタンの隊員も一緒に下りる。雪のためルートが分からなくなっていた。ザイルを出しコンテニュアンスを取る。アナトゥリ氏がトップ、私はミドル、カザフスタンの隊員がラスト。クレバスが多く危険極まりない状態であった。左右の壁から今にも雪崩がおきそうである。私はフラフラになりながら付いてゆく。 標高4800m地点で登ってくる登山隊と会う。下を見ると次々と来る。りっぱなトレイルが出来ていた。 午前 9:00、C1到着。お茶を飲み休息をとる。エスパニアの2人も下りて来た。 午前 10:00、C1出発。 午後 1:00、BC到着。BC手前で吐き気を催す。しかし何も出ない。BCまでは、とても長く感じた。 到着早々、ターニャ氏にドクターを依頼する。血圧を測り聴診器を当ててもらう。頭痛薬と思われるものを飲む。休んでいればだいじょうぶと言われるが、一度、カルカラへ戻りたいと話す。今夜、調子が悪ければカルカラへ戻ろうと言われる。 ドクターが酸素を持ってくる。昼食までの1時間、酸素を吸うと気持ちよく眠れた。 午後 2:30、昼食を取る。食欲がなくスープだけいただく。今日、BC入りした田中さんと会う。久しぶりに日本語で会話する。夕食まで話が止まらない。 午後7:00、夕食。やはり食欲がない。また、ドクターにカルカラに戻りたいと話す。 夕食後、スライド映写会が行われる。田中さんと見る。田中さんは途中で帰ったが、私は最後まで見入ってしまう。 流れる音と映像に、いつの間にか、昨年亡くなった佐藤敏彦さんの、お別れの会の映写会を思い出していた。とても悲しくなった。 午後 10:30、就寝。
7月19日(曇りのち晴れ)BC 睡眠は、まぁまぁだったが頭は痛かった。 朝食を取る。食欲はなかったが、おかゆのようなものを無理に食べる。 食後、ドクターに診ていただく。カルカラへ戻ってもよいと言われる。すると、アナトゥリ氏が大きな石を持ち上げて私に見せる。ターニャ氏がエクササイズと説明する。とにかく動けということらしい。それにヘリコプターはいつ来るか分からない。戻ってくるのも確定できないという。 アナトゥリ氏は日程を気にしていた。私は、まだ余裕があるので大丈夫と話したが彼には通じない。 とにかく寝ていてはダメなので散歩に出かける。その前に、昨日から胃の中が空っぽなのでラーメンを作り食べる。そして、粉末ゼリーをコッフェルに入れて、お湯で溶かして雪の中に埋める。散歩のあとの楽しみとする。 散歩して帰ると、酒を飲んでいるマリコ氏たちの所に呼ばれる。つい付き合ってしまう。ナターシャ(若い女性の通称)がそばに来て歌を歌ってくれたので、私も長渕剛の乾杯を歌う。すっかり気分が良くなり沢山飲んでしまった。しまいには、彼らにテントまで運んでもらう。 7月20日(晴れ)BC 昨日の酔いが残っている。しかし、頭は痛くない。夜も良く寝たようだ。 朝食を取る。食欲がなかったが、食べる。こんな不摂生では登頂が危ぶまれる。今の状態では、どうしようもない。カルカラへ行けば状態が良くなるのだが、それは望めそうもない。体調が良くなるまで待つしかない。流れに任せよう。とにかくこの環境に慣れよう。 午後4:00、田中さんが順応のため上部キャンプに行く。アシスタントにリマ氏が付く。 午後7:00、夕食。夕食が食べられる。全部食べる。食欲が出てきた。明日に期待しよう。しかし、風が出てきて急に寒くなる。山が見えない。天気が悪くなった。 7月21日(曇り時々雪)BC 午前 8:00起床。よく眠れた。夢も見た。いらいらしない夢だった。兄と両親がいろんな場面に出てくる。大槌の人たちが出てきた。なぜか懐かしく、うれしい家族の触れ合いだった。敏夫兄さんが大きな身体で出てきた。我々の兄弟が3人であることを改めて感じた。そして、母の苦しみも感じる。しかし夢の中では、おもしろく和気あいあいとしていた。ちょっと切なく、なぜか懐かしい夢だった。 食後、散歩をする。食欲も出てくる。山に登れそうな気がしてきた。山が登らせてくれる気がしてきた。歌を歌いながら散歩すると気分が良くなって来る。 アナトゥリ氏に、明日はC2まで行こうと話す。すると、明日はC1、次の日はC2、その次の日はC3泊とし、またBCに戻ってこようという。 私のプランを話す。明日はC2、次の日はC2とC3往復、そしてその後はBCには戻らずC3、C4と行き、アタックしたいと話す。 しかし、彼の表情から無理な様子と察する。ここまできた以上は、彼に任せるしかない。お金が足りなくなったら田中さんに借りようと思う。 雪が降ってきたのでテントに入り井上靖のシルクロードを読む。 午後 5:00過ぎに田中さんが戻ってくる。天気が悪いのでC1に登る予定を止めて4900mから戻ってきたと言う。到着早々、サウナに行く。気持ちよさそうである。順調に高度を上げている。さすがユーリ氏のガイドは上手である。明日からは私の番だ。自分のペースを乱さずに登るつもりであるが、気負いがないといえば嘘になる。 7月22日(晴れ)BC⇒C1 出発は午後なので午前中は手袋のほつれを縫う。その後、田中さんと散歩をする。 午後 12:00、通訳のターニャを通してアナトゥリ氏と話し合う。 今回はC3までとし、キャンプにいつまで滞在出来るかを聞かれる。8月6日と答える。