チュコトカ半島の旅

極地の山なみを見てみたいと子供のような好奇心で応募し、四人の仲間と共に極東シベリアのチュクトカ半島を訪れたときの記録である。

1991年3月1日 新潟⇒ハバロスク

盛岡から奥羽本線を経由して新潟駅に着く。空港での待ち合わせに時間があったので近くにあったレストランに入る。コーヒーを飲みながら置いてあった「クリストハーンの友達」という小冊子を読む。

この本の中で赤ん坊を世話する65歳の女性が「自分の好きなことが出来なくて大変ですね」と言われたとき「私の人生は十分過ぎます。赤ん坊の世話をするには十分すぎる人生が私にはあります」と答えるシーンがあった。直訳で分かりにくかったので私なりに考えてみた。

私は満足しています。赤ん坊の世話が出来て十分に満たされています。私はこの子の役に立っていると思うと幸せです。

 そして、僕はどう答えるだろう?と思った。

私は地方公務員という安定した職場の中で不自由なく暮らしている。忙しい職場であるが、何かの役に立っていると本当におもえるだろうか?

自分の生き方に疑問を抱いていたときなので、この言葉が妙に気になってしまう。

この本は、私に何かを伝えようとしているのだろうか?

これからシベリア縦断に向かう私に、何か言い諭しているかのようであった。

空港に行きガイドの尾崎さん、メンバーの小暮さん、三瓶さん、藤井さんと合流する。

新潟空港発、午後5時30分。

午後8時30分、ハバロスク空港に着く。現地ガイド兼通訳のパーシャに会う。ホテルに案内されたあと夕食を一緒に取りながら自己紹介をする。

3月2日(晴れ)ハバロスク                                   

午前中、自由市場に行く。三瓶さんは現地の人達が使っている帽子を買う。

 昼食の後、通訳のパーシャとペレストロイカについて話し合う。パーシャはペレストロイカを進めたゴルビーに対して否定的な意見であった。社会主義に対しても私達が考えていた以上に批判的で驚いた。

*「ゴルビー」ゴルバチョフのこと

彼の話では「現在のペレストロイカは、対外的にうわべだけを取り繕っているだけで内面は変わっていない」マイフェアレデイの小説を引用して「ソ連の娼婦は化粧品がポーランド製になったが世界最高のフランス製になっていない。成れないだろう。マッチ売りの少女が一流の貴婦人になれるような体制ではない」と話す。二つの話がつながらないように思えたが、話そうとしていることはなんとなく分かる。

また現在のソ連の状況について話してくれた。

「街には物が少ないというが家の冷蔵庫を開けると食料が一杯詰まっている。サラリーマンの給料は30ルーブルだが、一生懸命貯めているのでお金は十分にある。ただ、そのお金を自由に使えないので棚の上に載せている。お金が沢山あっても金持ちに成れない。欲しいものが無い。それがソ連社会だ」と話す。

小暮さんが「社会主義にもいいところがある。アメリカや日本にはホームレスがいる。ソ連にはないだろう」と言うと「住む家があるというのは違う。私は社宅だ。君たちはアパートを借りる、家を建てることを選ぶことが出来る。私たちはホームレスではないが家はない。選択する自由がない」と強く言った。

私達にとって豊かな社会、幸福な社会とはどんな体制なのだろう。彼には私たちの社会がどのように見えるのだろう。

昼食の後、凍結しているアムール川に行き氷上の釣りを見る。日本のワカサギ釣りのように氷に穴を開けて釣り糸をたらしていた。釣れた魚を見ると、骨が曲がっていた。

 川の上流に工場があり廃液を流しているという話を聞き、骨が曲がっている原因を分かっていながら魚釣をしているのだろうかと思った。公害ということを知らないのだろうか。

 彼らと話していると、この国ではチェリノブイリ事件についてさえ確かな情報が流れていなかった。この国の体制に不安を覚える。

午後7時、午後8時のマガダン行きが遅れているので、出発は明日の午前0時過ぎとなった。

3月3日(晴れのち曇り)ハバロスク⇒マガダン⇒ペベック⇒マイスキー

午前1時40分、ハバロスク空港発。

マガダンで乗り換え、アークティクサークルを越えて極北の地ペベックに降り立つ。

氷原の中にコンクリートで作られた空港ビルが白い大地と同化していた。凍てつくという言葉が痛いように、私の身体を包む。

二重になっている扉を開けると足の踏み場がないほど大勢の人達がロビーを行き交っていた。外を歩く人の姿が数えるほどなので余りの多さに驚いてしまう。

午後3時15分、ペベック出発。ここから6輪駆動のバスに乗り鉱山の町マイスキーに向かう。

凍結した道路を時速80Kmで走る。海岸のそばを走っていると言われたが、海は見えなかった。途中で降りてよく見ると海が凍っていた。見渡しても青い海の姿はなかった。海の中に入ってゆくと波が凍っていた。陸地と海の境界は無い。氷の大地であった。

