ネパール、クーンブ・ヒマールを歩く
南アメリカのアンデス山脈に行く前に高所順応を兼ねてエベレストの麓を歩いた記録です
10月24日(曇りのち雪)カトマンドゥ〜ルクラ
1年半振りにクーンブ・ヒマールの玄関口、ルクラに着く。ルクラでいつも利用するエベレストプラザロッヂに入ると、ローツェ峰に行っているはずの橋本さんと倉橋さんが昼からお酒を飲んでいた。彼らに聞くと「登山を終えて下りてきたが天気が悪いので2日間も待機となり、やけ酒を飲んでいる」とのことだった。
今日はパクディンまで行くつもりであったが、2人に勧められるままにお酒を飲んでしまい泊まることになった。おまけに、飲みすぎてお金が足りなくなっていた2人に5000ルピーも貸すはめになる。
10月25日(晴れ)ルクラ〜ナムチェバザール
ナムチェバザールに着くと、東京から来た新堀さん達のグループと一緒になる。タンボチェまでのショートトレッキングを楽しみに来たとのことであった。気があったのでタンボチェまで一緒に行くことにする。
10月26日(晴れ)ナムチェバザール⇔クムジュン
高所順応のため、クムジュンまで行ってくる。
初めてクムジュンを訪れる。街道から外れているこの村は、シェルパの里といわれている。ナムチェバザールよりも大きな集落であるが、ナムチェバザールのような賑わいはない。人々は穏やかであり、たたずまいは落ち着きがあった。
村の中ほどで、ナンパラ峠を越えてきたチベット人達がヤクの肉と塩を売っていた。おそらく100年も前から続いてきた習慣なのだろう。この村の生活は昔と変わることなく続いているような気がする。変化があったとすれば、物々交換から貨幣による取引になったことと僅かな電気が通ったことくらいだろう。
本質的なことは変わっていない。山と川、そして、大地は昔のままである。ここに住む人達が、この大地から受ける恵みを利用している限り変わることはない。
村の中に佇むとアマダブラム峰、クンビラ峰、コンデリの山々がクムジュンを見守っているように見える。そして、風にはためくタルチョーは、ここに住む人々の祈りを神々に伝えているような気がした。
10月27日(曇り)ナムチェバザール〜タンボチェ
プンキテンガで遠征を終えたローツェ隊のサーダーに会う。近藤さん達はポルツェを回ってナムチェバザールに行ったとのこと。遠征の様子を聞くと、ローツェ峰は登頂したが、隊員が凍傷になりレスキューヘリで運ばれて行ったという。
10月28日(雪のち曇り)タンボチェ〜ショマレ
新堀さん達と別れてハスターと2人になる。歩きながら来年のマカルー1峰の登山のことを話し合う。
ハスターから「BCの位置を6000mに上げたい。それと、シェルパ族をハイポーターとして雇わないで欲しい」と意見を出される。順応とルート工作のことを考えると厳しいが、サーダーである彼の意見を尊重しなければならない。
タンボチェから3時間ほど歩いてショマレに着く。ペリチェの方向を見ると厚い雲に覆われていた。雪模様と思われたので、ここに泊まることにする。
日中は写真を撮って過ごし夕方からチャンを飲む。夕食は家族と一緒にアルコディロを食べる。
※ アルコディロとは、ジャガイモと蕎麦粉を混ぜて練ったものである。アルコディロをヤクのチーズで 作ったスープにつけて頂く。
10月29日(晴れ)ショマレ〜ディンボジェ〜チュクン
ショマレとチュクンとの高度差は800mもあったので、ディンボジェで1時間ほど休み6時間近く掛けて来る。チュクンに着いてからも、散歩をして体を慣らすように勤める。夕食の後いくぶん頭が重くなったが、余りひどくならずに済んだ。
10月30日(雪)チュクン〜ディンボジェ
朝起きると雪模様であった。 今日はアイルランドピークのベースキャンプまで行ってくるつもりであったが、降雪が強いので止める。そして、ディンボジェまで下りる。 ディンボジェでは時間がたっぷりあったので、手紙を書いたあと物思いにふける。
私達は、生れた時から死というものを受け入れる運命となっている。しかし、日本の多くの人達は老いて病になるまで、死を別世界の出来事と思っている。しかも、死を身近のものとして捉えることを恐れている。
生と死の分岐点は病気であろうが元気であろうが目の前に存在する。死が直前に迫ってから気がついても遅すぎる。
人はなぜ、そのことを避けるのだろう?
私は、多くの人達が死を身近なものとして捉えることが出来たなら、人は命を労る心を持ち、もっとやさしくなれると思っている。 生きてゆくには、愛し愛される労りの心が必要である。
人はなぜ、そのことに気がつかないのだろう?