私としては、調子がよければ頂上まで行きたいと思っていただけに残念であった。 出発までの間、リマ氏のテントでリマ氏の持ってきた絵を見ながら過ごす。リマ氏の絵を予約する。田中さんも一つ予約する。彼らはシャンペンを私に勧めたが、帰ってきてからと断る。 午後 3:28、出発。 午後 5:36、C1に到着する。思いのほか早く着く。ベルギーの人たちと一緒になる。総勢7人でテントに泊まる。夕食を一緒にいただく。彼らのトマトスープが美味しかった。 7月23日(曇りのち雪)C1⇒C2⇔標高5500m地点 午前 5:00、出発。4800m地点を歩いていると上部より雪崩が起きる。しかし、難を免れる。 午前 8:50、C2に到着する。前回設営したテントは無事であったが、危険と思われるので移動する。ベルギーの登山隊員が来たのでココアをご馳走する。 午前 10:00、アナトゥリ氏の無線交信から、ポベーダーにロシア人とイタリア人が登頂したことを知る。 午前 10:55、順応のため上部に出発。 午後 12:13、5500m地点到着。C3地点に沢山の登山者が見えた。順応はここまでとし引き返す。 午後1:00、C2に戻る。C2には私達のほかはだれもいなかった。みんなC3に行ったようだ。今日は1時間20分で高度差400mを登る。始めは、ゆっくり登っていたのだが、いつの間にか沢山の人を追い越していた。もっとも私は空身であるから当然なのだろう。しかし、今日の調子で順応が上手くゆけば、明日以降への望みが出てくる。 午後 3:00、無線交信。C3は天気が悪いので、次々と下りる隊が出ているらしい。先ほど登っていったベルギー隊の2人も調子悪くなりC2に下りて来る。韓国隊はC1まで下りると連絡が入る。雪崩の音が聞こえていたので、危険であると伝えていた。頂上までのFIXロープをロシアチームで工作しているが、困難を極めているらしい。 時間をつぶすのも生活技術である。アナトゥリ氏と飲料水を作ったり、外に出てエクササイズをしたりして過ごす。 彼とのコミュニケーションは骨が折れる。しかし、片言の英語と、それぞれの国の言葉を勝手に言い合い、それでも通じるからおもしろい。 今回は食糧を数多く持ってきたのが良かった。特にゼリーは好評であった。作り始めてから出来上がるまで「まだかぁ、まだかぁ」と覗きながら互いに顔を見合わせた。次にバターピーナツも良かった。「ポリポリ、ポリポリ」と一個ずつ丁寧に食べるので時間がつぶれた。 この場所は、外に出て歩けるのはせいぜい4〜5mの範囲である。歩き過ぎると危険なクレバス帯であった。そして、外は雪である。自ずとテントに戻るしかなかった。日本で、忙しさに追われている人たちに、ぜひ、こんなテント生活を体験させたいと思った。 (来たれエコノミックアニマル。ここでナショナルアニマルになって遊ぼう!) 標高5100m、雪の降っているテントの中で、よくこんなことを思いつくものだ。やっぱり、僕は頭がおかしいのかもしれない。 午後 8:30、就寝。早朝は寒いので、日が差してくる午前9時頃起きようと言われる。 7月24日(雪)C2⇒C3 標高5800m 昨夜は、少しだけ頭が痛かった。しかし、外に出て雪かきをしているうちに良くなる。 午前7:00、午前 9時の起床予定だったが、C3から大勢の人達が下りてきたので起きてしまう。ベルギー隊もBCに帰るという。ナショナルチームの大方は下りたようだ。 C1〜C2間では、雪崩が頻繁に発生していた。 午前 8:00、いつもの所から大きい雪崩が発生する。先に下りて行った人達が心配になった。 午前 10:00、出発。私達はC3に行くことにする。ちょっと心配であるが、昨日の感じであれば、この程度の天気(太陽は出ているが雲の中)は大丈夫であると思う。それに私の高度計は回復の兆しであった。チャンスがあれば登りたい。 午後2:00、C3到着。私は20kg、アナトゥリ氏は25kgくらいの荷物であったが、まあまあのスピードであった。途中で一度トップを変わったが、C3が見えるとアナトゥリ氏がトップに出る。しかし、少し歩いては立ち止まるので、変わろうと声をかけると、彼は譲らなかった。ガイドとしてのプライドがあるのだろう。 C3では雪洞に入る。中には、韓国隊の2人がいた。今日は休養とのことである。先に来ていたニコライ氏からお茶を頂く。とても美味しかった。 午後 4:20、偵察に出る。すぐ上の稜線を登り20mほど歩く。しかし、ホワイトアウトのため引き返した。 夕食後、明日、天気が良ければ空身でアタックしたいと話す。天気が悪い時はBCに戻ることで了解を得る。
