シシャパンマ峰登山
(1994年3月〜5月)

 標高8027m、世界第14位の高峰でシシャパンマ峰と呼ばれている。チベット語で『草地の上に聳える山』という。
 私が訪れた時期は、その名の由来とは違い乾いた赤茶けた大地が広がっていた。どこまでも果てしなく、そして虚しく索漠とした大地の奥に聳える、岩と氷の世界であった。
 1993年夏のハンテングリ峰登山のあと、1994年秋のダウラギリ1峰に挑む前に、勤労者山岳連盟のシシャパンマ峰登山隊に参加したときの記録です。

(盛岡〜東京〜カトマンドゥ)

 1994年3月8日、私は先々発として日本を出発した。なぜなら、シシャパンマ峰登山のために、ツクチェ村に置いてある装備をカトマンドゥまで持ってくるためであった。
 出発の前日の7日に、隊長の近藤さんと打ち合わせをするため、6日に盛岡を出発した。

3月5日(土)
 家族で市内の屋台村へ行き夕食を取る。海外へ行く前に、家族と外で食事を取るのは初めてであった。久しぶりに楽しいひと時を過ごした。

3月6日(日)
 夕方、高橋さんがアパートに来る。山中さんへの伝言を頼まれる。その後、車が来るまでの間、隣の力丸先生へ挨拶に行く。盛岡駅までは大津さんの車で送っていただく。
 午後6:00、西舘さん、橋本さん、伊東さん、佐藤さん、下机さん、大津さんに見送られて出発する。別れの間際までは、いつものように和気あいあいとしていたが、彼らが視界から離れると急に寂しくなった。
 神楽坂にある労山本部の近くに宿を取る。近くのラーメン屋で夕食を取る。いつものことだが、一人で食事をしていると虚しさを覚える。

3月7日(月)
 労山事務所で近藤さんと打ち合わせをする。
◎装備
 1、弘前大デポ装備品で使えるものをFAXで送る。
 2、EPIガスボンベ120個、弘前大デポ品が使えない時はタメールで購入。
 3、BC用シェルパテント、弘前大デポ品が使えない時はツクチェから持ってくる。
 4、BC用ガスボンベ、ガスコンロ、石油コンロをレンタルできるか確認。この場合、コックになる人の意見を聞いて検討する。
 5、レンタルと購入品は確認してからFAXする。
 6、標識竿、赤布が手に入るか。
 7、バネ秤(30Kg以上)はモハンダイ宅にあるか。
 8、工具類は弘前大とツクチェ村デポ品を用意する。
 9、シュラフのレンタル料金を確認。
10、個人食器6セット、コッフェル大1セット、コッフェル小1セットをツクチェ村より下ろす。
◎食糧
 1、ハイキャンプでのシェルパの食糧をどうするか確認。
 2、ネパールで購入できる品目を確認し、早めにFAXする。土曜日に買出し予定とのこと。
◎パルチャモ峰の件
 1、隊員2人追加で10人。シェルパは1人。
 2、ルクラへの機内持ち込みは15Kgだが、オーバー可能か再確認。陸路で運ぶ場合、シェルパ任せで良いか確認。
 3、 ナムチェ、ターメにてBC用食糧の購入と装備品のレンタル可能か確認。
◎シシャパンマ峰のシェルパの件
 1、キルキン、パサンは了解。残り1人はペンバかアンカミを検討し、判らないときはペンバとする。
 2、パルチャモ峰に行かないシェルパの高所順応は大丈夫か確認。
◎その他の確認事項
 1、トレッキングパーミッションの写真は、予備も含めて何枚必要か確認。
 2、日程表と隊員名簿をコスモの大津さんに渡すこと。
 3、FAXの色を濃く出来ないか。
◎労山からの持参品
 1、エスパースマキシム4人用テント(ポール付)2張り。
 2、コッフェル1組。
 3、アルファア米11Kg。

 今日は山中さんの自宅に泊めていただく。

3月8日(火)
 山中さんの車で成田空港まで送っていただく。
 午前10:00、CX509便にて発。
 午後10:00、香港にてロイヤルネパールに乗換えカトマンドゥに到着。モハンダイが空港まで迎えに来てくれる。
 門田さんがポカラから来ており、モハンダイ宅に到着早速、ロキシーで乾杯する。

(カトマンドゥ)

3月9日(水)晴れ
 午後からコスモトレックに行き協議する。協議の後、近藤さんへ協議内容をFAXする。伊東さんにも到着のFAXをする。その後、カーペットショップに寄って帰る。
 今日の夕食は鍋料理であった。日本から持ってきた日本酒を3人で飲む。
 モハンダイから、モノジの子どもが火傷をしたことを知らされる。日本に行ってしまったモノジとミナのことで怒っていた。私は困ってしまう。

3月10日(木)晴れ
 コスモトレックにデポしている弘前大の装備を調査する。スディールも手伝ってくれる。
 調査の内容を近藤さんにFAXしたあと、タメールに行き葉書と切手を購入して帰る。
 モハンダイ宅へ帰ると、近藤さんからサンセットビューへ送られたFAXが届いていた。
 夕食は寅さんのビデオを見ながらいただく。モハンダイの家族は寅さんが大好きであった。松下慶子と竹下景子編を続けて見る。

3月11日(金)晴れ
 鳥のさえずりで目が覚める。朝靄が立ち込めていた。気持ちの良い目覚めだった。
 今日も忙しく暮れてしまいそうである。お礼の葉書を書き、コスモで協議をし、近藤さんに報告をして、明日の出発準備をすることなどetc・・・である。
 コスモで近藤さんのFAXを受け取る。カトマンドゥの中国大使館でビザを取得する件であった。
 ビザ取得の件を調べてもらっていると近藤さんから電話が来る。シェルパの綴りの問合せであった。シェルパの綴りを先にFAXで知らせる。
 FAXでやり取りしていると、大学の卒業旅行できている盛岡出身の越場さんが来る。いろいろな話をしたあと、盛岡に戻った折には童子スタジオに連絡して下さいと話す。
 ジョシから、明日のポカラ行きのバスはカンティパス通りのブリティシュコンツェル前に午前6:30まで行くようにと言われる。
 ビザ取得の件を近藤さんにFAXしてからコスモを出る。
 KIDOゲストハウスを探しながらモハンダイ宅に帰ると、埃で喉がいがらっぽくなる。
 夕食までに出発の準備をする。
 夕食の後、咽の調子がおかしいので薬を飲んで寝る。

ツクチェ村に行く

(カトマンドゥ⇔ツクチェ)

3月12日(土)晴れ
 朝食にトストーとミルクティをいただき、タクシーでバス停まで行く。同行するハスターが待っていた。
 午前6:50発。
 カトマンドゥを出ると、大雨によるがけ崩れの後が見える。ムグリンまで、時折、眠気が襲う。
 午後2:00、ポカラのバスターミナルに着く。
 2年前に比べ、建物が随分と増えた。人も多くなった。同乗していた日本人に声をかけられる。モナリサに一緒に行くことになったが、客引きに声をかけられると、そちらに行ってしまった。一泊80Rs、タクシー代はいらないと言っていた。随分と安い。セキュリティは大丈夫だろうかと心配になる。
 ホテル・モナリサまで歩いて行く。
 ホテルに着きシャワーを浴びたあと日記を書く。
 泊まっていた杉田修一さんに声をかけられる。盛岡市に隣接する雫石町長山の人であった。私が勤めていた滝沢村役場の上村さんと中学時代の同級生と聞く。杉田さんと話しをしていると、門田さんが沢山の日本人を連れてくる。
 夕食後、杉田さん、門田さん、石原さんと酒を酌み交わす。石原さんは岩手大学卒業の国家公務員だった。今回は郷里の人と縁がある。世間は、つくづく狭いと感じる。

3月13日(日)曇り
 モナリサの支払いを済ませる。私とハスターの分が10ドルで済む。お酒代も入ってなので、とても安い。
 午前8:00、出発。
 ナヤンプールまでバスが通っていると聞いたが、フェディまでタクシーで行く。
 秋のダウラギリ1峰登山のとき、荷物をバスで運べない場合はフェディから歩かなければならないので、確認のため歩くことにした。
 午前8:40、フェディ着。ここから歩く。
 ノータンダでポリスチェック。
 KANREにて昼食を取る。ここは何度か利用してきたが、バスで荷物を運べるようになると通過してしまう。遠征隊にとっては助かるが、ここの人たちは困ってしまうだろう。
 午後2:30、ビレタンティ着。
 三国友好登山隊のとき南側のメンバーだった井本さんと会う。もう少し先まで行く予定だったが、雷が鳴り雨も降りそうなので泊まることにする。
 井本さんはガイドの仕事で来ていた。私が歩いているのをバスから見え、ザックに上野と大きく書いていたので分かったと話す。久しぶりの再会に話が弾んだ。
 喉が、いがらっぽいのでヨーチンを付けて寝る。

3月14日(月)曇りのち雨
 昨夜は寝汗を沢山掻く。そのせいか、喉のいがらっぽさはなくなる。身体が慣れてきたせいかTシャツ一枚でも寒くない。
 午前7:20発。
 日が差している時は暑いが、日陰で休むと涼しい。ウレリまでの坂道に沢山のバッティが出来ていた。
 午前11:15、ウレリ着。
 アンナプルナ・ビュウポイントロッジにて昼食。ハスターがサウジに言われて、「このロッジで働いている男の人が、昨日から頭が痛いと寝ているので、様子を見てくれ」と話してきた。
 体温計で熱を測る。体温は35.5度。怪我もしていない。原因が分からないので、痛み止めのバッファリン1錠と大田胃散を飲んでもらう。そして、夕食後にも飲むようにと、もう1回分をサウジに渡す。
 午後12:10、出発する。
 ナガタティにピンクのラリグラスが咲いていた。
 午後3:30、小雨の中、ゴラパニに到着。
 チェックポストで手続きをしたあと、ダウラギリ・ビュロッジに宿を取る。この辺りのラリグラスは、まだ早いようだ。
 ロッジにはストーブがあり暖かい。ストーブの周りに4人の欧米人がいた。
 2人はアンナプルナ1周をしていた。どちらも若くて背が高くハンサムであった。今日はタトパニから来たそうだ。ネパール語で「デレタキョ!」と言っていた。後の2人は、静かに本を読んでいた。どこか品のある中高年であった。
 夕食前にビールを頼み、ハスターと乾杯し疲れを癒す。

3月15日(火)晴れ
 目が覚めると、ダウラギリ山群とアンナプルナ山群が一望できた。

 ダウラギリ1峰は、私を圧倒した。この山に挑もうとする自分が、ひ弱で脆弱に思えた。
 ダウラギリ1峰は、「芥子粒のようなお前が登れるのか」と、笑っているように思えた。

 昨夜は良く眠ることが出来なかった。枕が高かったせいかもしれない。それに、ロッジのバイニー達と、はしゃぎ過ぎたせいかもしれない。調子が今一である。しかし、2日振りに大キジが出た。
 午前8:10発。
 シーカで、前に泊まったことのあるゲストハウスで昼食を取る。そこに若い日本人男性が2人来た。彼らも卒業旅行という。
 午後3:40、タトパニ着。ナマステロッジに泊まる。
 ツクチェピーク峰登山のときにポーターをしていた2人と会う。ハスターは懐かしそうに話しを始めたので、私は温泉に行き身体を癒す。

3月16日(水)晴れ
 昨夜、私のテーブルに来て片言の日本語でコスモトレックのことを話していた男が、ポリスに捕まった。どうやら日本人を狙っている泥棒らしい。
 午前8:15出発。
 タトパニを出て10分くらいの所で猿の写真を撮る。猿の食事代を5Rs払う。
 午後11:10、カレで昼食を取る。
 ここに大きな滝がある。以前も、ここで昼食を取ったことを思い出す。
 午後2:45、ガサ着。イーグル・ゲストハウスに泊まる。
 私達が部屋で着替えをしていたとき、日本人グループがツクチェから来る。ビールを飲んでいると、釣りに出かけていった。
 従業員に聞くと、上に小さな魚、下に大きな魚がいるという。しかし、一番釣れる所はカロパニだという。この辺りの川は険しくて危険であった。ちょっと心配になる。
 ビールのつまみにアップルパイとベジタブルピザを頼む。これがうまかった!
 ハスターに作れるのかと聞くと、だいじょうぶと言ったので、ダウラギリ1峰登山のときに作ってくれと頼む。