舗装道路を外れて内陸に入ると、トナカイの大群に遭遇する。遊牧しているトナカイの群れであった。数え切れない数に驚く。こんな所でトナカイは何を食べているのだろう?と疑問に思った。

内陸の道路は踏み固められた轍を利用していた。轍を外れるとタイヤがパウダースノーにはまってしまい、6輪駆動のダブルタイヤでも動けなくなってしまうらしい。

午後8時10分、ペベックから5時間で鉱山の町マイスキーに着く。時差が2時間なので、ハバロスクから16時間30分掛かったことになる。

マイスキーで現地リダーのオレグさんを紹介される。そして、彼の家で夕食を頂く。

オレグさんは地質学者として、ツンドラの白い大地に14年間、奥さんは12年間住んでいる。

オレグ氏は望んでこの地に来たのだろうか?彼の夢はここで果たすことが出来るのだろうか?パーシャの言った「選択の自由がない」という言葉がよぎる。

宿舎に戻ると、またパーシャと話し合う。彼は話し好きなのか、それとも彼の考えを聞いてくれる人が回りにいないのか、私たちにソ連の政治・経済のこと、自分のことなどを話してくる。特に市場経済導入はソ連に可能なのかと議論する。

パーシャは現在、自由主義経済における株式会社のようなものに参画して、音楽関係のプロダクションを行っている。将来はNTTと契約して衛星放送を極東地域で行いたいと話す。

3月4日(晴れのち曇り)マイスキー

朝食後、博物館に案内される。学校の一部に展示室があるという感じである。ほとんどが鉱石であったが、化石とマンモスの牙も展示していた。外に出ると小学生が校庭で遊んでいた。頭の先から足元まで毛皮に包まれており、まるでウサギか小熊のようであった。

昼食後、明日から使用するソ連製スノーモービルを試乗する。スノーモービルを運転するのは初めてであったが、2時間ほど運転するとコツを掴む。小暮さん以外は初めてであったが、何とか様になる。

スノーモービルをブラウンと呼んでいた。(ブラウンンとは強い風の意味)

ブラウンは全部で5台用意されていた。私と小暮さん、三瓶さんと藤井さんが2人乗りで、尾崎さん、サポートのスラーバーさん、オレグさんが1人で乗ることになった。

伴走車として水陸両用の雪上車(ヴェジフォウト)が付く。トーリャさん(運転手)、セルゲイさん(補助員)、パーシャが乗り、総勢8人の出発となった。

夕食後スケートリンクに行き、村の人達と一緒にスケートを楽しむ。

3月5日(曇りのち晴れ)マイスキー⇒グルボカヤ

 今朝から空を見ていて、何か物足りなさを感じる。そうだ、ペベックについてから鳥の姿が見えない。パミールやチベットの奥地でも鳥は必ずいた。特にカラスは人間たちが集まるところに必ず来る。ここには見当たらなかった。冬期だからかもしれないが、不思議な感じである。