7月25日(雪)C3 午前 5:00頃、アナトゥリ氏が外を見て、ノーグットウエザーと言う。雪もようなのでふて寝する。 午前 7:00頃、突然ハン氏が雪洞に飛び込んで来る。 「雪崩が発生し人が死んだ!」と叫ぶ。 ニコライ氏も入ってくる。 私はとっさに、彼らは雪の中をアタックして雪崩にやられたと思った。チェイサン氏がいないので、彼が死んだのかと思った。さらに、 「沢山死んだ!沢山死んだ!」 の連発なので他のチームもやられたのかと思った。 急いで靴を履き登山服を着る。そこにチェイサン氏が来る。思わず、良かった、と肩をたたきあった。落ちついて話を聞くと、ポーランド・ハンガリー・ロシアのジョイントチームのテントが、上部からの雪崩でやられたと話してくれた。ハン氏のテントも埋まったが、僅かばかり開いていた出口から這い出して助かったと言う。どうやら私達の雪洞だけが埋まらなかったらしい。 ジョイントチームの人たちは、ロープを各雪洞に渡して固定し次の雪崩に備えていた。それと併行して流された荷物を回収し安全な雪洞に移動していた。 私達の雪洞にポーランドの二人が来る。荷物を運ぶのを手伝うと言ったが断られる。もう既に終わってしまったらしい。 雪崩は午前 6:00頃に発生したとハン氏が教えてくれる。もう午前8時を過ぎていた。とりあえず終えたのかもしれない。 私はココアを鍋一杯作り、皆にふるまう。そんなことしか出来ない自分が情けなかった。その後、話を聞くと、4人死んだと言った。外に出てみると、彼らのテントは跡形もなかった。アナトゥリ氏とニコライ氏がBCと連絡を取った。C1・C2でも雪崩が発生していた。ポベーダのチームとは連絡不能であった。BCはパニックらしい。 落ち着いたのか、それぞれ別の雪洞に移動してゆく。この状態ではBCに戻れる見通しがつかない。食糧は2〜3日分あるが、どうしてよいか考えが纏まらなかった。 残った人たちが韓国隊の雪洞に集まり基地との連絡を取る。韓国隊から、お茶・ご飯・お菓子をご馳走になる。心の温まる気づかいに感謝する。言葉は通じないが、気持ちが一つになっていた。世界の人々が、こんなふうになれないだろうかと思った。今はただ待つしかない。次が始まるまで待つしかない。待つのも戦いだった。 4人死んだのが確実になった。7000m峰の山が身近な山として世界のアルピニストに開放されたが、過酷なスポーツフェスティバルとなった。 (これほど危険な状態なのに、何を求めようとしているのか。私自身への問いかけとなっていた) 標高5800mの中で、登ることより戻れるかを心配しなければならないのに、いまだに、私の気持ちは頂にある。私だけではない。ここにいる全員がそうである。残り食糧を心配するより、「基地に戻ったら酒でも飲もう」と話している。 不思議なものだ、死を目の当たりにして危険を目の前に感じながら、その程度のことしか考えつかないのだ。 7月26日(雪のち曇り)C3 午前 3:30、大便をもよおす。風雪の中、30分以上頑張ったが出なかった。便秘である。その後よく眠れないでしまう。朝、皆が起きてもシュラフから出ないで横になっていた。 午後 12:00、アナトゥリ氏に起きるように言われて、気力をふりしぼって起きた。外に出てみると暖かく感じる。相変わらず雪、ホワイトアウトである。何かをしなくてはと思いテントの撤収を手伝う。しかし力が入らない。とりあえず物を運ぶのを手伝う。動き始めると気分が良くなる。 作業をしながらハン氏と話す。 「4人死んだ。僕らはラッキーだ。明日天気が良ければBCに戻ろう。そして再びC3に来られるよう祈ろう」 午後 3:40、遅い昼食を取る。カップヌードルを2個、鍋にいっぱいにして5人で食べる。食べながら話し合う。アナトゥリ氏が、 「明日下りよう。朝5時起床。起きたら出発しよう」と言った。 ジョイントチームは遺体と遺品を掘り起こしていた。むなしく悲しい作業であった。ザックをパッキングしている。下りるのだろうか?こんな時間に下りるのは危険である。暖かいので雪崩の危険性もある。13人の意志なのか、わからない。 午後5:00、やはりジョイントチームが下り始めた。残ったのは、我々5人だけとなった。私達も明日の朝この場所を発つことにした。雪崩の危険はあるが、少なくとも彼らよりは安全である。 午後 7:00、空が晴れてくる。気温も下がってくる。ハンテングリが姿を現す。カメラを取り出し写真を撮る。感激の激写であった。 午後 8:00、BCの田中さんから無線が入る。心配してコールしてくれたようだ。明日帰ることを伝える。雪崩のことは頭の中にない。必ず帰れる。そう信じて伝えた。 次第に天気が良くなる。すると、私の中で、アタックを試みないで帰るのが惜しくなる。この状況では無謀である。自分が情けない。つくづくバカだと思う。生きて帰ってこそ価値ある登山だ。いつもそう言ってきたではないか。まだチャンスはある。BCに帰ってから冷静に考えよう。 7月27日(晴れ)C3⇒BC 午前 6:00、起床。退却準備を始める。また戻ってくるつもりなので装備と食糧の残りを置いてゆく。パッキング中に腹が痛くなり、便意をもよおして外に飛び出す。なかなか出ない。しかし、気張っていると激しい痛みが走った。突然出てしまう。痛かったが、ほっとする。身体が楽になり気力が湧いてくる。 私の状態を見かねてアナトゥリ氏がパッキングを手伝ってくれる。そして、韓国隊の準備を待たずに下りる。 午前 6:45、先に出発する。C2に着くころ韓国隊が追いつく。C2からロープを出してコンテニュアンスをとる。昨日下りたジョイントチームの一部がいた。テントと雪洞で宿泊をしていた。私達は先を急いだ。アナトゥリ氏がトップでみんなを引っ張ってゆく。通常ルートは雪崩で埋まっていたので、棚状の端を行き懸垂下降を2度行う。 午前 9:00に仮C2着く。ジョイントチームの残りがいた。韓国隊の既設テントと雪洞に泊まっていた。