3月17日(木)晴れ
 今日はツクチェに着く予定である。25日までカトマンドゥに戻るには、20日にはツクチェを出発しなければならない。ツクチェでの時間は2日間だけである。
 午前8:10、出発。
 午前10:00、レティでお茶を飲む。
 急ぐ旅は疲れる。歩きながら今後の予定を考える。
 ツクチェでドンキーを頼めるなら、先に荷物をパッキングしてしまいポカラのモナリサまで届けてもらう。そして、私たちはジョムソンから飛行機でポカラに戻る。そうすると、一日余分になり、ツクチェに3日間いることが出来る。
 午前11:20、カロパニ・ゲストハウスで昼食を取る。
 午後3:15、ツクチェのヒマール・ゲストツハウスに到着。
 早々、インドラにドンキーの件と飛行機のチケットを頼む。OKとなった。明日、ブッティのドンキーがポカラに出発するので、それに混ぜてもらうことになった。すぐに、ここに保管している荷物を取り出しパッキングを始める。

 ◎パッキングリスト
羽毛服 スコップ カメラ三脚 セーター オーバーブーツ1組 ICI7人用テント2張 ICIテント用ポール2組 シュラフ ダンロップ4人用テント ダンロップ4人用テントフライ ビニールの管 コッフェル5〜6人用 酸素マスク アイスバイル ゼロバン(8環・安全環付) カラビナ45個 ヤスリ ノコギリ プライヤー モンキー ドライバー(+) アイゼン1組

 ◎上野、トレーニング利用分
登山靴1組 ジャケット上下 くつ下3足 ガスヘッド コッフェル3〜4人用 シュラフカバー リエゾン用テント ガスカートリッジ3缶

 埃だらけになりながら、何とか終えた。重量42Kgで406Rsであった。ドンキーの馬方、アンマル・バードルにお願いする。
 飛行機チケットは2人分、23日フライトでお願いする。

3月18日(金)晴れ
 午前7:00起床。今日はゆっくり身体を整えることにする。そして、洗濯をしてテントを乾かしジャケットを乾かすことにする。
 昨日、夕食を共にした中高年のフランス女性達はカクベニに向かった。彼女達は風の谷を歩かなければならない。カクベニまでは遠い。カリガンダキの河原は砂塵が待っているだろう。グットラック。
 午前9時だというのに日差しが強い。テーブルで手紙を書くのにサングラスが必要であった。
 ドンキーは、お昼近くに出発する。
 インドラが航空チケットを買ってくる。
 洗濯をした後、テント・登山服・登山靴を乾かす。その間に、ハスターは明日から行くキャンプ用の食糧を買ってくる。ラーメン6個・ビスケット・砂糖・紅茶など。その後、コッフェルを洗ってくれる。ハスター「ダンネバ!」。
 今朝、起きたときに痛み出した左膝がひどくなる。湿布を張り1時間ほど横になる。疲れのたまっている膝がうっ血してきたと思う。
 インドラがニコンF4のカメラを持ってくる。シャッターが切れないらしい。
 フイルムを巻き戻してチェックする。裏蓋を開けるとシャッターが3回だけ切れるが、その後、切れなくなる。説明書がないので分からない。今度、カトマンドゥに行ったときにカメラ屋で見てもらうようにと話す。
 それにしても、こんな高級カメラを贈ったモノジの感覚が理解できない。
 シャワーを浴びた後、立正大学のシシャパンマ峰の遠征記録を読む。
 午後7:00、夕食。
 今日はハスターと2人だけで夕食を頂く。ブランディも1杯だけにする。

3月19日(月)晴れ
 左膝が、まだ痛い。気になるが出発する。登りは大丈夫だと思う。下りに痛むかもしれない。
 出発直前にビレンドラが訪ねてきた。今は、ムクティナートで電気工事をしているという。兄のナゲンドラも来る。彼は、チョコパニのダムで電気工事をしているという。
 午前9:15、ゲストハウスを出る。
 午後2:00、バッタシェに着く。高度計の標高が3790mを示す。
 水場を探していたらヤクマンチェ(牧夫)が来て教えてくれる。彼の案内でテント場を決める。
 午後2:30、テントを設営。早々に、ハスターはお茶を沸かしてくれる。3人でお茶を飲む。思わず「ミトツァ」と声が出る。
 午後4:00、ヤクマンチェが小屋に戻る。テントの周りを散歩していると膝の痛みがなくなっていた。
 午後5:00、夕食にラーメンを食べる。食後のお茶を飲んでいると、ヤクマンチェが2人来る。午後6:30までお茶を飲んでゆく。

3月20日(日)晴れ
 午前7:15、起床。快晴である。麓は雲がかかっていた。
 昨夜、咳は出たが頭は痛くなかった。便通も良い。高度順応は悪くないと思う。
 午前8:40、出発。
 午前9:53、標高4025m地点に荷物を置いてゆく。
 標高4300m付近でキョシウマ(ライチョウ)を数羽見かける。
 午前11:15〜午後12:15、標高4420m地点を最高到達点とする。もう少し高度を上げてもいいのだが、ガスがかかり、風が強いので止めにする。
 午後1:00、アルベリに着く。標高3670m。
 今日中に下りられるのだが、高所に慣れるためと、マルファからの道を確認するため、ここに宿泊する。ハスターに聞くと、風がなく歩きやすいという。
 ハスターにお茶を沸かしてもらい、ゆで卵を作ってもらう。時間が余っているので横になる。あくびは出るのだがテントをあおる風のため、なかなか眠れない。テントの中はとても暑いが外に出ると風が冷たく寒い。
 午後4:20、テント場を案内してくれたヤクマンチェが来る。
 彼は小屋に来ないかと言う。明日、寄ってみると話す。1時間ほど話をして帰った。

3月21日(月)晴れ
 午前8:30、出発。
 ヤクマンチェの小屋に寄る。昨日のヤクマンチェはいなかった。仲間が一人いたので、私達が訪ねてきたことを伝えてくれるように頼む。
 デオラリへの道を捜しながら下りる。3485m付近に分岐点があった。
 午前11:35、マルファに着く。
 マルファを出たところで昼食を取る。ツクチェに入ったところで、ハスターの知り合いの家に寄りお茶をご馳走になる。
 午後3:00、ヒマール・ゲストハウスに到着。
 夕食のあとにビレンドラが来る。7月から8月にかけてヤクの血を飲みにヤクカルカに登るので、2〜3人用のテントを貸してほしいと言われる。7月にまた来るので相談しておくと答える。

3月22日(火)晴れ
 朝食後、デポ品を点検する。
 酸素ボンベの保存状態が悪いのでBOXに移動する。MSR2本の酸素が漏れていると思われる。
 ICI石井テント2〜3人用(フライ・ポール付、リエゾン用)をプラパールBOX・No.2に移動する。
 出発前にカロパナ・セルチャンを訪ねる。
 カロパナさんから、ツクチェ・ブランデーを菅野さん小野さんに渡してくれと頼まれる。
 そして、「菅野さんに、ぜひとも来て欲しい。来られないときは手紙を下さい。もし来るとしたら11月と12月は忙しいのではずしてほしい」と言われる。
 私も2本、ツクチェ・ブランデーを頂く。
 午前11:15、ヒマール・ロッジを出発する。
 インドラの馬に乗せられる。マルファでバクティと会う。秋にサポート隊が入るとき、よろしくとお願いする。
 午後3:00、ジョムソン・ムーンライトホテルに着く。
 ミナのアマ(お母さん)とお姉さんに会う。馬を引いてくれた馬方に、お茶と食事をお願いする。謝礼を30Rs渡す。
 ジョムソンからツクチェを見ると雨が降っているようだった。出発してから風が強くなり、ジョムソンに近づくほどひどくなった。山は雪が降っているようだ。
 ジョムソンは新しいホテルが沢山出来ている。そのためか、ムーンライトの壁も化粧していた。
 新しいホテルが出来てからは、宿泊客が少なくなったという。それに、新しい航空会社は他のホテルとジョイント契約しており、飛行機で来るお客は、そちらに流れているとのことだった。ホテル間の競争が激しくなってきているようだ。
 ポカラのスニールが話していたミュジアムが高台に見えた。ジョムソンで一番立派な建物だと、アマが自慢する。

3月23日(水)晴れ
 朝起きて山を見ると雪模様となっていた。バッタシダラも雪が積もっていた。
 午前8:00、アマに見送られてジョムソン空港を飛び立つ。モナリサのウサに持っていってくれと新鮮な野菜を渡された。
 午前8:30、ポカラ着。
 到着早々、スニール宅を訪ねる。とても大きな建物である。スニールの父親がロサニーとの結婚前に増改築したという。
 スニールはヒマラヤ保全協会のミュウジアム建設の仕事を最後にして、家の仕事に専念していると言っていたが、じつは、日本で仕事をしないかという話しががあったのだ。しかし、相手から連絡が途絶えてしまい困っていた。
 昼食を頂いたあと失礼する。夕食も呼ばれたが、門田さんと飲むので遠慮する。
 歩いてモナリサまで帰る。ポカラの街を歩きながら見ると、カトマンドゥと同様に建物が増え大きく変化しているのが分かった。
 中国の作っている道路が奥地まで伸びたため、奥地に住む村人が流れ込んできたためだった。
 夕食前にビールを飲んでいると、門田さんが帰ってくる。早々、ロキシーを出してきて飲み交わす。
 夜中までモハンダイと討論した件などを話し合う。7月に奥さんと日本に帰るというので、盛岡に来てほしいと話した。

3月24日(木)晴れ
 カトマンドゥにはバスで行く。宿泊代はハスターの分を入れて640Rsと安くしてくれる。バス代は400Rsと、これまた安い。
 午前7:00、ジャーマンベーカリー前を出発する。
 バスにはビデオテレビが付いていた。随分ハイカラになったものだ。しかし、座席は狭かった。昨夜、寝違えたせいか右の首から肩と背中が痛くなる。狭い座席では最悪である。
 午後3:30、カトマンドゥのバジューに着く。ツクチェピークホテルの裏通りであった。
 そのままコスモトレックに行きジョシとシャルマンに会う。マンバトルとパダムライもいた。FAXレターを受け取り、荷物をデポして帰る。 
 ハスター宅に寄りビールをご馳走になる。奥さんがマチャを焼いてくれた。少しだけ頂く。
 リキシャでナヤバネソールの交差点まで行く。リキシャを降りて歩き始めると、肉屋の前でモハンダイと会う。
 午後6:00、モハンダイ宅に着く。
 ランパルサの奥さんから頼まれた手紙をスディールに頼むと、ランパルサは、今朝のバスでポカラに行ったとのこと。すれ違いとなる。

3月25日(金)晴れ
 昼食に、ハスター、マンチャン、パタン達とレストラン田村に行きオーナーの田村さんと会う。ホテルの城戸さんは病気のため福岡に戻っていた。
 昼食後、コスモトレックに行く。
 明日は日本から近藤さんが来る日だが、大津さん達はホリーなので来ないとのこと。
 伊東さんにFAXレターを送る。すぐに返事が来る。明日は小野さんの作るカレーパーティーをすると書いてあった。
 帰ろうとすると雨が降ってくる。往生していたら、シャルマンが一緒に帰ろうと彼の車に誘ってくれる。依然として首から肩にかけて痛む。なかなかよくならない。しばらくかかりそうだ。

パルチャモ峰

 シシャパンマ峰のベースキャンプ(BC)が標高5,000m以上にあるため、事前に、その高度に慣れておくため、パルチャモ峰へ順応登山に行った。
 3月26日に隊長(近藤)がネパールに入国したあと、登山隊員たちが次々とカトマンドゥ入りする。
 総勢10名でパルチャモ峰登山に向かった。
 ルクラまでは飛行機で行き、ルクラからBCまではヤクに荷物を積んでキャラバンをした。
 前半は予定通り全員無事登頂を果たしが、再度の順応登山のときに雪崩の直撃を受け、私は足首を痛めた。

(カトマンドゥ)

3月26日(土)晴れのち雨、雷
 昨夜、下痢になり寝不足である。胃腸薬を飲んでもダメなので抗生物質を飲む。近藤さんの出迎えにモハンダイと一緒に空港へ行く。
 午後12:55、予定通り近藤さんが着く。荷物が沢山あったが、モハンダイがサンセットビューホテルから車を借りてくれたので助かった。
 コスモトレックに個装以外の荷物を置いてからモハン宅に戻る。
 胃の調子が良くならない。別の抗生物質を飲む。