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10月31日(晴れのち曇り)ディンボジェ〜ゴラクシェプ
昨夜は砂を散りばめたような星空だった。この部屋はサンルームのように大きな窓ガラスに覆われているので星空が目の前に広がり、まるでプラネタリウムの中にいるようだった。
ディンボジェを出発して、ペリチェからの合流地点となるトゥクラにて昼食を取る。そして、ロブジェをとばしてゴラクシェプまで行く。
11月1日(晴れ)ゴラクシェプ⇔エベレストBC
ゴラクシェプから1時間半ほどでエベレストBCに着く。人気はなくタルチョーを飾る石積みの跡だけが残っていた。数え切れない石積みの跡はシーズン中のにぎわいを物語っていた。
ベースからではエベレストが大きすぎてファインダーに入らない。戻りながら写真を撮ることにする。 ベースを離れると、ハスターがプモリ峰のベースキャンプにテントがあると教えてくれる。そして、上から写真を撮ったほうが良いと案内してくれる。
ベースにはユーゴスラビアの登山隊がいた。隊員が無線機で交信をしていた。緊迫した様子であった。この隊のサーダーに聞くと、3人でプモリ峰に登ったあと対岸のヌプツェ峰の西壁に2人が登り行き、登攀の帰路1人が転落しもう一人が壁の中でビバークしているという。望遠鏡で見ると、壁の真ん中に米粒ほどのテントが見えた。ヌプツェ峰西壁の大きさを実感する。
ベースに残ったメンバーが救出に行く準備を始めた。ロープとスクリュウハーケンを出していた。テントのある所までは、岩と氷のミックス壁を登ってゆかなければならない。かなり困難な登攀を強いられるだろう。無事に救出できることを祈り、ベースをあとにしながら気を付けるように声を掛けると「グットラック」と言われてしまう。
ベースの上に出るとエベレストのサウスコルが見えた。ハスターは「カラパタールからはサウスコルが見えない。ここの景色が一番良い」と自慢する。
写真を撮ったあと再びベースに寄る。ユーゴスラビアのクライマーはすでに出発したあとだった。ゴラクシェプに戻りながら彼等のことを考えた。
ユーゴスラビアは内戦状態にあった。そんな状況の中でヒマラヤ登山に来て困難な壁に挑んでいた。
何が彼等を動かしているのだろう。救出に行く彼は、死を恐れず当たり前のように向かって行った。
私は彼に共感する。何ものにもとらわれず「山に向かう」という純粋さにである。ここには人間達が作った社会の常識はない。あるのはクライマーとしての誇りであり、仲間との信頼関係だけである。
彼らに「生きて帰って欲しい」と祈った。それが、私自身の過去の姿と重なって祈っていた。
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11月2日(晴れ)ゴラクシェプ〜ゾンラ
ロブジェにて昼食を取りチョラパスの手前にあるゾンラに泊まる。2年前に、反対側からここを歩いたのだが思い出せなかった。ハスターに聞くと「この先でヤクの写真を撮ろうとして近づいたとき、ヤクが私たちに向かってきたのであわてて逃げた」と話してくれる。ようやく思い出すことが出来た。
11月3日(晴れ)ゾンラ〜チョラパス〜タンナ
昨夜、ハスターとシェルパ族の雇用の件で話し合いをする。マカルー1峰の遠征にハイポーターとして予定していたシェルパ族を断るとき怒らせてはいけないと言う。
ハスターはグルン族なのでシェルパ族と揉めてしまうと、これからの仕事がやりにくいので怒らせないで欲しいと言う。
ネパールでのヒマラヤ登山はシェルパ族の人達が実権を握っており、他の族の人がシェルパ頭であるサーダーになるのが難しい。なれたとしてもメンバーにシェルパ族のハイポーターがいるとリーダーシプが取れないでしまう。
チームワークを第一に考えて断ることにしたのだが、ハスターは気になって何度も話しかけてくる。私は、直接会って話をするから心配しないようにと話す。
私たち外国人は登山をするときだけここに居るが、ハスターはこの国で生きてゆかなければならない。この事を単純に片付けてはいけないと肝に銘じる。
しかし、どうすれば良いのか悩んでしまう。とりあえず彼らに会って話をしようと思う。それからである、先が見えないのに悩んでもしょうがない。彼らに会って話をすることが先決である。
人々は、冒険的行為を結果として現れた事だけを見て賞賛する。
しかし重要なことは、そこに至るまでの経緯であり、葛藤であり、立ち向かい乗り越えた勇気である。
この事を避けてはいけない。面倒な事と逃げてはいけない。
私は、風雪や困難な登攀に耐えられる強い精神力を持っているが、たった一つでも心を痛める出来事があると、十分な力を発揮することが出来ない。
なぜなら、ほんの僅かな心の動揺が、ほんの僅かなミスを引き起こし重大な結果を引き起こすことを知っているからである。
冒険者とは、そういうものだと思う。