韓国隊の食糧を頂いたのでハン氏に謝っていた。 雪崩の危険があるので先を急いだ。アナトゥリ氏はどんどんと先行する。今朝は寒かった。それが幸いしたのか雪崩に遭わなかった。 午前 10:00、C1手前の安全地帯に出る。ロープを解き、各々C1を目指す。 午前10:40、C1に着く。随分と時間が掛かった。途中の懸垂下降が大変だった。特に一つはオーバーハングしていた。ハングの下はクレバスだった。底なしの穴のようで気持ちが悪かった。 今回は、アナトゥリ氏の行動に感服する。すばやい行動力、判断力、そして、力強さ。彼はヒマラヤクライマーの見本であった。さすが1990年CISチャンピョンになった人である。現在42歳。今なお世界のトップをゆくヒマラヤクライマーの一人である。 午前 11:00、C1出発。 午後 12:45〜1:30の間、休憩を取る。危険な氷河の渡渉を越えたので、お湯を沸かしてティータイムとする。久しぶりの快晴である。あちこちから雪崩の音が聞こえてきた。 膝までの雪をラッセルしてきたので、みんな疲れてしまう。特にアナトゥリ氏は気が抜けたようだ。 午後 3:20、BCに着く。さすがに疲れた。交替でラッセルしてきたが、基地が見えてからが長かった。ハン氏は46歳だが、後半、常にトップをとってくれた。年齢を考えると敬服する。 田中さんが来る。C3まで荷揚げしたビデオカメラを今ここで使う。皮肉であった。どんな顔に映っているのか、後で見るのが楽しみだ。 食堂に行く途中3人目の日本人に会う。小塚さんである。天気が悪かったのでBC到着が遅れてしまった。今日から天候が回復しそうなので、案外良かったのかもしれない。それにしてもBCの雪が凄い。田中さんの話だと、4日間の雪だそうだ。こちらも大変だったようだ。 食後、サウナに行く。みんな命の洗濯である。笑いが止まらなかった。ポベーダに行っていた韓国隊も来る。つかの間の幸せを味わう。 夕食後、小塚さんと話し合う。仕事を休み23日間の休暇をとって、ようやくの思いで来たそうだ。私も昔の事を思い出す。 田中さんは午後5時頃、C1に出発する。遅れた分を取り戻すため急遽出発となったらしい。 7月28日(晴れ)BC 午前 8:00起床。昨夜は良く眠れた。今朝は冷え込んだようだ。C3より寒かった。 朝食も進み体調も良くなってきたが、トイレに行きたくなったとたん腹痛である。小塚さんが水筒用のポリタンクにお湯をもらってきてくれる。トイレに行き、肛門にお湯を当ててから用を足す。痛みがなく、楽に終えた。 午前11:00、ドクターにザポール(便秘)と話す。(小塚さんが、便秘の単語を教えてくれた)すると、食堂に行きフラワーオイルを少し飲むようにと指示される。コップ1/4ほど飲む。 午後 5:30、昼寝をしたら2時間も経っていた。よく寝ていたと思う。 アナトゥリ氏と最終プランを話し合う。私は明日か明後日の出発を希望する。しかし、3日間休めと言う。それでは余裕がないと話すと、大丈夫と言う。ここまで来た以上は彼に任すしかない。OKと返事をする。 7月29日(曇りのち雪)BC 午前 8:00、起床。よく眠れた。昨夜は、自衛官時代の夢を見る。現在の自分と重なっていた。夢の中の人達は、私に対する過度の期待があった。しかしそれは、自分自身が期待されていると思っているからだろう。意識過剰、思い込みである。 朝食後、小塚さんのスケジュールを聞く。小塚さんはガイドがいないので、私が休養している間アナトゥリ氏が対応することになった。 アナトゥリ氏が忙しくなり疲れないかと心配になる。それに、私とアナトゥリ氏が山に行っている間の予定が心配になる。 アナトゥリ氏に話して、マリコ氏と相談するようにと話す。 小塚さんは一度しかチャンスがない。天候の崩れと体調の崩れによって登頂は難しくなる。 アナトゥリ氏は、人手不足のため、ルート整備を兼ねて小塚さんを案内することになった。 午後 3:00、無線交信によると、田中さんはC3まで行ったと連絡が入る。しかし、天気が悪いので大変だと思う。 日本であれば諦めるところだが、頂上を目指したい登山者と国際キャンプを成功させたい主催者側が無理をしてしまうのだろう。4〜5日前に4人が遭難死をしたのに、なお行う。無理が無理を当然としてしまう。 私が出発する31日は、どんな天候になるのだろう。再び行くC3は、どんな状況になっているのだろう。不安はあるが、もう一度頂上に向かいたい。 午後 3:15、アナトゥリ氏と小塚さんがC1に向かう。日程が限られているため、降雪の中をC1に順応に行った。この状況を考えると複雑な心境である。 7月30日(晴れ)BC 今日は休養日。アナトゥリ氏も田中さんも小塚さんもいないので退屈である。朝食後、お昼までボーットしていた。昨夜、何度も小便に起きたたせいか寝不足である。しかし体調は良い。 午後から、シルクロードを読む。 午後 4:00、西の方に雲が出てくる。天気が崩れそうな気配である。 彼らが帰ってくると思いゼリーを作る。しかし、なかなか来ない。ゼリーを1/3ほど食べてしまう。退屈な一日である。 午後 5:30、アナトゥリ氏と小塚さんが帰って来た。二人とも疲れている。早々、サウナに行く。アナトゥリ氏に、「だいじょうぶ?」と訊くと、逆に「だいじょうぶか」と言われる。