極地の山なみを見る。なだらかで厳かで厳粛。畏怖を感じる。

見渡す限りの雪原。地下300mまで凍りついている永久凍土の世界。極寒の地である。

ここにはマンモスの牙があった。100万年前のものといわれている。

ヒマラヤでは地下が押し上げられて貝が化石の状態で発見されているが、ここでは凍りついた状態で発見された。

ここでは、突然凍りつき全てを閉ざしてしまったのだろうか。時の流れが止まっているように思える。

この地表から100万年前の時空を感じる。僕は夢のような世界に来ていた。

午前11時、マイスキーを出発しアナディリイを目指す。私達は北極海に流れるパレワン川上流に向かう。

ダイヤモンドダストが空中を漂っている。七色の虹が現れ、おぼろげな太陽は地平線を横に進んでいた。

午後4時30分、小暮さんと私はグルボカヤに着く。

午後5時40分、尾崎さん、三瓶さん、藤井さんたちが来ないのでオレグさん達が探しに行く。

午後6時、3人が着く。尾崎さんがガス欠となり三瓶さん達に拾われたが、私たちと離れてしまったため道に迷ってしまう。明日からは離れないように注意される。

夕食後、ガス欠になったブラウンをパーシャとスラーバーさんがとりに行く。

3月6日(晴れ)グルボカヤ⇒イワンバザー

午前11時、グルボカヤ出発。

午後12時30分、パレワン川で釣りをする。

この地域を調査に来ていた科学者たちが釣りをしていたので、急きょ私たちも釣りをすることになった。

川の氷は厚く、一度氷が張った上に水が流れて、さらにその上に氷が張り2重になっていた。2mもある大きな手動製のドリルで穴を開けて釣りをする。

釣りは針を付けただけの糸を垂らして、上下に動かすだけである。釣り上げた魚はマァルマと言い、オショロコマのように腹に赤い斑点が多数あった。

午後2時出発。

午後4時20分〜5時10分。私たちのブラウンは、湧き水が出て柔らかくなっていた所にはまってしまう。私たちは身体が沈まないようにハイハイして退避する。ブラウンは雪上車に引き上げてもらう。

午後6時30分、トナカイを遊牧していたチュクチ人イワンの家族と出会う。トナカイの群れに案内される。

シベリアンハスキー犬と少年が群れの中にいた。彼らに何頭いるかと聞くと3000頭位いると話す。何を食べているのかと尋ねると、掘れた雪原のあとを示す。コケのようなものがあったので、オレグさんに聞くとミネラルと英語で答えてくれた。

イワンが塩を持っていたので、トナカイたちがそばに寄ってきて私たちを舐めようとする。なるほど!と理解できた。トナカイと犬と人間たちの関係が良くわかった。

 彼らはここで生きてゆくために、お互い必要としていることを理解していた。

午後7時30分、イワンの案内で出発する。

蜃気楼の中を走っているようだ。女性の曲線美を思わせるような山なみ、そして白い肌。僕は永久凍土の大地をひたすら駆ける。

途中でシベリアオオカミと思われる大きな動物が近づいて来たので、スラーバーがライフルを取り出して追いかけて行った。帰ってくると野生のトナカイだと分かり、ほっとする。

午後10時30分、尾崎さんと三平さん達のブラウンが不調となり、彼等は雪上車に乗る。小暮さんも降りて雪上車に乗ってしまった。ブラウンに乗る日本メンバーは私だけとなる。

午後11時05分、イワンバザー小屋に着く。イワンが管理している中継基地らしい。

夕食を取りながら、この辺りの山を登りたいと話す。すると山は無いとイワンが言った。パーシャに聞くと、日本でいう丘のようなものしか無いと言う。雄大な大地だから日本の言葉では形容できないのだろうかと思った。

3月7日(うす曇)イワンバザー

お酒が入ったせいか話が弾み、いつの間にか午前3時になっていた。ハイになっていたせいか、とても楽しかった。もう一度ここに来たいと思った。

午前8時、イワンの声で目が覚める。イワンはウオッカを飲みながらトーリャに話しかけている。人が沢山来てうれしいのだろう。私は5時間ほど眠ったが、イワンは眠っていないようだ。

今日は、ブラウンの修理をするので停滞となる。私は小屋の裏山を登りに行き、残りの人達は釣りに行った。

人跡未踏の山を登る。乾いた雪を掻き分けながら1時間で頂上に着く。高度計を見ると標高300mほどであった。

見渡すと白い大地が広がっていた。イワンが山は無いと言った意味がわかった。大地のうねりである。


目の前に広がる白い大地

やわらかな曲線

彼女たちは静かに横たわり時を待っていた

鼓動のときめきは長く緩やかに大きな波長を描いている

一つ一つのときめきが長く私には聞こえないが

大きな時の流れを感じる

山から下りるとオレグさんが1人で修理をしていた。まもなく釣りに行ったメンバーが帰って来て、スラーバーさんも修理を手伝う。彼らは素手で行っていた。我々なら凍傷になるだろう。極寒の地で鍛えられたぶ厚い手であった。

