山と大地そして人
(1996年11月30日に講演)


 私は五年まで、ある地方公務員の係長でした。私は、その仕事を止めてヒマラヤ登山を目指し始めました。そして私はヒマラヤ登山を通じていろいろな経験をさせていただきました。ヒマラヤと、そこに広がる大地、そして、そこに生きる人々に深く感動しました。今日は、そんなお話をします。

 最初は、ヒマラヤ登山を分かっていただくために、岩手県人だけで初めて登ったダウラギリ1峰の遠征を紹介いたします。そしてその後に、チベット、ネパール、パキスタン、極東シベリアに行った時の事を、人々の姿を通してお話しいたします。最後までお聞き下さい。

ダウラギリ1峰には1994年8月から10月にかけて登山をしました。標高は8167m、世界第7位の高峰として有名です。今日は盛岡山友会設立10周年記念ということで講演させていただいているのですが、私はヒマラヤ同人クラブ山童子に所属しています。結成して、まだ4年しか経っていない小さな山岳会です。私と小野隊長と玉内隊員の3人が、この山に挑みました。私達はネパールの首都カトマンドゥを出発して10日目でベースキャンプに着きました。標高は4700mあります。山から崩れた土砂が堆積している氷河の上にテントを張りました。登山活動は1ヶ月半ほどです。ベースキャンプでは、氷河湖の水を利用しました。ほとんど澄むことのない濁った水ですが、これを飲んで、これを材料として食事をしました。登山隊員はネパールメンバー7名と日本隊員3名の総勢10名です。登山を始める前に祈願祭をして登山の安全と登頂を祈りました。私達は現地の方たちとコミュニケーションをとるために、テントでの寝泊りや食事については出来るだけ一緒にしました。ベースキャンプでの食事は、コックが現地で調達した物を料理しました。上部ではフリーズドライをした食品を戻して食べました。一度、おにぎりを作ってみましたが大好評でした。

高所登山について説明します。8000mの高さで空気が1/3と言います。5000mで半分です。ある、お医者さんから言わせると、5000mの所に若くて健康な方が行くと、60歳位の体力に落ちるそうです。7000mへ行くと70歳位かな?さらにその上の8000mラインに行くと、今まさに老衰の状態で、いつ死んでもおかしくない状態になるそうです。そのような場所で、私達は20Kg前後の荷物を背負い、登攀という過酷な行為をしなければなりません。それにはまず、高所に順応しなければなりません。それを順調に出来ないと、どんなに体力があっても、経験があっても、技術があっても登れません。

登攀活動についてお話します。最初にベースキャンプからキャンプ1までのルートを検討するために、向かい合わせになっているシタ・チュチュラ峰の5000mまで登りルートを検討しました。取り付きとなるアイスフォール帯と、その上に広がるクレバス帯が、このルートのポイントでした。氷河の舌端は、とても固い氷で、その壁は100m以上ありました。私達の登山は、上部にキャンプを作りながら登るために固定するフィックスロープを張りました。ナイフのような雪稜と氷の裂け目を縫うようにロープを張ってゆきました。氷の裂け目をクレバスと言いますが、底は見えるところで20〜30メートル位ですが、実際は100mあるのか、それ以上なのか深さが分かりません。とても危険ですが、このような所を登ってゆきます。ルートを探しながら上部に行くと、人間がちっぽけな者だと感じました。登りながら上を見ると、どこを登っていいのか分からなくなるんです。まるで広場に落とされた蟻のようなものだと思います。そんな所をルート工作しながら登ってゆきました。また、今にも崩れそうな場所を荷物を担いで何時間も歩かなければなりませんでした。疲れますから休みますが、決して息を抜くことが出来ません。緊張の連続です。吹雪の中でも行動しました。天気のいい日だけを行動していたら、とても頂上には行けません。これが私達の登り方です。

おおむね順調に登攀活動が行われていましたが、大きなアクシデントが起きてしまいました。キャンプ2からキャンプ3への登攀中にネパールメンバーの一人が滑落してしまったのです。標高6800m付近から600mも滑落してしまいました。幸いにも救出できましたがとても大変でした。