私には、アナトゥリ氏が空元気に見えた。 田中さんはC3に泊まるらしい。ユーリ氏と上手くいっているようだ。 夕食後、ハン氏とチェイサン氏はC3に出発。C3で会うことを約束する。 7月31日(晴れ)BC⇒C1 晴れる。ほんとうに天気が読めない。朝からヘリコプターの音がうるさい。どうもキルギス側らしい。ベースキャンプとハンテングリ峰を往復している。もしかしたら遺体を降ろしているかもしれない。小塚さんは食欲がない。疲れが出ているようだ。 朝食後二人で散歩する。田部井さんたちがキルギス側のベースキャンプに来ているらしい。もしかしたら山で会えるかもしれない。 小塚さんの話しによると、田部井さんが来てからキルギスの食事が良くなったという。さすが世界の田部井さんである。彼女が来てから天候も良くなったような気がする。田部井さんの運の強さを感じる。 今日の午後、最後のアタックに出発である。今日はC1。明日はC3。明後日はC4の予定である。しかし、天候の周期を考えると不安がある。天気が良ければC3から一気に頂上を目指したい。私の中に闘争心が出てきた。 高度差1200mは出来ないことはない。来年のダウラギリ1峰登山を考えると、試みる価値はある。 ツクチェピーク峰登山では高度差1000mだが、コルへ下降した分を入れると1200mを登っている。あの時より体力は劣っているが気力は充実している。体調も回復してきている。C3まで、この気力を維持して登りたい。 午後 12:00、私は準備に取り掛かる。今回はスチールカメラを持ってゆかない。今の状況では、スチールカメラとビデオカメラを交互に撮影する余裕がない。それに、みんなにはビデオカメラで生の映像を見せたい。 午後 2:00、田中さんが戻ってくる。 標高6200mまで登ってきたと話す。明日はカルカラキャンプに下りて2日間過ごし、戻ってきてからBCで2日間過ごして、合計4日間の休養をとるらしい。順調な順応である。韓国隊が二人登頂したと無線が入る。今シーズン初の登頂である。地元のチームに先がけての登頂であった。それにしても遅い今シーズン最初の登頂である。天候が悪いせいなのかもしれない。 出発までの間、田中さん、小塚さんと話し合う。天気が良ければC3からアタックしたいと話す。 (アタックを出来ずに戻りたくない。何もせずに戻りたくない。とにかくC3から頂上を目指したいと思った) 私と同じ時期に入山した人たちは、C3で涙を呑んで帰っていった。登山期間が短いためである。私には、あと一週間残っているが、あせりを感じる。ラストチャンスである。 午後 4:40、出発する。途中でカザフスタンクラブのテントに寄る。 午後 7:00、C1に着く。夕食を取っていると登頂した二人がテントに寄る。彼らに訊くと、一度アタックしたが悪天のために引き返し、一日おいて、再アタックしての登頂だった。頂上にはC3から6時間30分で登ったという。 ちょうどインスタント蕎麦を作っていたのでごちそうする。彼らは疲労困憊していたが、顔は生き生きとしていた。私は刺激を受ける。天気さえ良ければ必ずアタックを試みると決めた。多少、興奮気味である。 8月1日(晴れのち雪)C1⇒C3 午前 6:00、出発。 午後 12:05、C3に到着。雪洞の中ではハン氏とチェイサン氏が靴の手入れをしていた。 午後 1:20、上部稜線に順応を兼ねて登る。1989年に亡くなった登山者のレリーフを見つける。雲が出てきた。風は強いが上に行く。 上部では、さらに風が強くなった。天気が悪くなってきた。6000mを越えたと思い、下りることにした。 雪洞の近くで、ハン氏とチェイサン氏に会う。これからC4まで行き、明日、C4からアタックすると言う。天気は良くないが彼らなら大丈夫だろうと思った。 午後 2:50、C3に戻る。明日、天気が良ければ頂上を目指したいと話す。アナトゥリ氏は了解してくれた。ここのスタッフに尋ねると、往復12時間掛かるので午前7時には出発したほうが良いと言う。 午後 4:30、雪が強く降ってくる。雪崩の危険が出てきた。この前の雪崩の時、この辺りに張ったテントが流されたのだが、また同じ所に張っている。信じられない。また惨事が起きないといいのだが・・・。 ハン氏とチェイサン氏が風雪のため戻ってくる。上部は行動できる状態でなかった。そしてその後、ロシアナショナルチームが入ってくる。この悪天の中、登頂してきた。今シーズン、韓国隊に続いての登頂である。こんなに遅い登頂は国際キャンプ開催来、始めてのことだという。 暖かい飲み物を出す。みんなの顔は凍傷していた。手足もやられていた。 C4からのアタックについて訊いてみる。とても無理という。風が強く、とても寒いので一晩耐えるのは困難、条件が良ければC3から一気にアタックしたほうが良いという。やはり一度のチャンスに賭けるしかない。 ナショナルチームの人たちは、先ほどからお茶を飲み、お菓子を食べ続けている。コヒー・チャイ・ビスケット・チョコレート・キムチ・・・。あるものは何でも口に入れている。これが彼らの強さだろう。 午後 7:00、今日の夕食はチェイサン氏が作る。日本のパックライスにインスタントキムチを入れて作る。ここに来て食べた料理で一番美味しかった。満腹となる。しかし、相変わらず天気が悪い。