3月27日(日)晴れ
 昨夜の薬が効いたらしい。お腹の調子が少し良くなる。
 午後からコスモトレックに行く。ネパール・スタッフのキルキン、クマール、パサンが来ていた。彼らを近藤さんに紹介する。あとから大津さんのご主人も来る。二人は昔話に弾んでいた。
 午後2:30、カーペットショップに寄ってから帰る。
 サンセットビューで夕食を取りながら今後の打ち合わせをする。途中からジャットゥも来て、いろいろな話をする。いつの間にか午後10時を過ぎてしまう。 
 モハン宅に戻り、私はモハンダイ、山子さんと一緒に酒を飲む。山子さんは山童子の伊東さんとお会いしており、私のことを知っていた。彼は、東北大学にいたとき岩手県を見てまわり良く知っていたので、懐かしそうに岩手の話しをする。今は無職で、あちこちと旅をしているようだ。

3月28日(月)晴れ
 午前6:30に目が覚める。胃の調子が良い。気持ちがいいので毛布を干し部屋を掃除する。
 サンセットビューで朝食のあと、林さんの出迎えに行く。スディールも一緒に来てくれる。
 午後1:30、ようやく林隊員が空港から出てくる。林さんは関西の大学生3人と乗り合わせてオーバーチャージを免れた。
 全員でコスモトレックに行き、近くで食事をする。食事の後、タメールに行く。
学生3人はチベッタンゲストハウスに宿を取る。林さんが顔馴染みらしく、宿泊料金を安くしてもらう。3人で15ドルと安い。
 彼らと別れたあと、近藤さんのウエアーを買いに行く。スディールに交渉してもらい上下1,000Rsで買う。
 夕食はモハン宅で取る。ビールを飲んだ後にダルバートを頂く。
 二人に、モハン宅の雰囲気を気に入って欲しいと思う。旅になれている彼らだからこそ、ファミリー的雰囲気を分かってくれると思う。しかし、旅をする人は孤独を好むものだから、その反対もありうる。
 テレビの放送終了時(午後10:30)まで和やかに過ごす。

3月29日(火)曇り時々雨
 午前8:00、スディールのモーニングティーの声で目を覚ます。
 昨夜、雨が降ったらしい。窓際が濡れていた。雨の音にも気付かなかった。よく眠れた。モーニングティーを飲むと大キジが出た。体調が良くなってきた。
 午前11:30から、コスモにて荷物の整理をする。
 弘大隊、山童子の使用品をチェックする。雨模様なのでテント以外を一階のフロアーでチェックする。 
 伊東さんより、FAXレターで山童子デポ品の使用承諾書が来る。近藤さんに渡す。
 午後2:30から、シャルマン、ペンバとパルチャモ登山の件を打ち合わせする。
◎ルクラまでのオーバーウエイトの件、OK.
◎ナムチェバザールで、テントのレンタル、OK。
◎食糧はルクラでも購入は可能。
◎シェルパの食糧で、主食のアルファ米以外はルクラで購入、OK。
◎ケロシンの購入、ルクラでOK。
◎登山の時、FIXロープは200m(ペンバが100m持っている)、スノーバー8本、アイススクリュハーケン2本は必要。
◎キチンセットはコスモからレンタルする。
◎日程とハイポターは後で協議とする。
◎今日の夜に入国する隊員3人の出迎えの車は、コスモが手配する。
 打ち合わせが終わったあと、ジョシより、彼が出演した「ヒマラヤの赤い自転車」のビデオテープを借りて帰る。
 午後8:45、桑原、池田、宮崎隊員達がカトマンドゥに到着。私は宮崎隊員と同室となる。

3月30日(水)雨のち晴れ
 昨夜、宮崎隊員は何度も戻していた。飛行機で飲み続けていたのと疲れがたまっていたせいなのだろう。
 午前10:20、朝食を食べながら今後の打ち合わせをする。
 午前11:00から準備作業をする。
◎トラロープを50mに分割。
◎テントのチェック、修理。
◎タメール・アッサム・インドラチョーク・ニューロードにて買い物。
 午後4:00、作業を終えモハン宅に帰る。
 夕食はサンセットビューで取り、モハン宅でチャンをご馳走になる。

3月31日(木)曇り
 午前11:30から準備作業をする。
◎ガスヘッドをシェルパから2つ借用。ペンバ1、クマール1。
◎旗竿はルクラで購入する。
◎ベニマットはターメで作る。
◎パルチャモ登山分のテント・ロープ・コッフェル・その他をチェックし用意する。
 午後2:50から、ペンバ、クマールと打ち合わせをする。
◎キチンボーイ2名。
◎明日、食糧の買い物をする。ニュロード・ロイヤルネパール前に午前9時の待ち合わせ。
◎ポリバケツ75Lとポリ袋(ごみ用)10枚購入すること。
 午後4:00、作業を終える。
 ニュウーロードのピーナツゲスツハウス(新しい屋上レストラン)で軽食を取る。
 午後8:30、小川、吉田隊員達を出迎えに行く。
 モハン宅に帰ると、桑原隊員がモハンと酒を飲み、ご機嫌になっていた。

4月1日(金)晴れ
 買出しに、隊長、桑原隊員も一緒に行くことになる。
 買出しはクマールに手伝ってもらう。直ぐに終わると思っていたが、ケロシンストーブを買う時に、火をつけてチェックをするため時間が掛かる。半日ほど掛かってしまった。 
 昼食後、ラジンパット通りのブルーバードで日本食を購入する。私達が買出しをしている間、他のメンバーは装備・食糧の荷造りをする。
 個装は明後日の荷造りとし、明日は休養となった。
 夕食はジャネバトの入り口に出来た新しいレストランで取る。
 宮崎隊員は疲れているようだ。

4月2日(土)晴れ
 朝から手紙を書く。洗濯もする。
 そのあと、山田昇さん達がシシャパンマを登山した時のビデオテープを見る。
 停電の間、帰りの飛行機便を打ち合わせする。私は、5月29日のシンガポール便の往復チケットにした。
 そして、その他の打ち合わせをする。
◎私のトレッキングパーミッションは、今年2度目なので倍額。差額は後で精算とする。
◎明日、2500ドルと1万円を池田・林・上野隊員で両替。
◎記念の絨毯を作るので、注文数を確認。
上野30、宮崎10、川原20、林20、近藤10、桑原10、池田25、倉橋15。

4月3日(日)晴れ
 午前中、池田・林・上野隊員で両替。チベットゲストハウスで両替する。1ドル52.75Rs。1万円5130Rs。
 午後から、カーペットショップに行く。頼んでいたデザインが出来ていないので、夜にモハンダイ宅に来てもらうことにする。その後、コスモトレックで梱包作業をする。
 その他の事項。
◎弘大隊・高橋健さんの荷物は大津さんが預かるので、倉庫から事務所に移動する。
◎各自のパーミッションをもらう。
◎ライトエクスペディションのパーミッションは、隊長が受けとる。
 夕食が終わっても、モハンダイ宅にカーペットショップのサウジが来なかった。デザインの打ち合わせはパルチャモ峰登山が終わってからとなる。
 明日の朝、ルクラに出発なので、ドメスティック空港までの車の手配と朝食をお願いする。明日の朝までの食事代と部屋代を支払い部屋に戻る。

(カトマンドゥ〜パルチャモ峰BC)

4月4日(月)曇り
 午前6:15、モハンダイ宅を出発。
 午前6:30、ドメスティック空港に着く。空港にはクマールとパサンとペンバが来ていた。
 クマールは、後から来る倉橋隊員と一緒に来ることになっていた。一緒に行くペンバは、忙しそうに空港の中を動き回っている。パサンから、全員のボーディングパスと貨物の受取書を受け取る。
 午前7:10、カトマンドゥを出発。

 午前7:45ルクラ(標高2700m)に到着。
 ナマステロッジに行き、買出しと梱包作業をする。
 ペンバは、ここでも忙しそうに動き回る。彼は顔が利くようで、すぐに人が集まる。ポーター9人、荷運び用ヤク10頭が集まる。
 ヤクはペンバの奥さんがつれてきたことが分かった。ペンバの家はパルチャモ峰に行く途中のターモにあった。
 昼食にララヌードルを食べてからキャラバンの出発となる。
 午後12:00、ルクラを出発する。
 午後2:40、パクディン(標高2500m)に到着。今日は、ここに宿泊。

4月5日(火)晴れ
 昨夜の夢は、おもしろかった。ストーリーが最後まで続き、子どもに返るシーンで終わった。なぜか、一人の女性を腕に抱え続けていたのを覚えている。
 午前7:25出発。モンゾーのチェックポストで検査を受ける。
 午後2:30、ナムチェバザール(標高3400m)に到着する。
 ペンバから、野菜の買出しは明日にすると言われる。ロープ・アイススクリューハーケン・スノーバーのレンタルは、このロッジで借りられるのでOKとのこと。
 ペンバは奥さんと家に行き、朝に戻ってくるという。
 私達は、明日の午前5時に起きてエベレストビューホテルに行って来ることにする。

4月6日(水)晴れ
 昨夜は寝床についても目が冴えてしまい、しばらくの間起きていた。いつの間にか夢を見ていた。一重まぶたの女性の姿が印象的であった。
 午前5:40にロッジを出る。エベレストビューホテルでエベレスト・ローツェ・アマダブラム・タウツェの写真を撮る。
 午前6:45にロッジに戻る。
 朝食を取っているとペンバが戻ってくる。
 朝食後、下の店でロープ125m・スノーバー4本をレンタルする。レンタル料は、80Rs+30Rs=110Rs/1日となる。
 野菜は土曜市(9日)のときに買いに来ることになった。
 午前9:10、出発する。
 午前11:00〜午後1:35、ターモのペンバ宅にて昼食を取る。食事が出来るまでの間に岡山大隊の報告書を見る。
 午後2:25にターメに到着する。
 時間が早いので、順応のため近くの丘に登ってくる。明日から、いよいよテント泊である。

4月7日(木)曇りのち晴れ
 昨日は暑かった。下ズボンと下着を着たせいか夜中にシュラフのチャックをオープンして寝た。
 ロッジに日が差していたが、山は雲がかかっており天気は余り好くない。
 午前7:30、ペンバが来る。今日はポーターが来ないとのこと。今日はBCまで往復する予定だったが裏山で高所順応することになる。

午前9:05発 ― 午後1:40〜午後2:00(標高4760m)― 午後3:20〜午後4:20(ゴンパ)― 午後4:20〜午後7:40(ペンバ宅にて夕食)― 午後8:10、ロッジ着。

 順応のあとゴンパに寄る。ゴンパに入る時に入り口で頭をぶつける。めまいがするほど打つ。ペンバがお祈りをしている間、私達はお茶をご馳走になる。 
 その後、ペンバ宅に寄り夕食を取る。ロッジのダルバートより美味しかった。
 夕食の後、ロッジに帰るため近道をして畑を越えてゆくと、チェックポストのポリスに取り囲まれる。犬もけしかけられるがペンバの犬が飛んできて相手の犬に立ち向かう。ペンバが居たので事なきを得た。
 ポリスの話によると、チベット人が夜に不法入国するとき、ヘッドランプを点滅させるので勘違いをしたとのことであった。

4月8日(金)晴れ
 明け方、顔を洗いに行き片足が川にはまってしまう。しかし、久しぶりに顔も洗い気分が良くなった。ついでに大キジも撃つ。
 午前9:15、ターメを出発する。
 午後12:50、標高4395mのベースキャンプ(BC)に着く。
 コックのクマールと倉橋隊員が予定より一日早くBCに上ってくる。しかし、倉橋隊員は順応が出来ていないので、ポーターと共にターメまで戻る。今日はターメに泊まり、明日、ポーターと共にBCに上がって来ることになる。
 彼らは急いで来るため、荷物をテンボに置いてきていた。ペンバがテンボまで倉橋隊員と一緒に戻り、クマールの荷物を担いでBCまで戻って来た。
 今日の夕食はオムライスと焼き飯であった。みんな「美味しい」と喜ぶ。さすがにクマールの料理は上手である。

(パルチャモ峰登山)


4月9日(土)曇りのち小雪
 午前中、食糧と装備の仕分けをする。昼食後、C1へ荷揚げを兼ねて登ってくる。

午前11:33発 ― 午後1:50〜2:18、C1(標高4880m)―午後3:17、BC着。

 今日は装備関係の荷揚をした。各自、15〜17Kg荷揚げする。明日はC1に泊まる予定。明後日はテシラプツァ峠まで順応予定。
 夕食前に倉橋隊員が上ってきた。
 夕食は、カレーとモモである。今日も美味しい夕食を頂く。

