伝えの始まり


 盛岡の郊外にピンク色の花を咲かせるヒマラヤの蕎麦畑が広がっていた。奥に岩手山が見えた。花が咲くと畑の一角がピンク色に染まりペルシャ絨毯のように光を返していた。今年の蕎麦畑は見事な花を咲かせている。
 7年前、ヤマトは友人と共に、この蕎麦畑を始めた。

「お〜い。今年はたくさん実がなりそうだね」

「どうして?」

「虫が、たくさん来ている」

「そうね」

「おい、花さんたち、今年は大丈夫だよ」

 (うん!)

「えっ!」
「フミさん、なんか言った」

「なぁに」

「男の子の声が聞こえなかったか」

「聞こえなかったわ」

「おかしいなぁ」

「あなたが、そう思っているから聞こえたのでしょう」

「そうかなぁ、ちょっと疲れたか」
「お昼にしようか」

「そうね、休みましょう」

「今日は何を作ってきたのかな」

「おにぎりと卵焼き、どうぞ」

「うまい!」
「このおにぎり、うまいよ」

「ありがとう、卵焼きもどうぞ」

「うん、うまい」

「良かったわ」
「ここで食べると、美味しいかもね」

「うん」
「幸せだね」

「ほんと幸せ」
「疲れが飛ぶわ」

「神様に感謝しなきゃ」

 (ありがとう)

「聞こえた?」

「ええ!」
「『ありがとう』って聞こえたわ」
「随分と落ち着いた声ね」

「さっきは男の子の声だったのに・・・」

「神様よ、きっと私たちのこと見ているわ」

「神様か・・・、神様のおかげだね」
「ありがとうございます」

 (どういたしまして)

「また聞こえたわ」
「今度は男の子だった」

「僕にも聞こえた」
「男の子だ」
「今日は不思議な日だ」
「誰かが居るような気がする」

「ええ、あなたの近くに居る・・・」

「フミさん、終わりにしようか」

「そうね、またあした頑張りましょう」

 2人が帰ると、いつの間にかテラスに子供が座って居た。よく見ると山高帽子を被りマントを着た老人が側に立って居た。

(僕はだれ、どうしてここに居るの?)

(どうしたの?)

(僕はだれ?)

(男の子だよ)

(どうしてここにいるの?)

(どうしてかな?)
(私も分からない)

(だれなの、どこにいるの?)

(私は・・・)
(今、この瞬間、君が声をかけたから返事をしたのだよ)

(どうして瞬間なの?)

(人は一瞬で生き方が変わる)
(すると、今まで見えなかったもの聞こえなかったものが分かるんだ)
(だから・・・、私がここに居るんだ)
(分かったかい)

(・・・・・)

(何かを感じないかい)

(分からない)

(心と身体を使ってごらん)

(心と身体ってなんなの、僕はなんなの?)

(私が見えるのかい?)

(・・・あっ!)
(おじさん)

(そうか、私はおじさんか)

(僕は、いつからここに居るの?)

(私と一緒かもしれない)
(君は、だれかの心の現われだよ)

(おじさんも?)

(私も、そうだよ)

(どうして、おじさんなの?)
(それに、僕は、どうして男の子なの?)

(・・・・・)

(どうして僕は現れたの?)

(どうしてかなぁ、知りたいかい?)

(うん、知りたい)

(それには、《その時》が必要だよ)
(待ってくれるかい)

(うん、どれくらい待つの?)

(あなたのことを、あなた自身が気づくまで・・・)

(・・・・・?)

 ヒマラヤの蕎麦は日本の蕎麦より成長が遅かった。十一月に入ってから刈り取りを始めるため 、十二月初めの「新蕎麦を食べる会」に間に合わせるのが大変だった。なにしろ手作業なので、人手がないときは月明かりを頼りにやらなければ間に合わなかった。

「おはよう」

「おはようございます」

「昨夜はよく眠れた?」

「どうして?」

「目がはれている」

「うん・・・、不思議な夢を見た」

「どんな夢?」

「旅立ちと出会いが同時に起きていた」
「別れが辛かった」
「しかし『定めだ』と言い、受け入れている僕が居た」

「良く分からないわ」
「夢の内容を聞いているのに・・・」

「ごめん」
「真夜中に、畑の中に居たんだ」
「そこに、星の彼方から電車がきて、夜空に旅立って行く自分と、その電車を見送っている自分が居たんだ」
「2人の私が同時に、そこに居たんだ」