夕食は、釣ってきたマァルマの内臓とジャガイモを鍋に入れて塩で味付けした煮物と、残った身をアルミホイルで焼いたものを頂く。

3月8日(曇りのち晴れ)イワンバザー⇒コーリャバザー

今朝の朝食はボリュームがあった。この先は小屋があったとしても人がいるかどうかわからないので沢山食べるように言われる。バターを溶かした中に、ひき肉と茹でたマカロニを入れて煮詰めたものを食べる。

午前8時30分、出発。ここでイワンと別れる。

午後12時、また遊牧民と出会う。ヤランガに招待されお茶をごちそうになる。

 *「ヤランガ」トナカイの毛皮と骨で作った移動式の住居。

  

トナカイの毛が浮かんでいたが歯でこして頂く。しかし、メンバーの1人が飲まなかった。

凍土の上で火を起こすのさえ大変なのに、私たちのために貴重な燃料を燃やしてお茶を沸かしてくれる。残してしまうのは大変失礼だと思い、私が変わりに頂いた。

テントの中を見ると、彼らは日本製のラジオカセットデッキを持っていた。

パーシャに聞くと、以前、日本のテレビ局が取材に来て置いていったものだという。ここには電気も電池も無いのに、なぜ置いていったのだろうと思う。

午後1時15分、彼らにお礼をして出発する。

午後3時、コーリャバザーに着く。

作りかけの小屋にチュクチ人の夫婦とシベリア犬が住んでいた。主人はコーリャ、奥さんはママリー、犬はディオンと言った。彼らは大歓迎してくれる。

夕食を一緒に取り、食後にコーリャと酒を飲む。酔ってくると「プレゼント、プレゼント。アサヒ、アサヒ」と言い出す。ここに訪れたテレビ朝日の人達が彼らにプレゼントをして行ったことが分かった。

そのうち、酔いがまわってきたのか怒り出して来る。三瓶さんが「だめだ!」と日本語で強く言うと、わめきながらライフルを構える。

パーシャの説明では「お前たちは日本から来たチュクチ人。俺は、ここのチュクチ人だ。だまれ、だまれ」と言っているとのことだった。

驚いて動こうとすると、オレグさんが「動くな!」と私達を制止する。そして、コーリャの前に立ち、言い聞かせるように、なだめてライフルを降ろさせる。

私は、現地の女性が刺繍用のビーズが喜ばれるので持って行ったほうがよいと言われたことを思い出す。

オレグさんに確認をしてからビーズを取り出してママリーにプレゼントする。するとママリーがとても喜んでくれた。そしてそれを見たコーリャも喜び、今の今まで怒っていた顔がうそのように穏やかになった。

私達は自分たちの世界観で相手と対峙していた。気をつけなくてはいけない。ここは別世界なのだ。出来るだけ現地の人達を理解するように勤めなければならない。

眠りに就いて間もなく、オレグさんが「オーロラ、オーロラ」と叫びながら小屋に戻って来る。

私達は驚いて外に飛び出し夜空を見る。地平線の端から白い帯が伸びてきて先の方で渦を巻いていた。すると、渦はほどけてしまい、一瞬のうちに白く淡いカーテンが夜空一杯に広がった。そして不規則に揺らぎ始めた。一瞬にして変化する壮大な揺らぎに、私は我を忘れていた。

外気は−27度と言っていたが、寒くは無かった。私は地球という天体に立っていると思った。

3月9日(晴れ)コーリャバザー⇒トーリャバザー

午前中、近くの川で釣りをする。コーリャは機嫌がよかった。私たちを案内してくれる。

午後1時50分、コーリャの案内で出発する。ママリーも雪上車に乗り一緒についてくる。

今日は寒かった。薄手の靴下を一枚追加したが指先は冷たかった。顔もピリピリし、まつげが凍った。手袋を厚手に変えたが暖かくならなかったのでオーバーミトンに変える。

雪面は凸凹が激しく、まるで馬に乗ったロデオのようだった。

尾崎さんのブラウンが、また故障する。尾崎さんはスラーバーの後ろに乗る。オレグさんたちが帰りに回収するので、故障したブラウンは置いてゆく。

何時間も走り続けるうちに、2度ほどハンドルをとられてしまう。一度はパウダースノーの吹き溜まりに、もう一度は古い雪上車の轍に取られてブラウンから放り出される。

午後6時10分、トーリャバザーに着く。ブラウンは調子が悪く、最後は片はい状態であった。

ここにはトーリャがシベリア犬ボーイと共に住んでいた。ボーイはディオンの子供だそうだ。

夕食はママリーが鶏肉と芋の入ったスープを作ってくれる。

3月10日(地吹雪)トーリャバザー⇒シェルナヤ

朝から風が吹く。コーリャが「ブラウン、ブラウン」と言いながら出発を引き止める。私たちとの別れが辛いのか、本当にブラウン(強風)のせいなのかどちらともいえないようすである。