4月10日(日)雪
 昨夜から雪模様。起きてみると5cmほどの降雪があった。頭痛のため、夜半に何度か目を覚ます。深呼吸をしても良くならないので外に出て歩いてみた。 
 歩くだけでは良くならないようなのでスクワットをしてみる。途中で吐き気をもよおす。
 これもダメだと思い、身体全体を動かすために雪かきをする。度々、深呼吸をする。これを繰り返すうちに頭痛が治まってきた。調子が良くなってきたので水汲みもした。クマールからミルクティを頂いたあとテントに戻る。
 午前9:50、吉田隊員は体調が悪いので、キッチンボーイと共にターメに下りる。快復したなら、BCに戻ってくることになった。
 倉橋隊員は順応のためペンバとC1まで行って来る。他の隊員は休養。私は宮崎、池田、林隊員達とトランプをする。
 雪が止み小康状態となる。気温が下がってきたので明日は晴れると思う。

4月11日(月)晴れ
 午前9:20、出発。
 午後12:13、C1着。荷物が少ないのに昨日より時間が掛かる。
 テント設営後、高所順応のためC2方面に行く。5345m地点まで行く。
 午後4:00、C1に戻る。順応がうまくいっていないようだ。みんな疲れている様子。

4月12日(火)曇り
 夜半、頭が痛くなる。朝は食欲が無く、お茶漬けを小盛りで一杯だけ食べる。
 午前9:40出発。
 午後12:00、プラトーの大岩。
 午後1:50、C2着。標高5450m。倉橋、池田、小川隊員達はBCに降りる。明日、我々は頂上にアタックする予定。

4月13日(水)晴れ
 起きると頭が痛い。食欲がなかったが、お茶漬けを流し込む。
 午前6:00、出発。FIXロープを350mほど張る。荷物を担ぎながらトップを行くペンバは、何度も登っているとはいえ強い。頼もしさを感じる。
 午前10:00、頂上に着く。本来の頂上はクレバスで隔たっており、踏むことが出来ない。現在は、ここが頂上になっているとペンバが言う。

 午前11:00、頂上を下りる。
 午後12:40、C2着。吉田隊員と会う。
 吉田隊員はターメで二泊してからC1に入った。今日は順応のためC2に来た。明日、C2入りする予定。
 私達は、お茶を飲んだあとC1を通過してBCまで下りることにする。
 午後5:20、BCに着く。到着早々大キジが出る。
 疲れた。高度が下がっても足どりが軽くならなかった。夕食はスープを2杯飲んだだけで寝床に着く。

4月14日(木)晴れ
 今日は休養日。登らなくていいという気持ちが、ゆったりさせる。池田、倉橋、小川隊員達がC2に向かう。吉田隊員と合流し頂上にアタックする予定。
 朝食後、大キジが出る。ただし、下痢気味である。朝食は全部食べられたが、余り進まない。一晩寝ただけでは調子が良くならない。まだ、足どりが重く感じる。

4月15日(金)曇り時折雪
 午前6:50、ゆっくりと起きる。天候は余り好くない。
 午前6:00、上部隊員と交信。
 風はあるがコンディションは悪くないらしい。次の交信は午前9:15以降とし、こちら側は無線を開放とする。
 朝食を食べていると小雪が舞ってくる。私の体調は余り良くない。小キジの出が悪いのでラシックスを半錠飲む。
 午前9:40、アタック隊、全員登頂の無線が入る。ただし悪天との事。
 午後12:30頃、C2から無事下りたと無線が入る。
 BCは一時的に日が差したが、天候は良くならない。
 午後5:00、全員元気で食欲旺盛との連絡が入る。
 C2から―明日、天気が良ければテシラプツァ峠まで行き、写真を撮ってからBCに戻りたい。
 隊長から―この後、FIXロープの回収を兼ねて2度目の登山に行くので、4人分のシュラフは残して下さい。

(痛切の雪崩事故)

4月16日(土)晴れのち曇り、風強し
 午前8:40、BC出発。
 午前10:50、C1着。昼食を取る。
 午前11:20、発。
 午後1:30頃、C2手前のガリーに取り付く。林隊員、近藤隊長、桑原隊員と私の前を登って行く。
 時折、テンギラギタウの岩壁からスノーシャワーが降りそそぐ。しかし、登攀を打ち切るほどではなった。そう思えた・・・。
 午後2:30頃、雪崩が発生。
 少しずつ溜まっていたと思われる雪が標高差千メートル以上もある垂壁を一気に落ちてくる。ガリーの中に居た私は、直撃を受けて飛ばされる。
 直撃を受ける直前、上を見上げると、2年前の6月に谷川岳の一ノ倉沢滝沢第三スラブ登攀中に受けた雪崩を思い出した。
 落ちてくる雪が滝の飛沫のように広がってとてもきれいに見えた。まるでスローモーションビデオを見るように私を覆ってきた。しかし、落ちてくる勢いは凄まじく、その衝撃力は私をガリーの取り付き点の下まで飛ばしてしまう。
 落ちた場所が棚状になっていたため雪が溜まり、運よくそこに埋没して止まった。しかも、落ちながら片手で口を塞いでいたため口の中に雪が入らず、呼吸することが出来た。
 落ちた直後から、もう片方の手でもがいていると雪面に顔が出た。しかし、降りそそぐスノーシャワーは私を再び雪の中に埋めて下に押し流してしまいそうであった。
 下を見ると奈落の底に雪が落ちていくように見えた。
 危険を感じ、夢中で雪を漕いで登る。まだ雪が固まらなかったせいか、ガリーの取り付き点まで雪を掻き分けて登ることが出来た。
 岩陰に隠れて落ちてくるスノーシャワーをやり過ごす。ほんの数分の出来事だった。
 気がつくと左足に痛みを感じる。足元を見ると左側のアイゼンが外れてぶら下がっていた。
 落ちついてくると他の隊員のことが気になる。直ぐ上を見ると、宮崎隊員と川原隊員がいた。無事であった。上部の隊員が気になり、宮崎隊員と共に大きな声を出して何度もコールをする。
 一時間ほどすると上部からコールが聞こた。取り付き点まで隊長と林隊員が下りてくる。全員無事であった。
 私は、痛みがひどくならないうちに下りると隊長に進言する。
 私に宮崎隊員が付き添い、林隊員が二人分のザックを担いで後から付いてきた。上部キャンプには隊長、桑原、川原隊員が残ることになった。
 C1を過ぎると、BCから救助のため上ってきた2次隊の隊員・シェルパ達と合流する。午後8時頃、BCに着く。彼らのおかげで無事に下りることが出来た。
 到着早々、宮崎隊員が応急処置をしてくれる。左足に林隊員のザックの背板を副木代わりに使い、足首の間接を固定する。
 治療も終わり落ちついてくると、「生きて帰れた」と嬉しさがこみ上げてきた。そして同時に「シシャパンマ峰に登ることが出来るだろうか」という不安が頭の中をよぎった。

4月17日(日)晴れ
 朝早く、シェルパ達と池田・小川・吉田隊員が、上部のサポートに向かう。
 私の左足は幾分腫れていた。
 隊長がBCに戻ってからの打ち合わせとなるが、どうやらヘリコプターで搬送になるらしい。
 午前10:00、上部ではラッセルをしながらFIXロープの回収に向かったが、天気が崩れてきたので、途中で引き返してキャンプを撤収することになった。荷物は全部降ろせないので、シェルパにお願いする分を残しての下降となった。
 午後12:00、30分前にシェルパ達とすれ違い、今、サポート隊と合流しBCに向かうと連絡が入る。
 BCに残っている隊員は隊荷の整理、個装の整理をする。
 午後から風が強まり、干していたシュラフが飛ばされる。
 手伝おうとすると、安静にするようにと言われる。とりあえず身の回りの整理をした。
 午後2:00、隊長達がBCに着く。元気そうなので安心する。
 午後4:00、ペンバとトンディンがBCに着く。全員の無事を祝う。
 夕食は宴たけなわとなる。
 BCに持ってきたウイスキーを全部飲み干す。チャンも沢山飲み、桑原隊員は歌を歌い、踊りだす。

(パルチャモ峰BC〜カトマンドゥ)

4月18日(月)晴れ、風強し
 午前9:35、BCを撤収し帰路につく。
 最初にペヌに担がれ、トンディン、パサン、リタと交替しながらターモまで下りる。
 午後3:40、ターモのペンバ宅に着く。
 ヘリコプターの手配は、ペンバが近くの発電所から業務連絡の時間(午前11:00〜午後12:00)を利用して連絡していた。しかし、ヘリコプターが来るかどうかは、明日にならなければ分からない。
 今日も宴たけなわ、楽しい夕餉となる。

4月19日(火)うす曇り
 朝食の時、発電所の職員が挨拶に来て、ヘリコプターは大丈夫来るだろうと話してゆく。
 朝食後、包帯を取り替えているとヘリコプターの音が聞こえる。まだ来ないと思っていたので慌てる。
 午前8:22、ターモ発。私は隊長とヘリに乗る。ペヌ、トンディン、パサン・リタに御礼をする。あっという間の出来事であった。
 午前8:28、給油のためルクラに寄る。
 給油の間、パイロットと話す。彼は軍隊にいたパイロットであった。現在、一ヶ月に15回出動しているベテランパイロットである。
 このヘリコプターは日本製で、日本から9日間かけて運んできたと自慢する。来月、もう一機来るらしい。
 午前9:50、カトマンドゥの空港に着く。
 エアポートにジョシが迎えに来ていた。空港内を専用救急車で運ばれ外に出る。
 外にシャルマンが来ていた。タクシーに乗換えてコスモトレックに行く。
 コスモトレックに大津二三子さんが待っていた。
 お祭りのためティーチングホスピタルは休みなので、個人病院でレントゲンを取ってもらうことになる。シシャパンマ峰登山は、その後に検討することになった。
 ジョシの車で、パサンも付き添い病院に行く。
 診てもらった結果、骨には異常ないが2週間の安静と言われ、松葉杖をもらう。薬は薬局で購入となるので処方箋を書いてもらった。便秘になっていたので、ついでに便秘薬も書いてもらう。
 薬局で薬を購入したあと、モハンダイ宅まで送ってもらう。
 スディールが待っていた。2階の部屋まで案内してもらう。モハンダイは妹の所に行っていた。山子さんが、明日のフライトで日本に帰るので戻っていた。
 夜、8時過ぎにモハンダイが帰ってくる。チェトナが私の姿を見て驚く。私はお腹が空いていたので、タルバートを食べたいと話す。
 夕食は山子さんと一緒に取る。ポカラであった写真家のことなど、いろいろな話しをする。どうやら失業保険の手続きのため帰るらしい。話しに夢中になり、いつの間にか夜中になっていた。
 部屋に戻りベッドに就き、しばらくの間、ボーットする。様々なことが夢のように過ぎてゆく。
 生きていることを実感する。生きていることに感謝する。そして、心温かい人達に感謝する。

シシャパンマ峰

 4月21日に他の隊員達とシェルパ達もカトマンドゥに戻り、22日からシシャパンマ峰の準備を行う。そして、27日にシシャパンマ峰に出発した。
 陸路で国境を越え、29日に車道の終了点である大本営に着く。シシャパンマ峰のBCに着いたのは、予定より3日遅れの5月3日となった。
 最初はBCまで行けばいいと思っていたが、BCに着くと、C1・C2・C3・頂へと心は向かって行った。

(カトマンドゥ)

4月20日(水)晴れ
 午後2:15、山子さんがTGで日本に帰った。近藤さんとスディールと共に見送りに行く。
 帰りにコスモトレックに寄る。明日の件とチベット入国手続きについて打ち合わせをする。明日は午前9:30、空港で待ち合わせとする。
 チベット入国手続きについての打ち合わせ事項
◎食料品以外の一覧表作成は、消費物と非消費物(持ち帰りのもの)ごとに作成する。
◎カートBOXごとに作成。
◎一覧表の項目は、品目・プライス・数・重量。プライスは中古品だということにして値段を下げる。
◎個人一覧表を作成する。項目は、品目・数量だけでよい。
◎食糧は後で打ち合わせとする。
◎今回のヘリコプター料金は、3,063ドル。
◎日本からの送金は、電信為替が早くてよい。
 午後3:00、私とスディールはコスモトレックの車で送ってもらう。隊長はタメールに寄ってから帰って来る。