このまま停滞になるのではないかと心配になる。 私とハン氏とチェイサン氏がC3に揃うと天気が悪くなると、冗談とも本気いえないジョークが出る。私の気圧計は晴れの見込みなのだが、外は風雪模様であった。 ナショナルチームの隊員に訊けば、天気は短い周期で変化している。だから、晴れる可能性はあるという。晴れて欲しい・・・。 8月2日(晴れのち風雪)C3⇔頂上稜線 標高6800m 午前 6:00起床。風もなく晴れていた。最高である。このまま天気が続いて欲しい。多少、頭が痛い。 朝食はチェイサン氏が作る。美味しい。量もある。登頂まで、お腹が持って欲しい。頭の痛みがなくなる。 午前 7:20、出発。 午前 10:40、C4到着。寒い!出発の時は風もなく暖かかったので、羽毛服を着て来なかった。風が強く日が当たらないので寒い!身体全体の震えが止まらない。手足も冷たい。アナトゥリ氏が上に行くかと声を掛けてくる。もちろん「アップ」と答えた。そのうち日が当たるだろう。風が弱まるだろう。天気がいいのだからと自分に言い聞かせた。 午前 11:00、日が当たり始めた。やった!と思う。心持ち暖かくなる。しかし、風は強い。それに冷たかった。遠くに雲が見えてきた。 どれくらい登ったのだろう。私のスピードは急激に落ちた。しかし、前に進むことしか頭に浮かばなかった。上部にはあと少しで抜けそうである。 余りの寒さに身体が凍ってしまいそうであった。とにかく動き続けなければ凍えてしまいそうであった。ひたすら上を目指す。頂上稜線は、すぐ上に見えた。 ようやく岩壁隊を抜ける。頂上はすぐそこだと思った。すると、アナトゥリ氏が叫んだ。 「FIXロープはここまで。頂上には、このリッジを歩いて2時間。しかし、天気が崩れてきた。引き返すなら今だ!」 ハン氏とチェイサン氏は、そのまま頂上に行くという。頂上に行きたいと思ったが、私の身体は寒さのため限界を感じていた。それに頂上に登った後、下降に使う体力はないだろう。山は雲に覆われてしまった。日は差していない。 「OK!」と答えた。 午後 2:30、ここまで担いできたビデオカメラを出そうと思ったが「いや、まだ2日ある。頂上の撮影分しかバッテリーはない。また来る」と言い聞かせて下りることにした。 一時間もしないうちに吹雪となる。アナトゥリ氏の判断は正しかった。あのまま上に行っても頂上を踏めたかどうか分からない。ハン氏とチェイサン氏が気にかかる。しかし、今は下りることに集中しなければならない。 C4を通過する。急に力が抜けてくる。C3の稜線が長く感じる。ホワイトアウトの状態の中で足元だけを見ながら歩く。稜線からはずれると雪庇を踏み抜きそうであった。一歩一歩確認しながら前に進む。 アナトゥリ氏が下降地点で待っていた。稜線から懸垂下降する。雪洞は雪のため入り口が狭くなっていた。滑り込むように入る。 暖かい飲み物をもらう。眠りたかった。ただ眠りたかった。着の身、着のままシュラフに入る。また拾った命だった。 8月3日(曇りのち晴れ)C3⇒BC 夜中に二度ほど吐いてしまう。具合が悪い。食欲がない。アナトゥリ氏が無線で叫んでいた。もう一人のスタッフも起きていた。チェイサン氏が夜通し歩いて戻っていた。今は眠っていた。ハン氏はC4にいるらしい。やはりと思った。 午前 7:00、起きるのがやっとだ。ハン氏は帰っていない。 午前 9:30、C4からロシア人と一緒にハン氏が下りているのを確認する。どうやら無事らしい。アナトゥリ氏から、ハン氏が戻ってきたなら一緒に戻るかと訊かれる。後2日あった。しかし、ここにいて気力・体力が戻るとは思えなかった。天気もはっきりしない。 「OK!」と返事をする。 今回は焦りがあった。どこか間が抜けていた。気持ちにゆとりがなかった。天気が悪いなんて、言い訳である。私のハンテングリ峰登山は終わった。 午前 10:00、ハン氏が戻る。元気そうだ。手足を調べる。大丈夫らしい。良かった。おめでとう。 午前 10:50、下降開始。 午後 12:20、仮C2着。小塚さんと会う。昼食を頂く。小塚さんは明日C3に上る。元気そうであった。ニコライ氏がガイドしていた。相変わらず元気な49歳である。 午後 2:00、出発。 午後 3:00、C1着。韓国隊のテントサイトで、お茶をご馳走になる。そこに7年前のパミール国際キャンプでチーフをしていた人と会う。私は覚えてなかったが、知り合いである長尾さん、近藤さん、山中さんと次々名前が出てくる。そういえば、あの時も、こんなひげ面だったので印象が深かったのかもしれない。今回はフランスチームのガイドで来ていた。またの再開を約束して別れる。 山を見ると雲が掛かっていた。小塚さんたちが心配になる。 午後 3:30、出発。 午後 5:50、BC到着。田中さんが待っていた。いろいろ話すが、すべて言い訳に思えてしまう。登頂できないことは事実なのだ。後200mを考えると悔しい。 8月4日(晴れ)BC 午前 9:40、よく眠れた。 昨夜はハン氏とチェイサン氏の登頂祝いのため、うるさかった。アナトゥリ氏も呼ばれていた。彼は友人を連れてテントに戻っていた。 もう終わったと思う気持ちとネパール行きの思いが交錯する。頂上を踏めなかったが近くまでは行くことが出来た。頭もなんともなかった。