「ますます分からないわ」

「きっと、僕の父親離れなのかもしれない」

「ずいぶんと遅いのね」

「僕は、まだ子供なのさ」

「おかしな話ね」
「今日のヤマトは可笑しいわ」
「農作業が続いているから疲れているのね」

「うん・・・、そうかなぁ?」

「ところで、今日中に脱穀、終われそう?」

「2人では無理だよ」
「天気も崩れそうだし」

「ええ・・・、南昌山に雲が掛かってきたわ」
「もう少しで雨が降る」

「お昼は下で食べよう」

「ええ、お昼は後にして、もう少し続けましょう」

「うん」
「フミさん!」

「えっ!」

「誰かが見ている」

「どこ・・・」

「あっ、風が出てきた」

「雨が降ってきたわ」

「片付けよう」

「ええ、私が運ぶから小屋に入れて」

「OK!」
「まだそんなに強く降らないから、だいじょうぶ」
「ビスタ〜リ、ビスタ〜リ」

「そうね、あわててもしょうがないわ」

 盛岡では南昌山に雲が掛かると雨が降るといわれている。西の方角にあるため偏西風による影響が先に現れるのだろう。農家の人たちは言い伝えを守っていた。

「はい、これで終わり」

「お疲れさん」

「良かったわ」
「あまり濡れなかったわね」

「今日はここまでにしよう」

「ええ、あした晴れると良いわね」

「うん、だいじょうぶ」
「明日がダメでも明後日がある」
「この時期は晴れる日が多いから、だいじょうぶさ」
「近くの温泉に行こう」

「そうしましょう」
「ところで、さっき『誰かが見ている』と言ったわね」

「ああ、もう居ない」
「蕎麦会の人が見に来たのかな?」

「そうね、間に合うかと心配で見に来たのかもしれない」

「手伝ってくれたらすぐ終わるのに・・・」

「言わないの!」
「みんな忙しいんだから」
「私達は作る人、彼らは食べる人」
「みんなの喜ぶ顔が見られるからいいの」
「おかげで、ご飯を美味しくいただけるし、いい気持ちになってお風呂に入れるのだから、感謝しましょう」

「そうだね、忘れていた」
「今こうしていることが、幸せだということを忘れていた」

 (そうだよ)

「また、声が聞こえた」

「私にも聞こえたわ」

 その日は夜半になって雨が上った。街の明かりも消えて銀河が良く見えるようになった。山高帽子の老人は子供の傍に立って、ひときわ輝く銀河を見ていた。なにか思いつめて《その時がきた》と言った。そして、子供の傍に座った。

(ヤマト君!)

(えっ!)

(君のことだよ)

(僕はヤマトなの?)

(そうだよ)
(正しくは、心の中のヤマトだよ)
(君が現れた理由を話す時がきたようだ)

(理由?)

(そう、聞いてくれるかい?)

(うん)

昔、ある人の物語にジョンという少年が生まれた。
彼はジョンの物語を通してイーハトーヴを表そうとしたが、彼の夢は叶わず三十七歳という若さで死んでしまった。
その後、彼の物語は童話となって広まったが、彼の魂は満たされず、さ迷っていた。
そんなある時、彼は一人の少年《ヤマト》を見初めた。
ヤマトの心は深い哀しみに包まれていたが、真っ直ぐな心を持っていた。
心に深い哀しみを持っているのはジョンと同じであった。
彼は、ヤマトがジョンの生まれ変わりのように思えた。
ヤマトの未来を見ると、険しく困難な道であったが、その先には幽かな光明が見えていた。
彼は、ヤマトにジョンの物語を託そうと思った。
それがどんな結果になろうとも、この少年に委ねようと決めた。
彼はジョンの魂をヤマトの心の中に入れた。
そして、それから三十年近い月日が流れたある日、ヤマトは大きな事故に遭った。
死に直面し絶望の淵に立たされたのだった。

人は病などになり死を目前とした時、自分の存在について考えるようになる。
しかし健康な者は、快、不快がすべてであり、人生を深く考えるより享楽を求める。
人生を享楽している者は自分と向き合うことが出来ない。
たやすい人生と他人の存在が気になり、すべてを自分中心に考えてしまう。
決して他者があって私が存在するなどとは考えない。

幸か不幸か、ヤマトは自分の存在について深く考えるようになった。

(おじさん!)
(僕、分かった)
(ヤマトは大きな事故にあった時、目覚めたんだ)
(そして、それまでのしがらみから解放されて歩き始めた)
(光を目指して歩き始めたんだ)

(そう、ヤマトは絶望の中で気がついた)
(そして、ほんとうの真実を求めて歩き出したんだよ)

それからが大変だった。
現実は決して容赦しなかった。
何度もうらぎられ、何度も死にそうになった。
まるで試練のように、道に立ちはだかった。
しかし、その度にジョンと共に乗り越えて、どんな苦しみにも耐える強さ、どんなことも深く考える忍耐力がついていった。
そしてついにイーハトーブ辿り着いた。

人は苦しみ、痛み、運命をあるがままに受け入れた時、完成され真実が見える

ジョンは気がついた。
この瞬間に存在するすべてが美しく、とても素晴らしいということに気がついたんだ。
イーハトーヴは求めるものではなかった。
イーハトーヴは目の前にあった。
イーハトーブは目の前に広がる現実の世界だった。
ジョンは、とうとうイーハトーヴに辿り着いた。
いや、気がついたんだ・・・。

(そしてジョンは、どうなったの?)

(ヤマト君、私はだれですか?)

(おじさんは、ジョンだよね)

(そうだよ)
(私はヤマトの中で一緒にイーハトーヴを捜してきた)
(ヤマトのおかげでイーハトーヴに辿り着いたんだ)
(理想郷は、目の前の現世界だと気がついたんだ)
(もう私はヤマトの中には居る必要がなくなった)
(だから、ここに居るんだよ)

(あなたを作った魂は?)