4月21日(木)晴れ
 午前9:00、空港に迎えに行こうとした矢先、隊員たちがモハンダイ宅に戻ってくる。
 訊ねると、隊員達は一番フライトに乗ることが出来たので、予定より早く着いたという。ペンバとクマールは後になった。私と隊長はペンバとクマールを迎えに行く。
 午前10:30、ペンバとクマールが到着する。
 荷物5個は明日になった。クマール曰く、「昨日もロキシーを飲みダンスを踊った。ただ、毎日飲むのはダメだ。毎日飲むとバカになりそう」と、上機嫌で話していた。
 空港からコスモトレックに行く。
 ジョシと隊長が打ち合わせをする。私はコスモトレックのスタッフ達に、持ってきたテントを乾かしてもらう。
 ティーチングホスピタルに行く予定であったが、予定していた正木先生がいないので行かないことになった。
 午後1:00、大津さんが2人の日本人を連れてポカラから帰ってくる。
 大津さんから、「明日のフライトでニューデリーに行く大学病院の先生が2人いるので見ていただいたら」と言われる。それではと、レントゲンのフイルムを見てもらったあと足首を診ていただく。
 「アイゼンを履いていたので下駄骨折のようなものだが折れていないので4〜5日安静していればよい」と言ってくれた。一安心する。
 モハンダイ宅に帰ると、みんなはサンセットビューで昼食を取ったあと、庭の芝生で昼寝をして帰ってきていた。
 私たちもサンセットビューに行き昼食を取る。ついでに、ひろ子さんに事故の報告をする。
 夕食はダルバートを腹いっぱい食べる。夕食の途中、盛岡の伊東さんから電話が入った。
 日本に帰った山子さんから伊東さんに電話が行き、心配になって電話をしたとのことであった。伊東さんの心遣いがうれしかった。
 夕食の後は、山田昇さん達のシシャパンマ峰登山ビデオを見る。

4月22日(金)晴れ
 朝食をいただきながら、隊長から予定を聞く。
 隊長から―予定通り4月27日に出発するので、3日間で準備し2日間は休養したい。
 宮崎隊員が、みんなから食糧についての意見を聞いたあと、絨毯の注文を取る。小100枚、大36枚となる。
 コスモトレックから、「ルクラからの荷物は、まだ来ない。それに、車が故障したので個装を取りに行けない」と電話が入る。
 今日は、グループごとに出発しコスモトレックで落ち合うことにする。
 私達はカーペットショップに行き絨毯を注文した。小さいサイズは一枚7ドル50セント、大きいサイズは一枚26ドルとなった。明日、前金を持ってくる約束をする。
 タメールで昼食を取る。
 昼食後、小川隊員はタメールで買い物をして帰った。私達はコスモトレックに行く。
 コスモトレックで、診察していただいた先生の名前と住所を尋ねる。
 大津さんの御主人がダウラギリ峰に遠征したときのドクター(水野さん)に紹介されてネパールに来た方たちであった。
 一人は日大医学部長を退職されたミヤケさんで浦和に住んでいるらしい、もう一人は順天堂大学の川北先生であった。あとで調べておきますと言われる。
 午後3:30、隊長達が来る。
 パルチャモ峰登山の清算のあと、大津さん達と打ち合わせをする。
 明日はコスモトレックの休日だが、ペンバとコスモトレックのスタッフで空港に荷物を取りに行ってもらい事務所を空けてもらうことにする。
 打ち合わせたあと、隊長はキルキンと装備を見に行く。池田・川原・吉田隊員達も同行する。倉橋・桑原隊員達は先に帰った。
 私は、クマール・林・宮崎隊員達と食糧の打ち合わせをし、その後、コスモトレックの車で送ってもらう。ついでに個装も運ぶ。
 モハンダイハウスに帰ると、倉橋隊員の体調が悪くなっていた。スディールにお粥を作ってもらう。桑原隊員も体調が優れないようだ。
 どうやら、パルチャモ峰登山のあとの、飲みすぎ食べすぎなどが祟ったらしい。私も気をつけよう。

4月23日(土)晴れ
 今日は、二手に分かれての買い物となる。私は、隊長・川原隊員と共にブルーバードに行く。残りの隊員は中心街に行き、BC用マット・シュラフ・羽毛服(連絡官用)のレンタル、ゴミ用ポリバケツ等の買い物に行く。
 肝心の荷物は、キッチンBOXが1つ着いただけだった。残りは明日のようだ。
 私の足は随分と良くなる。今日は杖を使わず過ごした。
 午後6:00、家族より電話があった。なんでも、伊東さんから兄へ電話があり、心配になって電話をしたとのこと。みんな変わりなく元気な様子であった。
 姪の綾子から、Jリーグのチケットが手に入らないので、主催しているテレビ岩手にお願いして欲しいと言われる。明日、テレビ岩手に電話してみると話す。
 午後7:00、小野さんから曼荼羅が届いたと電話が入る。モハンダイと変わると、私の元気な様子を話していた。
 電話がうれしかった。ますます気分が良くなる。寝る前に伸びていた髭を剃る。

4月24日(日)晴れ
 今日から包帯をはずして歩くことにする。薬も止める。
 今日は吉田隊員と小川隊員が帰国した。
 遅れていた荷物も届き、ようやく梱包作業を終える。今日は日暮れまで作業をする。綾子に頼まれた件をテレビ岩手にFAXでお願いする。
 夕食は、モハンダイ宅の近くにあるアンティで取った。

4月25日(月)晴れ
 今日は早めに出かけて作業をする。午前中で作業を終える予定だったが、午後2:00まで掛かる。
 宮崎隊員が体調を崩していた。昼食も取らず早めに帰った。私達は作業を終えたあと、昼食を取ってから帰った。
 久しぶりに夕食まで、ゆっくりと過ごす。
 午後6時頃、高橋さんから電話が入る。隊長からのFAXが山友会に流れて事故を知り、心配して電話をしてきた。
 サンセットビューへのFAXが繋がらないので電話をしたと言う。山友会の皆さんが心配していると伝えてきた。
 今日の夕食に桑原さんが作った豆腐が出る。みんな喜んで食べた。しかし、宮崎隊員は熱が出て、調子を崩していた。ちょっと心配である。
 テレビ岩手に送ったFAXのことが気になる。明日、確認をしよう。

4月26日(火)晴れ
 今日は休養日なのでゆっくりと起きる。
 私は朝食のあと手紙を書き、本を読んで過ごす。
 隊長は午後からコスモトレックに行く。
 午後2時頃、FAXをする。サンセットビューからは繋がらないので、アンティの向かいの電話屋でする。3回目で山童子の佐藤さんに繋がった。料金が1,350Rsも掛かる。
 隊長が帰ってくると、テレビ岩手からのFAXレターを持ってくる。Jリーグのチケットは手配し、綾子に連絡を取ったと書いてあった。一安心する。
 隊長から、明日は午前6時にミニバスが来るので、それまでに出発準備をするようにと言われる。
 宮崎さんの熱が38度近くあった。明日、出発なので心配である。
 夕食はサンセットビューで取る。
 夕食から帰ると、モハンダイから、名古屋空港で飛行機事故があったニュースが流れたと聞く。
 林さんのラジオで短波放送を聞くと、台湾からのエア・バスらしい。211名が死亡したと伝えていた。飛行機事故は他人事でない。気にかかる事件であった。

(カトマンドゥ〜シシャパンマ峰BC)

4月27日(水)曇り
 午前6:20、モハンダイ宅を出発。
 午前11:10、コダリ着。荷物をトラックに積み替え、ネパールの出国手続きをしてトラックにて移動する。
 午後12:20、出発。
 午後15:05(ネパール時間は12:50、時差が+2時間15分)、中国のザンムーに着く。
 凄い悪路であった。みんな埃だらけとなる。具合の悪い宮崎さんは辛そうであった。
 入国手続きに時間が掛かる。ホテルに移動して中国の担当者と打ち合わせをする。リエゾンオフィサーの名前はラワン。通訳はガオフォン。
 ヤクは25頭用意しキッチンボーイは途中の村で雇うことになる。交換レートは1ドルが5.6元で、リエゾンが両替をすると言った。ザンムーではネパールのお金が使えた。
 明日中にBCまで行く予定であったが、ニエラムまでと言われる。予定から一日遅れとなる。宮崎さんの体調を考えれば、そのほうが良いと思った。

4月28日(木)晴れ
 午前8:00、起床。眠い!時差のせいだ。
 午前10:30、出発。
 午前11:40、ニエラム着。標高3,580m。
 通行料を1人10元、リエゾンオフィサーから請求される。
 夕食後、クマールに連れられてダンスホールに行く。ディスコダンスが流行っていた。私はビールを一杯だけ飲んで宿舎に戻る。
 こんな僻地にダンスホールがあったので驚いてしまう。それに、チベットでディスコダンスを興じている様子は、6年前からは想像出来ない。

4月29日(金)晴れ
 午前8:50、起床。やなり時差のせいだ。みんな起きるのが遅い。
 宮崎さんの調子が良くならない。昨日、シシャパンマ峰国際隊のドクターに頂いた薬が強く、喉の痛みは無くなったが眠れなかったと言う。
 私の方は少しずつ良くなってきたが、まだ本調子ではない。昨夜は咳が止まらず、朝の大キジも下痢気味であった。
 午前9:40、出発。
 午後1:00、大本営に着く。標高4,810m。

 車はここまでである。中国側のスタッフは、ここから先は行かない。
 途中の村で、キルキンとリエゾンオフィサーがヤクとキッチンボーイの手配をする。明日の夕方に来ると言う。
 大本営には2晩泊まることになる。また、一日遅れとなる。計2日の遅れである。
 日が差すとテントの中は暑いが陰ると寒い。シシャパンマ峰は雲の中であった。
 車で一気に高度を上げたせいか息切れがする。しかし、頭は痛くない。
 午後6:50、夕食となる。みんな、お腹が空いていた。ネパール時間であれば午後10時を過ぎている。

4月30日(土)晴れ
 午前8:30、起床。
 午前9:20、朝食。
 昨日も余り眠れなかった。頭を入り口に向けて寝たので、みんながトイレに起きるたびに目が覚めた。食欲が無く、ライススープとパン一枚で朝食を済ます。
 朝食後、キルキンがヤクの到着がもう一日遅れると言ってきた。3日間の遅れとなった。
 裏山へ、リハビリを兼ねて散歩する。上に登ると、荒涼とした大地が広がっていた。シシャパンマ峰は雲の中であった。
 シャパンマ峰の反対側に大きな湖が見える。キルキンの話では、大きな魚がいるらしい。標高5,000mの湖に、どんな魚がいるのだろうと考えてしまう。
 ゆっくりと下りる。下りのほうが足に負担が掛かり痛くなる。アイスバーンでの下降が心配になる。
 昼食は焼きそばが出る。昨日のコロッケもそうだが、塩味が強い。クマールに話すと顔つきが変わった。機嫌を損ねたらしい。

5月1日(日)晴れ
 午前8:00、起床。明け方、下痢をした。
 昨夜は薄いシュラフのため寒くて眠れないでしまう。今日も昼寝をしそうだ。
 朝食後、PPロープを50mにカットしスノーバーにシュリンゲをつける。
 午後12:10、倉橋・川原隊員たちが湖を見に歩いて行く。
 午後4:00、私もリハビリを兼ねて湖方面に行く。
 午後5:30、とてもと届きそうも無いので引き返す。
 夕方になり、ヤクが集まってくる。キッチンボーイのハクパ・ラマも一緒に来る。
 午後8:10、倉橋・川原隊員たちが帰って来ないので、宮崎隊員とペンバが迎えに行く。通訳のガオさんが、いつの間にか、1人で川向こうまで迎えに行っていた。林隊員も行く。
 午後8:30、2人に宮崎隊員達が合流する。ガオさんが林隊員とBCに戻る。
 午後9:00、全員、帰ってくる。

5月2日(月)晴れ
 いよいよ出発である。国際隊も今日出発のようだ。
 昨夜は自分のシュラフで寝たせいか、とても暖かく快適であった。睡眠は最大の休養である。お腹の調子は、昨夜の薬が効いたせいか良くなる。
 高度に身体が敏感なのか、傷のせいなのか、いずれにせよ神経質になっている。もっと気楽にしなければならない。

 今の私は他のメンバーよりハンディがあるのだから、頂上に行くことにこだわらず、シシャパンマ峰を楽しむように心がけなくてはならない。出来るだけパーティの足を引っ張ることなく行動しなくてはならない。執着は何も得ることが出来ない。あるがままでよい。流れに逆らわずに行動しよう。