午後1時40分、風が弱まったので出発する。コーリャが悲しそうな顔をして見送ってくれる。私は不安な気持ちを抱きながら出発した。

午後3時40分、巨大な雪上車と遭遇する。雪原のトレーラーであった。トナカイの肉と毛皮を運搬していた。一緒に牽引していた小屋の中でお茶を頂き、しばらく休ませていただいた。

午後7時30分、出発。ここまでは順調であったが、その後アクシデントが続く。ホワイトアウトのため藤井、三瓶組が離れて迷ってしまい捜索に時間が掛かる。その後、私のブラウンは何度もエンストを起こしてしまい、その度に手動でスターターを回すため手間取ってしまう。さらに、地吹雪で星が見えず方角が分からなくなる。

3月11日(地吹雪のち曇り)シェルナバザー⇒アファンケナ

午前5時、シェルナバザー着。数ヶ月前に通った雪上車の踏みあとを辿ってたどり着く。ここにつく手前から針葉樹が見えてくる。

針葉樹林の中に家があり、ロシア人の家族が住んでいた。中に入れてもらい、スープをご馳走になったあと床の上に眠らせていただく。

午後12時30分、起床。オレグさんが「ムース、ムース」と言って私たちを起こす。

私は、あわてて下着のままで出たので急に尿をもよおしてしまい、ムースを追いかけた雪上車に乗り遅れて見ることが出来ないでしまう。みんなが来るまでの間、家族の写真を撮らせていただく。

 昼食にシベリアウサギの肉をご馳走になる。

午後3時40分、出発。シェルナヤバザーの人に案内していただく。

午後4時15分、アークティクサークル(北緯66度33分)に立つ。記念にウオッカで乾杯する。

景色が変わって来る。針葉樹の大きな木が見えて来る。気温も高くなりミトンなしで運転が出来た。

午後7時45分、アファンケナに着く。

 文明のにおいがした。ログハウス風の建物が点在していた。これからは人里が目に付いてくるのだろう。

サウナがあり私達は久しぶりに身体を洗う。オレグさん達に勧められ、摂氏90度以上のサウナからマイナス20度以下の外に飛び出して大騒ぎをする。

3月12日(晴れ、強風)アファンケナ

強風のため出発を見合せて待機となった。みんな疲れているせいか、いらいらしている。言葉の端々に棘があった。しかし、オレグさんだけは決して苛立ちの表情を出さなかった。

マイナス20度以下、風速10m以上、闇の中で故障したブラウンを見ながら「ノルマ(オーケイ)、ハラショ!(オーライ)」と言って白い歯を見せていた。一生懸命やってくれる。

生来の性格的なものだけではないと思う。厳しい環境に鍛えられた肉体と極地に根づかせた精神力が、今の彼を作り出しているのだろう。

スラーバーさんも一生懸命だったが、3月10日の捜索騒動以来、トラブルがあってもすぐに対応しなくなった。我々にあきれてしまったのだろう。しかたがない。それが普通の感覚である。

午後3時、強風のため出発を見合わせる。

午後5時、風がさらに強くなる。彼らはボルガ(暴風)と言っていた。

今日の夕食は、スラーバーさんが仕留めたウサギの肉であった。調味料が塩だけで肉の臭みが強かったが、お腹が空いていたので我慢して食べる。

3月13日(曇り)アファンケナ⇒ウスティベラヤ

 朝、風が弱くなり雪上車の音で目が覚める。雪上車は、エンジンをいったん止めると寒さで掛からなくなるためアイドリング状態にしていた。

疲れていたせいか、いろいろな夢を見る。仕事を止めた夢。山想会メンバー達の夢。その他、etc・・・。

仕事を離れて自分を見つめ直そうと思っていたが、毎日、その日を過ごすだけで精一杯であった。考える気力も無く、その場その場をしのぐだけで精一杯であった。

私はここに来て、いつも「生き方」を見つめ直している自分に気がつく。これでいいのだろうかと考えている自分に気がつく。先々のことを考え不安に思い決断できないでいる私に気がつく。