てんかんが起こらなかった。まだまだやれる。しかし、3月からのにわか仕込みのトレーニングは通用しなかった。回復力が弱い。後は体力をつけるだけだ。一年かけて体力をつけよう。 今回のことを考え直してみる。ガイド付き登山は初めてであった。 アナトゥリ氏は命を最優先する。当たり前である。一昨日も後200mであったが、引き返すことを指示する。私には、なかなか出来そうもない。私の体調は分からなかったはずなので、あの時、行こうとすれば行くことが出来た。結果であるが、韓国の二人は登頂して生きて帰ってきた。私が頂上に向かっていたなら、どうなっていただろう。指の何本かは失っていたかもしれない。それで済めばよいが、命を失っていたかもしれない。 一年前、みんなに助けられた生命。そう簡単に死ぬわけには行かない。来年のダウラギリ1峰が待っている。試練なのか、臆病なのか。どう思われてもかまわない。今、生きているのだから。みんなのおかげで山登りが出来るのだから、と自分に言い聞かせるしかなかった。 しかし、登山については、様々な観点から考察することが出来た。優れた登山家の条件は的確な判断と決断力。そして何よりもまして、何日も歩ける体力・気力が必要である。 アナトゥリ氏は自然に逆らおうとしない。しかし、いざとなれば雪崩の起きる中も果敢に進む。出来るだけリスクの少ない時を狙って挑む勇気ある行動であった。 高所を見直す良い機会にもなった。高所順応の方法、寒さに対する対応、食事のあり方などである。帰ったら皆と話し合おう。 私の心はダウラギリ1峰に向かっていた。後200mを次のステップにしよう。 午後3:30、昼食後リマ氏のテントに行き予約していた絵を買う。ついでにいろいろな石を見せてもらう。お土産にと思い見ていると、 「大事故だ!沢山死んだ!C1 、C2で雪崩だ!」 と叫びながらリマ氏の奥さんが来る。 すぐ出発予定の田中さんの所に行く。C1・C2の雪崩の件を伝える。彼は準備を終えたところだった。 ガイドのユーリ氏が来る。 「友達が死んだ!出発は明日に変更。OK?」 田中さんは、すぐOKと答える。キャンプは騒然となる。 自分のテントに戻ると、アナトゥリ氏が捜索に行く準備をしていた。 「友達が死んだ!」と叫び、泣き始める。 慰める言葉もない。準備を手伝う。 仲間達が次々と出発していった。 アナトゥリ氏は 「Mr.Ueno, Good bay!」と言って山に向かって行った。 私は明日、カルカラキャンプに降りなければならない。 昨日まで共にしていた人たちと、こんな形で別れになるとは思ってもみなかった。 あっけないお別れであった。 キャンプの中ほどで、亡くなったガイドの奥さんが泣き崩れていた。 場所はC1〜C2の間。セラック崩壊による雪崩であった。 死亡4人。負傷者(両腕切断)1人。 今日は朝からいい天気であった。日差しが強くてテントの中は夏のようだった。今までの悪天を取り戻すかのような一日だった。事故の時間を推定すると、午後1時から2時の間と思われる。 あそこは、いつ雪崩が起きてもおかしくなかった。アナトゥリ氏と歩く時は、必ず朝早く出発し午後は通らなかった。ただ一度を除けば・・・。そう、昨日の午後2時、C2を出発して午後3時にC1に着いていた。一日遅れていれば私達がやられていた。 悪天の連続で、みんな焦っていたのかもしれない。通ってはいけない時間帯と知りながら無理をした。危険に対する感覚を無視したのだろう。 私がここに来て、一ヶ月足らずで8人死んだ。キャンプ参加者200名の5%が死んだ。ハンテングリ峰に向かったのが100名位だとすると、1割の人が死んだことになる。今現在の情報であるから、この割合はもっと高くなるかもしれない。 開かれた国際キャンプは過酷なキャンプとなってしまった。私は運が良かった。生きていれば、また登れる。そう思えた。 午後 9:30、アナトゥリ氏のいないテントはさみしい。今頃どんな気持ちでいるのだろう。これは命をかけたガイド業である。この仕事を続けていれば彼にも危険が巡ってくる。そういえば最初にあそこを通った時、1989年に友が死んだと話していた。いまさら、6800mの稜線で、 「ノーグット ウエザー カミング、ゴーバック、OK?」 と言った彼の判断は正しかった。 2人の韓国人は登頂して生きて帰った。それはそれで良かった。しかし、それは結果論である。どちらが良かったかはいえない。 私は大事なことを学んだ。山は逃げない。意地や面子で山に向かってはいけない。楽しい登山をしよう。楽しく山を登らせてもらおう。 後200mで頂上と悔やんでいた自分が恥ずかしくなった。 8月5日(晴れ)BC⇒カルカラキャンプ 午前 8:30、起床。ベースキャンプとの別れの日だ。朝食をいただきながら、ここで過ごした23日間を振り返る。長かった。毎日が自分との戦いであった。充実していたのかもしれない。一ヶ月余りで多くのことを学んだ。残念なのは共に苦労した仲間がここにいないことだ。山の中で友を捜しているのだろう。彼らに見送られて、ここを去りたかった。 ヘリコプターに乗り込む。田中さんとラーニャ氏が見送ってくれる。 「寝食を共にして互いの命をロープ一本で結び合い生きて帰った友よ、さようなら」 午前 10:30、ベースキャンプ発。 