 午後12:25、出発。ヤクに荷物を括り付けるのに時間が掛かる。

 午後6:55、仮BCに着く。標高5,315m。6時間30分で着く。
 休み休みであったが余り遅れずに歩くことが出来た。長い時間歩き続けると足は重くなるが、10分くらい休むと快復した。この分だとBCまでは行けそうである。
 国際隊は、一時間ほど手前のチベットチームのテントサイトに泊まったようだ。

5月3日(火)晴れ
 昨夜は、よく眠れなかった。
 午前8:50、出発。
 午前11:15、BCに着く。標高5,700m。私の高度計は5,410mを示していた。300mの誤差が出ていた。

 本来のBCキャンプより1時間ほど上部に設ける。2時間ほど掛かってテント場を作る。標高が高いので、作業が辛い。テントを張ったあと、食糧の仕分けをする。日暮れまで掛かる。
 ダンロップ6人用テントに、私と林・池田隊員が入る。しかし、とても狭い。明日は、私だけ別のテントに移ることにする。食堂テントの一角が良いだろうと言われる。

(シシャパンマ峰登山)

5月4日(水)晴れのち風雪
 夜中に頭が痛くなる。深い呼吸を取ると一時的に良くなるが、止めると、また痛み出す。順応がうまくいっていないようだ。
 モレーンの崩れる音が気になり、不安な気持ちと頭痛と寝不足で一夜を過ごす。しかし、昨夜よりは眠れたと思う。今日から登山活動が始まった。
 午前8:35、出発。
 午前11:50、デポキャンプ(5,800m)に着く。テントを張り荷物を入れて、上部を目指すことにする。
 午後12:25、出発。上に行くほど風が強くなる。時折、バランスが崩れるほどの突風が起こる。

 午後2:30、みんなと離れてしまう。C1に行くのを諦める。標高が6,000mを越えた所に、キルキンと私の荷物をデポする。
 午後5:55、BCに戻る。疲れた。
 やはり下降に時間が掛かった。登りは痛みが感じなくなり歩けるが、下降は痛くて辛かった。みんなはC1(標高6,350m)に到達して帰ってきた。
 午後6:30からミーティングをする。
 A隊が隊長・林・川原・倉橋隊員達、B隊が桑原・川原・上野・宮崎隊員達となる。
 明日は、A隊がC1に上がりB隊は休養日となる。
 食欲が無く、夕食は取らずに寝た。昨日の狭いテントと違い、食堂用のスタードームテントは快適そうに思える。

5月5日(木)晴れ、風強し
 午前6:00、起床。一晩中、強い風が吹く。今も、まだ風が強い。
 昨夜も頭痛がした。夜中にミルクティを吐く。
 夕食を取らなかったのに明け方に下痢をする。どうやら、下痢止めを飲み我慢していたのが出たようだ。昨日の疲れも影響しているのだろう。
 モーニングコーヒーを飲んでいると、なんとなく歌が出る。自分の歌詞に涙が出てくる。
 歌いながら、山で亡くなった友のことが浮かんでくる。そして、なぜシシャパンマ峰に挑むのだろうと考え込んでしまう。

 病む足を引きずってまで登る価値があるのだろうか。
 山で亡くなった友のために登るのか。
 こんなにまで自分を苦しめて登ることに意義があるのか。
 C1以上は迷惑なのではないか。
 まだ執着するものがあるのか。
 思い切れない自分の弱さか。
 5月2日の言葉は何だったのだろう。
 死ぬまで頂上への執着心を捨てることが出来ないのか。
 応援してくれる人達への見栄なのか。
 山は甘くない。足を引きずって登れるほど甘くは無い。
 登るのなら、死を覚悟しなければならない。

 隊長が来る。今日は山の上が荒れており、みんなも疲れているので全員休養すると話して行った。
 午前11:00、シェルパによる安全祈願祭をする。その後、みんなは食堂テントでトランプをする。私は、加わることなく傍で見ながら過ごす。

5月6日(金)晴れのち曇り
 寒かったせいか、明け方に頭が痛くなる。テントの寒暖計が−14.4℃を示していた。
 吹き続いていた風が夜中に突然と止む。朝まで無風であった。
 絶好の登山日和である。しかし、私は足首が痛いので、C1への順応登山を諦める。BCに私は残る。
 隊との交信をBCで取ることになる。周波数は145.06。交信時間は午後12時・16時・17時。
 午前8:40、彼らは出発する。
 彼らを見送ると虚しさが生じてくる。「意地を張る必要は無い。迷惑をかけるだけだ」と自分に言い聞かせる。
 午前中はテント内でマッサージをする。
 見当たらない行動食用のチョコレートを捜しながら、BC用食糧の整理をする。クマールにも手伝ってもらったが見つからなかった。しかし、おかげで暇つぶしになり、気がまぎれた。
 午後12:03、川原隊員と交信。
 川原隊員から―クレバスを通過し上部のアイスバーン状態の所にいる。まもなくC1に着くと思われる。次の交信は16時。
 午後から本を読み始める。
 午後1:30、ブリティッシュ隊のヤクが来て30分ほど休みABCに行く。雲が出てきた。上部の天気が悪そうだ。
 今日からマッサージのほかスクワットも続けてみる。初日なので、50回を2セットする。
 午後4:00、定時交信。
 隊長から―C1に午後1:30〜2:00に掛けて全員到着。午後1時30分頃から風が強くなったが、今は大丈夫。雪が降っているが問題は無い。全員元気である。
 上野から―雪崩の音が聞こえたので気をつけて下さい。
 ビーコンをつけているので捜しに来てくれと、冗談とも本気とも取れることを言う。確かに、ここから見てもC1の上のセラック帯は不気味である。
 次の午後5時の交信は大本営と交信したあとになる。明日の午前7時の交信も大本営のあとになる。
 午後5:00、C1と大本営との交信を聞く。その後、隊長と交信をする。
 隊長から―C1は特に変わったことはない。BCの様子はどうですか。
 上野から―今、デポキャンプから戻ってきたブリティッシュのヤクマンチェがお茶を飲んでいます。特に変わったことはありません。
 明日の交信は午前7時と確認し交信を終える。
 夕食はキッチンで、クマールとハクパと一緒に取る。

5月7日(土)晴れ
 明け方に吐く。手鏡を見ると顔に浮腫みがあった。昨夜も頭が痛かった。足の痛みより高山病が気になってしまう。
 昨日の夕方からコキジを我慢していたのでトイレに行く。コキジが沢山出た。大キジも出る。終えたあと気分がよくなる。気分が悪かったのは、生理現象を我慢したせいかもしれない。
 クマールがモーニングティを持ってくる。喉が渇いていたので一気に飲む。吐き気は起こらない。やはり生理現象を我慢していたせいであった。
 午前7:00、隊長は大本営との交信が取れないでいた。そのあと隊長と交信をする。
 隊長から―大本営とは連絡が取れない。キルキンの調子が悪いのでBCに下ろす。他は全員C2(標高6,900m)を目指し、その後、BCへ帰る。私のことを聞かれる。
 上野から―足の痛みが取れないのでBCに留まります。マイペースで行きます。
 隊長から―了解しました。
 上野から―BCからは、頂上に雪煙が見えます。しかし、他は見られません。最高の登山日和ですね。
 隊長から―C1は、やや風があるものの、やはり登山日和です。みんなは、まだ出発準備が出来ていません。出来しだい出発します。
 交信の後、朝食を取る。天気がいいので外で取った。
 朝食のあと横になると、ぐっすりと眠ってしまった。起きて、随分と時間が経ったと思い時計を見る。まだ午前8:30であった。1時間しか眠っていなかった。
 午前10:40、パサンとキルキンがBCに戻る。キルキンだけと思っていたのでびっくりする。
 パサンに聞くと、C2に向かったが調子が悪くなり引き返したとのこと。
 午後12:00、隊長と交信。
 隊長から―C1に戻ったが、宮崎・桑原・川原隊員たちはまだである。宮崎隊員は高度障害が出ていたがC2には到達した。頑張っている。C2までは4時間ほど斜面を登りきった所に決め、テントを1張り設営した。パサンとキルキンは日本食が合わなかった。シェルパの高度食を含めて、今後のことを検討したい。とりあえず、クマールにシェルパの高所食の件を相談してください。C1を下りるのは午後1時頃になるだろう。BC到着は午後3〜4時頃と思われる。無線機はC1に置いてゆくので、交信はこれで終わりとする。
 隊長との交信を終えた後、また考え込んでしまう。今の気持ちをノートに書いてみる。

 何のために、ここに居るのだろう。直ぐに治る見込みがあるなら、ここに居てもいいのだが、歩くたびに痛む足首は、直ぐには治らないと思う。
 平地でさえ、ようやく歩ける状態なのに、石がゴロゴロしているモレーンとアイスバーンを歩けるだろうか。
 ただでさえ困難なヒマラヤなのに、なぜここにいるのだろう。無理して動けば必ず迷惑をかけることが分かっているのに・・・。おまけに高度順応も出来ていない。
 このままBCキーパーでいるつもりなのか。それだったら、早く日本に帰って治療に専念し仕事をしたほうが良い。
 ここに居ると、みんなに負担をかけてしまいそうだ。甘く見ているわけではないが、これが現実だ。
 俺も秋のダウラギリ1峰登山隊の副隊長なら進退をはっきりさせなくてはならない。出来るだけ、みんなに迷惑をかけない方法を見つけなくてはならない。
 C1かC2までか分からないが、ある程度、登ることは可能だろう。しかし、足首に力が入らない時がある。氷河を歩いたときのように危ない状態になるのではないか。力が抜けたとき、急斜面だったら終わりだ。
 そうだ、この足で下りられるだろうか。助かった命は俺だけのものではない。意地だったら、そんな意地は捨ててしまえ。
 しかし、ここまで来たのだから登りたい。ぎりぎりまで諦めたくない。この感情を抑えることは出来ない。
 だめだ、感情だけで決めてはいけない。私以上に、みんなも考えているのだから。諦めろ。
 いや、隊長から止めろと指示があるまでは、登ることを諦めない。

 理性は止めろと言っているが感情を抑えることは出来ない。
 午後2:40、ペンバが戻ってくる。
 午後3:19、隊長、桑原隊員、川原隊員が戻る。
 午後3:30、パサンとハクパが宮崎隊員を迎えに行く。
 午後4:10、宮崎隊員たちが戻る。山は雪が降っているようだ。風が強くなる。
 みんなは疲れていた。一日の休養で疲れが取れるだろうか、心配である。

5月8日(日)曇り、一時風雪
 暖かい朝であった。今日は全員休養。みんなはビールを飲みながら、くつろいでいた。
 隊長から、明日からの行動予定を聞く。
◎明日はA隊(隊長・池田・林・倉橋・シェルパ3人)がC1入りとする。
◎明後日はB隊(桑原・川原・宮崎)がC1入りとし、A隊はC2入りとする。
◎3日目、A隊はC3に到達した後、BCに戻る。B隊はC2入りとする。
◎4日目、A隊は休養日。B隊はC3に到達した後、BCに戻る。
 私は、ローテーションから外してもらう。
 日中、強い風雪となった。休養日でよかったと思う。

5月9日(月)曇り
 今日も暖かい朝を迎える。相変わらず夜半から朝にかけて頭痛がする。
 A隊は予定通りC1に出発。
 午前中、宮崎隊員は頭を洗い洗濯をする。私はテントの中を掃除したあと、日課となったスクワット・マッサージをする。
 午後12時以降、BCの無線機を開局にする。
 昼食に、みそおにぎりを食べたくなったので、桑原さんと宮崎さんに手伝ってもらい、みそ焼きおにぎりと味噌汁を作る。美味しかった。
 午後1:53、隊長と宮崎隊員が交信する。
 隊長から―C1は風雪模様。私は3番目に着きキルキンが一番遅れている。
 宮崎隊員から―第一クレパスが広がっているように見えますがどうですか。
 隊長から―よく分からない。風雪状態でなければFIXロープを張りたい。次の交信は、午後5時に大本営との交信の後にします。
 午後4:56、隊長と大本営が交信。その後、隊長とBCが交信する。
 隊長から―C1は風雪模様。キルキンは午後2時過ぎに到着。焼きモチ・小豆モチ・カレーを食べた。辛口カレーは唇がしみるので、次の遠征は甘口にしたい。調味料セットが揚がっていない。後で頭を整理してから明日の荷揚げ品を連絡する。ただいまイチゴゼリーを製作中。
 午後5時、また隊長から連絡が入る。
 隊長から―荷揚げ品は特に無かった。川原さんに言ってあるコッフェルは、デポキャンプに内側をデポして外側のみを持ってきてください。上野隊員の荷物でデポキャンプに揚げるものをリストアップしてください。調味料は揚げなくてよい。今日の交信は終わり、明日は7時に大本営と交信のあとBCと交信します。
 宮崎隊員から―桑原・川原隊員は変わりない。上野隊員は午前中にスクワットをして調子は良かったが、仮眠後、痛み出した。C1に行くかどうかは明日の朝に決めます。私は(宮崎隊員)頭痛がするほか、痔が悪化して調子は良くありません。