この旅は、自ら道を切り開く大切さを、私に教えているようだ。

先々の生活を考えるより「今」を精一杯生きることが重要ではないかと思えてきた。

午後2時15分、出発。

午後8時5分、ウスティベラヤに着く。

私は片輪走行で誘導されながら着く。私のブラウンは片方のキャタピラとライトが壊れてしまった。

ブラウンはオレグさんの1台を残して全て壊れてしまう。次からはブラウン1台を交替で運転しながら走ることになった。

3月14日(晴れ)ウスティベラヤ

起床10時。

食事のあと町の中を散策する。人口1000人というが、もっと大きな町のように思える。アナディリイ川沿いの坂の多い港町であった。

氷結した河の中にある船が、奇妙で印象的であった。

雪が解けると川が流れて人々が往来するという。しかし、見える光景は果てしない雪原であり、私には想像できなかった。

久しぶりに人里に入ったせいか、みんなの顔がほころんでいる。私もなぜか心が浮き立っている。

午後6時、今日の出発は中止となる。夕食を食べにレストランに行く。

夕食のとき、セルゲイがここで降りると言う。なんでも、無線技師の仕事を探すためらしい。突然のことで驚いてしまう。

夕食のあと、私たちの部屋に子供たちが押しかけてくる。パーシャの言うところによると、国際親善である。

ここに来た日本人は初めてらしい。私達が珍しかったのか中学生たちは遅くまで話をしていった。

就寝、午後11時30分。

3月15日(曇り)ウスティベラヤ⇒クラッシニエノ

8時30分、起床。昨夜、うなされて目が覚める。みんなも驚いて目を覚ましてしまった。仲間に聞くと、トーリャバザーでもあったという。

今日の走行は気をつけよう。あのときも、その後に危険なことがあった。何かの知らせかもしれない。

今日も風が強そうだ。ブラウンも1台となり運転の割合が少なくなるせいか、やや気が緩みがちである。気を引き締めて出発しよう。

午前11時15分、出発。

午後2時、私は雪上車と離れてしまい迷ってしまう。

運転を交代した時からかぜは強くなり暴風の状態になってしまった。併走していた雪上車の音が聞こえなくなり、いつのまにか離れてしまったのだ。

とりあえず来た道を戻り離れた地点を捜すことにした。2時間ほど掛かってようやく雪上車の踏み跡を見つけ、その道を辿って行った。そして、同じように私の微かな踏み跡を歩いて辿ってきたオレグさんと出会った。

運が良かった。みんなのところに行きブラウンを見ると、片方のキャタピラがはずれる寸前であった。

あと数分も走ればキャタピラがはずれていたと思う。そして、オレグさんと出会わなかったら、発見されず行方不明になっていたかもしれない。今思えば、昨夜うなされたのは悪夢の前兆だったのかもしれない。

ブラウンは走れる状態でないので、私も雪上車に乗る。

午後10時45分、クラッシニエノに着く。

小さな村であった。だれも起きてくれないので、空き家に入り板の間に寝てしまう。

3月16日(晴れ)クラッシニエノ⇒アナディリイ

ふしぎな夢を見る。2年後の家族に出会って兄と話をしていた。兄も夢の中にいると分かって話していた。僕はシベリアの旅の後が気になり聞いてみた。ネパールに行ったと話す。それからどうなったかと聞くと、役場は辞めて東京に行った。姪の由紀子は18歳で綾子は高校1年生。3番目の槙子は、まだ幼稚園だと言う。小学校に入っているはずだが、この辺が夢らしい。夢は心の内在を表すと言うが、私の中で変化が起きているようだ。