(私と一緒に居るよ)

(ヤマトはどうなったの?)
(僕はなぜ現れたの?)

(私と話をするためです)

(なぜ?)

(また、聞いてください)

(はい!)

人はだれも心の中に魂がある。
自己の中に存在し、自我の目覚めと共に成長してゆく。
これまでは、私がその役割を担ってきた。
しかし、私はヤマトの中に居られなくなった。
このままでは、魂の無いヤマトは迷ってしまう。
私は君が現れるのを待たなければならなかった。
そして、ようやく君が現れた。
《僕はだれ、どうしてここに居るの》と・・・。
私は、すぐ君に伝えたかった。
しかし、ただちに伝えることが出来なかった。
なぜなら、自ら気が付かなければ私の言葉を理解出来ないから、時が来るのを待たなければならなかったのだ。
しかし、ようやく、その時が来た。
ヤマトは蕎麦畑で『今こうしていることが、幸せだということを忘れていた』と言った、その瞬間だった。
ヤマトは気がついてくれた。
私と共にイーハトーヴに辿り着いたことに気がついてくれたんだ。
そして、ようやく君と話が出来たんだ。

(分かったかい)

(はい、分かりました)
(僕はヤマトの魂です)

(そうだよ)
(これからは、君がヤマト共に行くんだよ)

(はい!)

 十一月三十日で、ようやく蕎麦畑の収穫作業が終わった。空は澄み渡り、岩手山は白い雪に覆われていた。畑から見える景色は一段と美しく、2人の心は満たされていた。後片付けをしながら夢の話をしていた。

「ヤマト、あなたの見た夢は現実ではないけど、真実なのよ」
「私には分かるわ」

「夢の続きを見たいな」

「見られるわ」
「これからは夢が現実になるわ」
「私には分かるの」
「ヒマラヤを登っていたときのあなたは、どこか遠くを見ていた」
「今のあなたは、目の前にある現実を受け入れている」
「その中で夢を自分のものにしようと頑張っている」
「だから、夢は現実になるわ」

「・・・・・」
「お迎えが近いかな?」

「なに言っているの!」
「みんなは、あなたのことを死に神に見放されたと言っていたわ」

 ヤマトは7年前にヒマラヤで遭難したことを思い出していた。仲間は死にヤマトは生き残った。生の道を取った時点で、逃れることが出来ないものを背負った。それを重荷として引きずって行くか、定めとして受け止めて行くか苦しんだことを思い出していた。

「忘れていた」
「僕は逃げてはいけない」
「あの時点で生の道を取った時点で、逃げてはいけないと決めたんだ」

「暗い話は止めましょう」

「うん・・・」

 (ヤマト、僕に話して!)

「また声がする」

 (僕は、あなたの心の現われ。もっと、あなたのことを知りたい)

「君が僕の心の一部なら、話さなくても分かるだろう」

 (あなたは、心の奥深くに鎮めているものを取り出そうとしている)
 (それには、あなた自身で心を開かなければならない)

「僕はいつでも心を開いている」

 (だったら、話して)

「なにを?」

 (私の問いかけに答えてください)

「分かった」

「ヤマト、どうしたの?」
「帰りましょう」

「うん」

「今日の温泉は旭日之湯にしましょう」
「運転、頼むわよ」

「うん、話は後にする」

 (そうだね、時間はたっぷりあるから)

「ヤマト、なにを言っているの?」

「聞こえなかった?」

「ええ、なにも・・・」

「後で話すよ」
「時間はたっぷりあるから・・・」

 その日の夜は、いつにもまして銀河の星たちが輝いていた。雲のように漂いながら真上にかかった時、流れ星が見えた。

(ヤマト君、これで旅立つことが出来ます)

(旅立ち、どこへ行くの?)

(私は星になります)
(銀河鉄道に乗って、あの銀河に行き、星の一つになります)

(おじさんは、星になれるんだ)

(そうだよ、ヤマト君のおかげです)
(ありがとう)

(あっ!)
(おじさん、星の中から線路が伸びてきた)
(列車も見える)

 岩手山の上を大きく弧を描きながら一筋の光が降りてきた。青白く輝く列車はジョンの前に停車した。

(旅立ちの時です)
(ヤマト君、最後にもう一度、聞いて下さい)

(はい!)


(イーハトーヴは求めるものではありません。イーハトーヴは、すぐ目の前にあります)
(そのことに気がつくことです)
(そして大切なことは、この事を、みんなに伝えなければ意味がないということです)
(そうしなければ、学んできたことも、伝えるべきことも、すべてを失ってしまうから必ず伝えて下さい)

(はい!)

 ジョンは、いつの間にか列車の中に居た。窓を開けて身を乗り出し、別れの言葉を言った。

(ヤマトを頼むよ)
(さようなら、ヤマト君)

(さようなら、ジョンおじさん!)

 周りの林が、一瞬ざわめいた。そして、閃光と共にジョンは旅立って行った。静寂が辺りを包み、蛍火が一つ輝いていた。

次のページ


TOP