5月10日(火)晴れのち午後から風(山は地吹雪)
 昨夜も頭痛がした。目出帽と高所帽を被って寝てもダメだった。
 午前7:00、大本営とC1の交信が不通。最初に私と隊長が交信する。
 上野から―桑原・川原隊員は問題ありません。宮崎隊員が不調です。私も頭痛と足の傷が良くないです。C1への 移動は、桑原・川原隊員だけでいいですか。
 隊長から―桑原・川原隊員はC1に2度上がっているので大丈夫。その件も含めて午前8時に交信します。
 午前8:00、交信。
 隊長から―風は強いがC2に行きます。
 桑原隊員から―先ほどの件ですが、すでに2度上がっていますので大丈夫です。
 隊長から―それについては心配していません。そちらの天候を心配していました。しかし、この分だと大丈夫ですね。旗竿もありますので、大丈夫だと思います。ただ、午後から必ず崩れますから早めに出発してください。特に第一ステップの風は強いので気をつけてください。今日は、A隊とペンバがC2泊まりです。パサンとキルキンはC1に戻り、明日、桑原・川原隊員と一緒にC2に上がる予定です。しかし、彼らのことですから変更もありえます。考慮してください。
 桑原隊員から―分かりました。その他ありませんか。
 隊長から―醤油と日本茶を揚げてください。それと、BC用の電池が無くなったら、私のテントの中にあるので、それを使ってください。
 桑原隊員から―わかりました。
 上野から―川原隊員のコッフェルの件ですが、私のためにデポするのであればどうかと思います。というのは、デポキャンプまで帰る力があればBCまで戻ったほうがよいと思います。デポキャンプまで無理して降りるより、C1に泊まったほうが安全ではないかと思います。そして、次の日にゆっくりとBCに戻ったほうが良いと思います。
 隊長から―その場合、丸一日ロスします。出来るだけ頂上に向かって欲しいと思って考えたわけです。
 上野から―ローテーションを外していただいた時点で、私の行動を別にしてもらぅったわけです。足の状態が良くなった時、私のほうから相談してからC1・C2まで行こうと思っています。
 隊長から―上野隊員が、それで良いというのであれば良いのですが、不幸にもアクシデントが起こったので何とか高みを目指して欲しかったのです。足のほうは、いつ頃になれば目処が立ちそうですか。
 上野から―目処は立っていません。その時が来たなら相談します。
 隊長から―分かりました。
 上野から―コッフェルセットはC1に荷揚げしていいですか。
 隊長から―いいです。あれば、いろいろと使えますので。
 午前8:27、桑原・川原隊員が出発する。
 午後1:20、隊長(C2)と交信。
 隊長から―1時間ほど前に倉橋隊員がC2に到着。私は40分前に到着しました。C2には1張りしかテントが張ってなかったので、もう1張りを張ったところです。すごい地吹雪です。私のヒマラヤ経験の中では、最大級だと思います。マキシムテントのフレームに押されて、声が途切れ途切れになります。このテントが飛ばされないように祈るだけです。パサンとキルキンは、まだ着いていません。C1に戻ったかもしれません。C1から連絡はありますか。2人は何時頃出発しましたか。
 上野から―連絡はまだです。午前8:30前に出発しました。心配ですが前回の記録を見ると午後2時前に到着していますので、もう少しかもしれません。
 隊長から―そうですね。もう少しだと思います。
 上野から―BCも先ほどまで補修作業に追われていました。今後は、無線をオープンにしますので、何かありましたなら連絡を下さい。
 隊長から―分かりました。C1から連絡がありましたなら連絡下さい。
 午後2:02、隊長と交信。
 隊長から―パサンが到着しました。じつは、私と倉橋隊員が入っているマキシムテントの交差しているフレームを縛っている紐が切れてしまい、補修した所です。C1から連絡がありましたか。
 上野から―まだです。
 隊長から―心配ですね。こちらもオープンしておきます。
 午後2:06、交信。
 隊長から―キルキンが着きました。元気です。とりあえず連絡しました。
 上野から―パサンとキルキンは下りるのですね。
 隊長から―そうです。シュラフも持ってきていません。視界も今のところだいじょうぶです。またオープンしておきます 。
 午後2:24、交信。
 川原隊員から―到着しました。遅くなりました。
 上野から―今、到着したのですか。体調はどうですか。
 川原隊員から―今、到着しました。体調はいいです。テントの中に雪が吹き込み、水が溜まっています。整理しなければなりません。
 上野から―分かりました。今から隊長と連絡を取りますので無線をオープンしてください。隊長、感度ありますか。
 隊長から―今の話を聞いていました。心配しておりました。テントの件ですが、予定では1張り撤収するつもりでしたが、そのままにしています。一番いいのを使ってください。川原さんのシュラフを置いていますので分かると思います。
 川原隊員から―はい、わかりました。先ほど言いましたように、整理に手間取りますので1時間後に連絡を取りたいと思います。
 隊長から―はい、分かりました。午後3時に連絡を取りたいと思います。
 川原隊員から―午後3時ですね。分かりました。
 午後3:00、交信。
 隊長から―C1は落ちつきましたか。
 川原隊員から―今、落ち着いてお湯を沸かしています。
 隊長から―パサンとキルキンの体調が良くなくてC2まで時間が掛かりましたが、午後2:50にC1に下りてゆきました。明日、2人を連れ添ってC2に上がり、泊まるように頼みました。パサンとキルキンが着きましたなら連絡下さい。
川原隊員から―体調は大丈夫です。私が着いたのは午後1:15でした。それから除雪などで1時間15分掛かりました。
 隊長から―分かりました。C2とBCは開局していますので、そちらはオフにしてください。C2は風が一番強いと思います。テントが1つ壊れてしまいました。パサンとキルキンが到着したら連絡してください。
 川原隊員から―分かりました。
 隊長から―BC感度ありますか。
 上野から―今の無線を聞いていました。BCは開局しています。何かありましたなら連絡下さい。
 隊長から―分かりました。
 午後3:42、交信。
 隊長から―宮崎隊員の様子はどうですか。
 上野から―頭痛があります。先ほどロペミンを飲み、眠っています。
 隊長から―分かりました。気になっていましたので連絡しました。
 午後3:51、交信。
 川原隊員から―パサンとキルキンが着きました。
 隊長から―分かりました。2人が落ちついてからでよろしいので、明日C2に上がりスティをして、明後日、C3まで上がってからBCに戻る件を確認してください。今すぐ聞くのは酷なので、落ちついてから聞いてください。午後6時に連絡を取ります。
 川原隊員から―分かりました。
 隊長から―BC応答願います。
 上野から―今の話を聞いていました。
 隊長から―午後5時に大本営と連絡を取りますので傍受してください。
 上野から―分かりました。
 午後5:00、交信。
 隊長から―大本営との交信が聞き取れません。BCのほうはどうですか。
 上野から―風がようやく治まってきました。薄日も差してきました。快適です。宮崎隊員がいますので話しますか。
 宮崎隊員から―風の到来と共に下痢が来ました。頭痛と相俟って、不調です。熱は36.7℃で平熱に近いですが、調子は良くありません。
 隊長から―分かりました。これからのことは両隊員で話し合ってください。
 宮崎隊員から―私は、明日は無理だと思います。いずれにせよ、明日の朝に決めたいと思います。
 隊長から―C1と午後6時に交信予定ですので、その時また連絡を取ります。
 午後6:00、交信。
 隊長と川原隊員が交信する。パサンとキルキンの件がOKとなる。荷揚げの件なども話す。
 隊長と交信し、C1にあるアストミンを2〜3錠を降ろすようにお願いする。今日の交信を閉局する。明日の交信は午前6時。
 夕食時、宮崎隊員の体調が悪くなる。
 食欲はゼロ。熱が37℃。明日、状態が酷いようなら、1人付き添ってカトマンドゥまで下りたほうが良いのではないかと思う。明日の状態しだいでは、隊長と協議が必要である。

5月11日(水)晴れ
 午前5:45、起床。昨夜、吹いていた風が治まって青空が広がる。私の調子は相変わらずである。
 午前6:00、C2とC1の交信を傍受する。
  C1、C2共に予定通りの行動を確認。A隊は食事を終え出発準備中。C2のテント1張りを下に降ろす。次の交信は午前7時にプラトーからと交信になると思う。
B隊は、これから食事の準備。隊員の体調は良好。
 最後に隊長と交信し、午前7時からBCの無線を開局するようにと言われる。
 午前7:05、隊長と交信。
 隊長から―後15分くらいで出発。風も無く、日が燦々と降りそそいでいる。
 上野―このまま開局することを伝える。
 午前9:10、隊長と宮崎隊員が交信。
 隊長から―北東稜への登り口に着いた。雪崩の後がありました。B隊がC2に着いたなら、テントを張る必要は無い。そのままで良いと伝えてください。ここからは、岩稜地帯なので慎重に登りたい。
 その後、宮崎隊員の体調を聞き、まだチャンスはあるので、ゆっくりと養生するようにと話していた。
 午前10:57、隊長と宮崎隊員が交信。
 隊長から―稜線の50m手前にいる。倉橋隊員の足の指が凍傷になったらしいので、倉橋隊員は、ここから下りる。その他は、みんな上を目指す。
 午前11:54、隊長と上野が交信。
 隊長から―全員C3(標高7,430m)に到着。秋と比べて雪が少ない。FIXロープはあるが、途切れているので危険。気をつけて下りる。B隊はC1に無線を置いてきており、C2の無線をA隊が持ってきているので連絡は取れません。
 午後12:56、隊長と上野が交信。
 隊長から―今、下りているところです。ところどころ、いやらしいです。B隊にFIXロープを張ってもらおうと思います。C2までは、あと1時間くらいです。その後、長い下り坂です。
 午後2:06、隊長と宮崎隊員が交信。
 隊長から、倉橋隊員の凍傷の状態と治療するときに、お湯にイソジン液を入れるようにと連絡してくる。
 午後2:16、キッチンボーイのハクパがABCまで倉橋隊員を迎えに行く。
 午後3:50、倉橋隊員がハクパとBCに戻る。凍傷の治療をする。見た目には異常が無いようだ。嫌がったが、イソジン液を入れた39℃のお湯に足を浸けさせる。
 午後3:55、隊長と上野が交信。
 隊長から―C1に到着。直ぐに下りる。
 私から倉橋隊員の到着、治療の件を伝える。
 B隊との交信は、午後7時とする。
 午後6:10、A隊がBCに戻る。
 午後7:00、隊長とB隊が交信する。
 久しぶりにA隊隊員達と一緒に夕食を取る。

5月12日(木)晴れ
 午前7:00、起床する。昨夜はコキジに3回も行く。そのせいか、頭がさほど痛くない。みんなに合わせてゆっくりと起きる。
 午前8:00、朝食。
 午前9:46、B隊と交信。
 川原隊員から―シェルパの2人が登ってこない。今は2人で、三角岩付近のピッケル2本あるところから交信している。
 林隊員から―昨日伝えた所にFIXロープを張ってください。下りのときでも良いと思います。
 その後、隊長と川原隊員が交信をする。
 昼食前にフリーズドライの納豆・小豆モチ・とろろ等を食べる。
 昼食後、午後3時半頃まで昼寝をする。
 昼寝で夢を見る。今夜は眠れそうも無い。
 夕方、キルキンだけがBCに戻る。残りの3人はC2泊となる。
 夕食を取りながら今後の予定を話し合う。
 A隊は明後日まで休養。B隊は戻ってから決めることになった。
 私は明後日にC1に行くことにした。その後、C2まではA隊と共に行動し、そのあとは、その時、状況で決めることにした。