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無事チョラパスを越える。天候に恵まれたおかげであるが、ガイドのハスターが好天の周期をつかんでくれたおかげである。
チョラパスから2時間ほどでタンナに着く。2年前に、ここで泊まったことを思い出す。ゴーキョまで行くのを止め、ここに泊まることにする。そして、2年前に泊まったロッヂを訪ねる。
サウジに変わらないねと言ったら、笑いながら欠けた前歯を見せてくれる。前歯が欠けてしまったのである。
夕食の後、ロキシーを飲みながら隣に出来た新しいロッヂのこと、2年前に起きたパンカの雪崩のことなどを話してくれる。2年前の、たった1日の事がとても懐かしく思える。そしてこのサウジとは、ずーっと昔からの知り合いに思えてくる。とても楽しいひと時であった。
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サウジとは、主人のこと。ロキシーとは、焼酎のことである。
11月4日(晴れのち曇り)タンナ〜ゴーキョ
昨日は高度が下がったせいか、ぐっすりと眠ることが出来た。しかも木窓が閉まっていたので、夜明けに気がつかないで午前7時まで眠っていた。ハスターが木窓を開けると、ヒマラヤが見えた。暗い部屋の奥から窓を見るとヒマラヤの姿が写真か絵のように見える。
出発までの間、マカルー1峰の登山後のことを考える。チョモランマ峰への遠征である。山童子には3人の8000m経験者が揃っている。今なら可能性がある。きっと登れる。問題は、その時まで会社に残っていて資金を用意出来るかどうかである。
ゴーキョに着いたあと、ゴーキョピークに登る。エベレストの写真を撮ろうと思ったが雲が出てくる。しばらく待っても晴れそうもないので、明日のレンジョパス越えの天気を期待して下りることにする。
ゴーキョでも2年前に泊まったロッヂに行く。サウニーは喜んでくれ、夕食後にロキシーを振舞ってくれた。
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サウニーとは、女主人のこと。
11月5日(晴れ)ゴーキョ〜レンジョパス〜ターメテン
飲みすぎて二日酔いになる。とても楽しかった。しばらくここでゆっくりしても良いと思ったほどである。今日は、このコース一番の難所であるので朝早く出発する。
4時間掛かってレンジョパスに着く。昨夜降った雪のため時間が掛かってしまう。思ったとおりトレッキングコースとしては厳しいコースである。
天気が良いので写真を撮る。エベレスト、ローツェ、マカルーを撮ることが出来た。ゴーキョピークよりいい感じであるが、チョオユーは影になってしまう。
レンジョパスを越えて6時間ほどでターメテンに着く。辺りが暗くなったのでターメまで行かないことにする。泊めてもらえそうな家を探し、何とか泊めてもらう。
家に入り飾られている写真を見ると、この家の主人は9年前の三国友好登山隊のメンバーであるミンマテンジンであった。今日はサウニーと子供しかいないので名刺を渡し、あとでお礼の手紙を書くと約束する。
今日は一番歩いた。地図を広げてみると、全工程の1/3も歩いていた。
今回はテントを持たないで、いざとなればビバークするつもりで軽量化して歩いている。
この時期に、このスタイルで歩けるのはハスターのおかげである。
私もハスターも、このルートが初めてであったが何の不安もなく歩いている。ダウラギリ1峰の遭難事故以来、私たちは強い絆で結ばれていた。
11月6日(晴れ)ターメテン〜パクディン
久しぶりに3000m台の高さを味わう。空気が身体全体にゆきわたってゆき、すがすがし朝を迎える。
ターメを過ぎてターモの手前でミンマテンジンと会う。彼に、家に泊めていただいたお礼をする。お互いに名刺を交換し、また出会うことを期待して分かれる。
ナムチェバザールで昼食を取ったとき、ゴーキョからレンジョパスを越えてターメテンまで一日で歩いたと話す。すると、みんな驚いてしまう。現地の人でも大変なのだろう。
パクディンに着くとコスモトレックのパサンとタンジェットが、日本人ツーリストをカラパタールまで案内するため来ていた。 食堂がツーリストで一杯になっていたので、キッチンで彼らと一緒に食事を取りロキシーをいただく。
11月7日(晴れ)パクディン〜ルクラ
ルクラに10時に着いたのだが、今日のフライトが取れないのでゆっくりと休養する。
11月8日(晴れ)ルクラ〜カトマンドゥ
無事カトマンドゥに着く。
カトマンドゥでは、ハスターが心配していたシェルパ族の雇用の件を解決することが出来た。話し合いのとき、シェルパ族の親方の一人であるラクパテンジンに同席していただき、揉めることなく終えた。
ラクパテンジンとは三国友好登山隊以来の付き合いである。私との義理を大切にしてくれたのだと思う。
ハスターには、来年の2月下旬に最終的な打ち合わせをしようと約束して日本に帰って来た。
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