目を覚ますと暖かかった。だれかが来てスチームバルブを開けたらしい。みんなはまだ眠っていた。

日が高くなっていたので外に出てみる。土手の上にのぼり辺りを見渡す。小さな集落であった。歩くと10分ほどで通り過ぎてしまう小さな村である。

雪上車の気温計を見ると−29度を示していたが、風が無く日差しが強いので暖かく感じる。

牽引してきたブラウンを見ると風防とライトとエンジンプロテクターがなかった。

小屋に戻り今後のことを協議する。

この状態では運転出来ないので、ブラウンはここに置いて雪上車でアナディリイに行くことになる。

午後7時30分、アナディリイの天候が良くなったと確認出来たので出発となる。

3月17日(晴れ)アナディリイ

午前0時30分、アンディリイに着く。マイスキーを出発して以来13日目で目的地に着く。

午前1時30分、探し尋ねてようやく宿を見つける。余りいい宿舎ではなかったが、とりあえずベッドがあり部屋が暖かかく安心する。オレグさんがチョコレート、コンビーフ、ハムを持ってくる。彼の腕を見ると凍傷のため水泡が出来ていたので手当てをする。そして、彼には特にご苦労をかけたと感謝をする。

午前4時30分、就寝。

午前10時30分、起床。

午後12時〜2時、レストランで昼食を取る。ワインを飲んだせいか、みんな陽気になりウェイトレスをからかう。

昼食の後、街の中を散策し写真を撮る。

ここはベーリング海に面した大きな港町であった。つい最近、アラスカ・スワード半島のノームと、犬橇でベーリング海を渡る交流会が催された。

その話を聞き、かつて私たちの祖先であるモンゴロイド達が、ここを渡り北アメリカに行き、そして南アメリカに渡っていったのだろうと思った。

ホテルに戻り久しぶりにシャワーを浴びる。気持ちが良かったが風邪を引いてしまう。寒気がしたので薬を飲み休む。

3月18日(晴れ)アナディリイ

風邪気味なので、昼食と夕食以外は外に出ないで休む。みんなは街に出て行く。そして、それぞれ知り合いになった人達の家に招待されて行った。

夕食の後、パーシャに誘われて、この建物に住んでいる若い科学者たちとのパーティに参加する。

パーシャが私たちのことを彼らに話していたのだろう、次から次へと質問がくる。持っていた8ミリカメラが珍しいのか、手にとって何度もファインダーを覗いていた。風邪気味で外に出られなかったが、パーシャのおかげで楽しい思い出となった。

3月19日(晴れ)アナディリイ⇒ハバロスク

午前11時、宿舎を出発。

空港でフライトを待つ間、オレグさん、スラーバーさん、セルゲイさん達と別れを惜しむ。彼らと話をしていると、過ぎてきたことを思い出す。一昨日まで顔面を凍らせてツンドラからタイガの氷原を走ったこと、トナカイの肉を食べてチュクチ人とオーロラを見て過ごしたこと、吹雪の中をさ迷ったことなどすべてが思い出となってしまった。寂しくもあり悲しくもある別れのひと時であった。

別れぎわ「ダスヴィダーニャ!ダスヴィダーニャ!」と言われて「スパシーバ!」と答えたとき、目頭が熱くなった。

*「ダスヴィダーニャ」さようなら。  *「スパシーバ」ありがとう。

午後3時30分、アナディリイ空港発。

午後7時、マガダン経由でハバロスクに着く。

3月20日(晴れ)ハバロスク

午前、博物館からベリョースカを見学、買い物する。

午後、自由市場のサッポロラーメン店に行き、みそラーメンを食べる。帰りに本屋で世界地図を買う。

3月21日(晴れ)ハバロスク

午前、遊覧飛行でハバロスク上空を飛ぶ。

午後、ベリョースカで買い物をする。

3月22日(晴れ)ハバロスク⇒新潟空港

午後1時15分、ハバロスク空港発。

飛行機の中は既に日本であった。すでに感傷的な思いは無く、時だけが過ぎようとしていた。この旅はオレグさん達との別れですべてが終わっていた。残りの日々は意味も無く時を費やしているだけだった。ハバロスクでの2日間は身体がだるく頭が重かった。昨日の午後は久しぶりにバスタブにつかり、1時間も眠ってしまった。緊張感がぬけてしまったのだろう。

午後2時、新潟空港に着く。

みんなと別れて再び駅前のレストランに来る。コーヒーを飲みながら振り返る。

これまで体験したことがない様々な出来事が私を通り過ぎていった。生きていることを実感できる充実した日々であった。また行ってみたい。こんな生き方を続けてみたい。この感動をいつも味わっていたいと思った。

ようやく迷いがふっきれた。誘われていたツクチェピークの遠征に行こう。仕事は止めよう。一度の人生を精一杯生きてみようと思った。


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