5月13日(金)晴れ
 昨夜は昼寝をしたせいか、なかなか眠れなかった。
 それに身体が熱かった。他の人達は寒かったと言う。彼らは疲れていたからだろう。
 午前11:46、川原、桑原隊員達が着く。パサンは少し遅れて到着する。
 昼食後、明日からの出発準備をする。
 4〜5泊分の食料を用意する。もしかしたら、C3以上に行けるかもしれないと思う。
 今日まで、マッサージとスクワットを続けてきたせいか体調は良くなっている。スクワットは、連続500回も出来た。登るだけなら足首は痛まないだろう。いずれにしても足の調子しだいである。それに順応が悪ければダメである。みんなに迷惑をかけてしまう。だめな時は、すぐBCに下りよう。
 「欲を出すな!みんなが荷揚げをしてくれたから、捻挫した足でも上に行けるのだ!」と、肝に銘じておこう。
 午後2時過ぎになると上部に雲が出てくる。風も強くなる。一抹の不安がよぎる。

(ふたたび生死を越えて・・・)

5月14日(土)晴れのち風雪
 昨夜は風が強かった。テントの入り口のファスナーが閉まらず、風に煽られ、よく眠れないでしまった。
 途中から耳栓をしたので、風の音が気になり全く眠れなかったというわけではない。時折、夢を見ていたのを覚えている。今日の行動には支障が無いだろう。
 今度、BCに戻る時はカトマンドゥに帰るためだ。今日一日になるか、それとも、C1・C2・C3まで行けるか、無心の境地で一歩ずつ進もう。BCでの9日間の気持ちを整理してシシャパンマ峰に挑みたい。
 午前8:40、出発。
 午前10:50〜11:50、ABCにて休息。
 午後3:15、C1に着く。
 午後3:30、隊長と交信。
 ガスコンロ・食糧・食器の在庫確認を、出来たらで良いのでと依頼される。
 午後7:00、隊長と交信。
 在庫確認を報告する。
 隊長から、在庫の数量が合わないので、また調べるよう依頼される。報告は、明日、午前7時の交信のときとする。

5月15日(日)晴れのち風雪
 午前6:20、起床。
 午前7:00、隊長と交信。
 昨日の依頼の件を報告する。
 午前9:20、C2に順応のため出発する。
 午後12:40、風雪が強くなり標高6,700m地点から引き返す。下りになると、足首が痛み出す。
 午後2:10、C1に着く。A隊が来ていた。

5月16日(月)晴れのち風雪
 午前4:50、起床。左足の痛みが残っていた。私はC1で休養とする。
 午前7:32、A隊はC2に行く。
 午前8:00、B隊がBCを出発。
 午前10:50、A隊がC2に着く。
 午後1:20、B隊がC1に到着する。
 夕方、隊長と交信。
 ペンバが自分のマットを持ってきたので、マットは持ってこなくて良いとのこと。

5月17日(火)晴れのち風雪
 午前5:00、起床。
 お湯を沸かし、お茶と食事の用意をする。
 午前6時になっても起きて来ないので起こしに行く。足の痛みが治まったのでB隊と共にC2を目指す。
 午前7:45、B隊と共に出発。A隊は既にC2を出発していた。
 午前10:30、風が強くなってくる。
 午後12:40、C2に着く。
 隊長と交信。A隊もC3に到着していた。
 隊長から―途中からホワイトアウト状態になったので遅れたが、ペンバは午前11時に到着していた。
 さすがに強いと感心する。

5月18日(水)晴れ
 やはり頭痛がした。トイレ(コキジ)に一度も起きなかったことが原因だろうか。このままB隊と共に順応なしでC3に上がるのに不安を覚える。
 午前5:00、隊長と交信。交信のあと、A隊は頂上を目指して出発。
 午前7:00、B隊と共にC3を目指して出発する。
 午後2:30、A隊が登頂(中央峰)となる。
 午後3:40、私達はC3に到着する。
 午後4:00、A隊は、まだC3に戻っていなかった。BCにも連絡が入っていないので心配になる。
 午後5:30〜6:30にかけてA隊が着く。
 A隊の泊まるテントが無いので登頂を祝う間もなく、ペンバ以外はC2に下りる。ペンバは我々をサポートするため残ってくれた。
 A隊が夜遅くC2に着いたのを確認したあと、眠りに就く。

5月19日(木)晴れ
 夜明け前にC3を出発。頭痛も無く食欲もあったのでB隊と共に頂上に挑む。
 登り始めて間もなく、みんなから遅れだす。

 C3まで登ることが出来れば上出来と思っていたのに、体調が良いと思い込み登り始めた。私の気持ちは頂に向いていた。自分に言い聞かせてきた言葉とは裏腹になっていた。このとき既に、肉体と精神のバランスは崩れていた。
 高所順応なしで、この高度で一泊し、しかも足首の捻挫を抱えていた。無酸素、ノーザイルで登るには危険な状態であった。

 C3を出て3時間ほど経っただろうか?テントが2つ張れるところに出る。
 疲れがピークに達していたのだろう。腰を下ろして休むと、そのまま横になってしまう。
 強く感じていた日差しが心地よくなり眠ってしまった。
 いつの間にか20分くらい眠っていた。白い衣を着た天女のような人が、私の頭上を回りながら話しかけていた。声をかけようと起き上がると我に返った。
 急にお腹が空いてくる。今朝、作ってきたおにぎりを食べる。
 元気になったので立ち上がり、ふたたび頂上を目指す。
 体が重く感じる。ゆっくりと歩く。
 やせ尾根の露岩でブリティッシュの隊員、シェルパとすれ違う。
 彼らは、午前2時に出発して頂上に登ってきたと言う。最後にすれ違ったのが女性隊員だったので、負けずに登ろうと気合を入れた。
 しかし、立ち止まる度に足が重く、時間だけが過ぎていった。
 やがて前方に見えていた岩壁が迫ってきた。フィックスロープを張ってあったが、そこを登る気力は無かった。
 そして、自分の置かれている状況を考えるようになった。時間は午後12時になっていた。たった50m高度を上げるのに1時間半も掛かっていた。
 下降することを思いつき下り始めた。
 下り始めたとたん、痛めた左足で踏ん張ることが出来なくなった。下を見ると、切れ落ちている稜線が疎ましかった。
 フィックスロープがなかったので、片足で下りるのは困難であった。早く下りたいが、安全確実に足を置かなければ危険であった。
 痛めた左足を山側にして、ピッケルをしっかり差し込み、ゆっくりと右足を出した。
 緊張感を持続できないので、5〜10mごとに腰を下ろして休み休み下りた。何時間掛かったのか、時計を見る余裕も無かった。
 C3に着くと靴を履いたままテントに入り横になる。1時間ほどして、みんなが帰ってきた。起きて出迎える気力が無かった。
 私を見たペンバは、起きてすぐに靴を脱ぐようにと言った。ペンバのおかげで靴を脱ぐことが出来た。
 食事を作ってくれたが、私はお茶を飲んだだけで眠ってしまった。
 桑原・川原隊員は別のテントで休み、私はペンバと一緒だった。

5月20日(金)晴れ
 目覚めるが身体全体に力が入らない。気力も湧いてこない。
 ペンバに作って頂いたお茶と朝食を吐いてしまった。
 隊長と交信すると、酸素を吸い出来るだけ早く下りるように言われる。
 酸素を吸うと眠気が出てくる。
 いつの間にか30分ほど眠ってしまい夢を見ていた。
 雪原の中で白い衣を着た女の人が、私の周りを歩きながらニコニコと笑っていた。気分が良くなった。頭の痛みが薄らいでいった。苦しさから解放されたような気持ちになった。
 目が覚めると別人のように意識がはっきりとした。気力が湧いてきた。そして、酸素のあるうちに早く高度を下げなければならないと思った。
 早速、ペンバとザイルを組む。テントの回収を2人にお願いして、斜面を一気に滑り降りた。

 足の痛みは感じなかった。安全圏のプラトーに下りるとペンバと組んだザイルを外す。C2に急いだ。
 しかし、プラトーの途中で酸素が切れてしまう。それと同時に足の痛みが出てきた。
 先行していたペンバがC2から予備の酸素を持ってきてくれたが、酸素を吸っても足の痛みは治まらなかった。
 C2の近くまで来た時は、左足で踏ん張ることが出来ずに引きずっていた。
 C2に着くと、すぐに隊長と交信する。
 隊長から、出来るだけ高度を下げるように、出来ればデポキャンプまで下りるようにと言われる。私も、足は痛かったが、それ以上に高山病が恐かったので下りることにした。
 とりあえずC1まで下りますと言う。なぜなら、C2からC1までの長い下り斜面を歩くのは、時間的に無理と思えたからだった。
 しかし、そんな心配をよそに、ペンバは尻セードが出来るように、橇のようなものを作っていた。おかげで思いのほか早くC1に下りることが出来た。
 C1に着いた時は、デポキャンプまで下りられますと連絡した。

(生還。そして、友との再会・・・)

 C3を出発してから10時間以上経っていただろうか・・・。
 氷河の手前まで来ると見覚えのあるテントが見えた。テントの傍に宮崎、池田隊員がいた。
 彼らは、氷河の対岸からデポキャンプのテントを運んでくれたのだ。
 うれしかった。仲間の気遣いがうれしかった。
 そして、もう大丈夫と思い、「また帰ってきたよ!」と言った。
 照れながら2人を見ると、宮崎隊員に「上野さん、変なこと言わないでよ」と言われてしまう。
 しかし、私はうれしかった。とてもうれしかったのだ。生きて帰れたことがうれしかった。
 ペンバ・池田・宮崎隊員は残ってサポートしてくれた。

5月21日(土)晴れ
 私はBCに着く。
 キルキンとパサンは、桑原・川原隊員がC2に下ろした荷物をC1まで降ろす。

5月22日(日)晴れ
 3人のシェルパによって上部の荷物を全部降ろす。

(シシャパンマBC〜カトマンドゥ〜盛岡)

5月23日(月)晴れ
 林隊員は個人的にラサに行く手配をするため、朝早くBCを経ち大本営に下りる。
 本隊は、上がってきたヤクに荷物を取り付けてから、午後遅く出発となる。一時間ほど歩いて、往路と同じ場所にテントを張る。

5月24日(火)晴れ
 全員、大本営に下りる。私は大幅に遅れたが、林隊員がドイツ隊の常駐ジープを手配してくれたため、途中からジープに乗り大本営に着いた。

5月25日(水)晴れ
 池田・林・宮崎隊員は、ラサに向かった。
 本隊は、ザンムーで出国手続きをしてネパールのコダリに下りる。
 コダリからは、出迎えのチャーターバスに乗りカトマンドゥに戻る。
 モハンダイハウスに夜遅く着く。

5月26日〜28日
 装備の乾燥・整理・デポ品の仕分けなどを行う。

5月29日(日)
 私はシンガポール航空でネパールを出国する。

5月30日(月)
 成田空港に到着。
 新幹線で盛岡に帰る。

(遠征を振り返る)

 こうして私のシシャパンマ峰の遠征は終わった。今でも頂上に行けなかったことがとても悔しいです。無茶と思われるかもしれませんが、怪我をした足で頂を目指したことに後悔はしていません。
 しかし、こんな状態の私を理解してくれた隊長には感謝しています。
 私は、これから目指してゆくヒマラヤ登山に対し、良い経験になったと思っています。
 そして、《頂を目指すには、困難な状況になったときほど、その限界を見極めて進まなければならない》ということを、身をもって感じたしだいです。
 今年はもう一度8,000m峰に挑みます。ダウラギリ1峰(8,167m)、世界第七位の高峰です。
 2年前、ダウラギリ1峰登山の出発直前に谷川岳第三スラブで遭難し、隊に迷惑をかけて、なしえなかった頂です。
 今は、リハビリに専念をしながらダウラギリ1峰への準備に明け暮れています。早く直してダウラギリ1峰に向かいたい気持ちで一杯です。

 1994年6月記 




15年前を振り返ってみて(2009年3月記)

 昨年の10月から当時の日記と報告書を見直して記録を整理しました。
 改めて考えれば随分と無謀な行動でした。
 谷川岳・ハンテングリ峰と続けて2度も手痛い目にあっていながら、なぜ、それほど頂にこだわったのか?
 下手をすれば、またダウラギリ1峰登山がだめになるのに、冷静に考えられない私がいました。
 登りたいという欲求だけがあり、困難であればあるほど頑固になり、ひたすら前向きに志向させていました。
 自分の生き様に陶酔している私がいました。
 今になって、あの時見えなかったことが見えてきました。
 振り返らなければ気がつくことなく過ぎ去ってしまう出来事でした。
 次は、ダウラギリ1峰の記録を整理してみようと思います。

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