午前 11:20、カルカラキャンプに到着する。暑い! 日差しを避けてテントに入り、そのまま横になる。いつの間にか眠ってしまう。 気がつくと・・・。草のにおいがする。川の音が聞こえる。虫の声も聞こえる。ここには生命のあふれる世界があった。生き物たちの住む世界だ。緑が目にしみる。草原の輝きだ。ここに佇んでいるだけで、うれしさがこみあげてくる。身体の中からわきあがってくる。よくわからない。わからないけど、とてもいい。とてもいい気持ちだ。なにもいらない。満足だ。ここにいるだけで満足だ。みんないい顔だ。こちらも笑みが出る。うれしさをこらえきれず笑っているようだ。 今はひたすら眠りたい。昼食を取った後、軽く散歩して、また眠りにつく。なんともいえない柔らかい日差しに包まれて、ひたすら眠り続けた。この分だと今夜は眠れそうもない。それもいい。川の音を聞き、風の音を聞き、夜を過ごすのもいい。こんな贅沢な気分を味わえるなら眠らないで過ごすのもいい。 8月6日(うす曇り)カルカラキャンプ 午前 8:00、起床。昨夜、いつの間にか眠ってしまった。なかなか眠れずにいたが、いつの間にか寝てしまった。 けだるさが残っている。しばらくここにいてもいい。日本には、まだ帰りたくない。ここにいると生きていることを感じる。幸せに満ち足りている。 午前 10:20、丘の上のユルタを見に行く。近くまで行くとユルタの主人が出て来る。写真を撮ってくれと案内される。遊牧民の家族を撮る。 午後 12:00、テントに帰ると、また眠くなる。午後2時まで一寝入りする。昼食後、シルクロードを読む。しかし、一時間ほどすると、また眠くなる。よく眠る人だと思われているような気がする。 午後 6:30、起きて明日の出発準備をする。15分くらいで終わる。明日はカザフスタンのアルマアタである。カナダのマイクたちも明日出ると話していた。おそらく一緒に乗り合わせるだろう。 空を見ると雲が出てきた。雷の音が聞こえる。雨が降るかもしれない。ここの天気はベースキャンプとは違うと分かっていても気になる。 8月7日 カルカラキャンプ⇒アルマアタ 午前 8:00、起床。朝食後、ハン氏とチェイサン氏と別れを惜しむ。共に苦労した仲間との別れは辛かった。私達は友人であると何度も言い、必ず手紙を書くと約束する。チェイサン氏は明日カルカラキャンプを出発して韓国に帰る。ハン氏は再びBCに戻りポベーダ峰を目指す。 ハン氏は、若い頃にアンナプルナサウスを登ったあと仕事に打ち込んできたが、再び山に登るために仕事を止めてトレーニングをしてきたという。そして、44歳でガッシャブルム2峰を登り現在に至っている。現在46歳である。彼の生き様は私の励みとなった。再び会えることを願って別れる。 午前 10:30、車にて出発。 午後 4:00、アルマアタに着く。ここも暑い。ダウレン氏が待っていた。 セントラルスタジアムに荷物を置いて食事に行く。韓国料理を腹いっぱい食べる。 ホテルに戻りシャワーを浴びると気持ちがいい。鏡を見ると顔が汚い。久しぶりにベッドで横になる。 8月8日 アルマアタ⇒モスクワ 午前 7:00、起床。車の音がうるさい。都会の喧騒で目覚める。鏡の前に立ち痩せ細った身体を見る。見るからに骨と皮であった。凍傷に掛かった手足の一部が痛い。空港へ向かう車の中からアルマアタ市内を眺める。様々な人種の顔が見えた。東西の交易路として発展した都市であった。郊外は牧場や農園が広がっていた。豊かさを感じる。建物は旧ソ連邦時代のままだが、少しずつ変わってきているようだ。再び訪れてみたい。 午前 11:10、アルマアタ発。 午後 12:15、モスクワ・ドボジェドボ空港に着く。間違って一般客と出てしまう。空港スタッフに聞きながらインターナショナルホールに着く。リョウダン女史が迎えに来ていた。ほっとする。最後の最後まで大変である。モスクワ市内で昼食を取りシェレメチェヴォ空港に行く。 午後 5:30、搭乗手続きを済ませる。リョウダン女史と別れる。短い間であったが、彼女の気づかいを感じる。ソ連邦崩壊から2年経ったが、7年前に比べると随分と変わった。空港で訊ねたとき、みんなは、とても親切であった。人々の対応が温かかった。今は大変だが、きっと立ち直るだろう。リョウダン女史からロシアの未来が見えた。 午後 7:45、発。 8月9日 成田空港 ちょうど一ヶ月経った。不安な気持ちで出発した成田空港に戻って来た。頂上に行けなかったが、収穫はあった。昨年の谷川岳遭難以後、前途不明な状態が続いていたが、この一歩が私を変えてくれた。ダウラギリ1峰を登ろう。世界の山々を登ろう。限られた人生を精一杯生きよう。 その後、インツーリストの倉岡さんに、国際キャンプへ写真とお菓子を届けてもらった。そして、韓国のハン氏にビデオテープと写真を送る。 ハン氏からお礼の手紙が来た。結婚した時はソウルに新婚旅行に来てくださいと書いてあった。 山岳雑誌に天山山脈の記事が載っていた。[国際キャンプでの死亡14名]が目に付いた。
この登山から15年近く経ってしまったが、書いていると39歳の私が甦ってきた。再び頂を目指したいと・・・。 2007/12/8 記
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