救出したあと休養をとったのは2日間だけでした。なぜなら、この時期、天候が安定しているのは9月一杯だけなので、すぐに出発しました。ベースを出て3日目で最終キャンプに着き、4日目の午前0時40分に頂上を目指しました。救出の後すべてが順調だったのですが、自然は容赦なかったです。私達人間側に、どんな状況があろうとも厳しさは変わってくれません。途中で一人のシェルパが怪我をし、玉内隊員が血を吐き下りていったのです。私は緊急用の酸素を吸い始めていましたが、身も心も疲れ果てていました。ただ気力だけで登っていました。そして、風が強くて何度も立ち止まった時、パニマシェルパが『GO GO  BACK!』と訊いて来ました。僕は間をおいて『GO!』と言いました。じつはその時、この山を始めるまでの経緯と様々な出来事が、一瞬めぐったのです。そのことが『GO!』と言わせたのだと思います。このような状況でダウラギリ1峰の頂上に立ちました。

午後1時の登頂です。うれしいというよりホットした気持ちでした。しかし、喜んでばかりいられませんでした。頂上に着いたとはいえ、危険な状況であることはかわりがないのです。生きて帰らなければならないと自分に言い聞かせていました。ここに倒れてしまえば、どんなに楽だろうと思いましたが、『帰ろう、帰ろう』と言い聞かせて下りました。最終キャンプに着いたのは午後4時です。倒れるようにして辿り着きました。行動時間は15時間でした。次の日は、下りるだけですから楽なはずでしたが、その日に下りられたのは700mだけでした。丸一日掛けて700mだけです。普通の場所なら10分も掛からない距離です。結局、ベースキャンプには3日間掛かって下りてきました。

取り付きのアイスフォール帯までキッチンボーイが迎えに来ていました。彼が私を見るなり泣き始め、抱きかかえてくれました。私も泣いてしまいました。私達は、これまで衣食住を出来るだけ彼らと一緒に過ごしてきました。いつも和気あいあいとするように心がけていました。私達はお互いを気遣いあっていたんだと思います。それがこのような形になってきたのだと思います。

以上がダウラギリ1峰の遠征でした。私達のヒマラヤ登山は大なり小なり、このようにして行っています。今、2年後にマカルー1峰(8463m、世界第5位の高峰)に登る計画をしています。8000m峰の中でもK2(8611m)に次いで難しいといわれている山です。また同じメンバーで挑みます。これ以上の困難は間違いなく待ち受けていますが、私は必ず行きます。

 

次に、ヒマラヤの大地と、そこに住む人々に感動したことについて話します。

最初にネパールのカクベニという村でのことです。ここには、近くにカリガンダキコーラという川が流れています。村の周りは赤茶けた不毛の大地です。人が住んでいる所だけが平場になっていますが、歩けば15分位で通りすぎてしまいます。ここに100人程度の人が住んでいました。ここには電気が通っていませんのでテレビも冷蔵庫もありません。貧しい所だと思いましたが、彼らは、その限られた中で一生懸命生きていました。そして、その彼らとの会話の中で教えられたことがありました。『今年はね、沢山収穫があったからうれしいよ』と、ニコニコしながら話をしていたのです。お酒を飲んでいたせいもあるかもしれませんが、とてもうれしそうでした。限られた中でしか生きてゆけないのを分かっているのに、生きていることに感謝しているのです。とても大事なことを私に伝えてくれました。

ツクチェピーク峰の麓にあるツクチェ村に行った時には、こんなことがありました。朝早く写真を撮りに行った時、中学生位の女の子が下屋の所で勉強していたのです。汚れた本に書かれている英文を、しきりにノートに書き写しているのです。この子に何で、こんなに朝早くから勉強しているのか訊ねたところ、日中は忙しいから今しか勉強できないと答えてくれました。じつは秋になると、ここの学校では朝早くからと夕方の2回に分けて授業をしていたのです。農繁期のため、子供達は日中、家の手伝いや農作業をしていたのです。ここでは勉強したからといって何か特別なことがあるというわけではありません。ここは山と川と限られた集落しかありません。大きな町に行くには歩いて4〜5日も掛かります。女性の場合は10代で結婚して家庭に入っています。そんな環境の中で、子供達は一生懸命勉強をしていました。日本では勉強しなさいと言われてしている子供が多いのですが、ここでは違いました。遊びがないからだといえば、そうかもしれませんが、彼らの表情は豊かでした。とても幸せそうに見えました。

次に、パキスタンのナンガパルバット峰の麓にあるルパール谷という所でのことです。山羊の世話をしていた子供がいました。夏の間は、ここに住んでいるので学校には行けないそうです。学校は放牧の期間が終わったら行くとのことです。先ほどのネパールのことを思い出しました。勉強がしたい、だけど出来ないと言っているようでした。

次はチベットでのことです。見渡す限り赤い大地が広がっていました。ここにも集落がありましたが、学校はありません。大人は荒れた耕地を耕し、子供達は山羊の群れを移動させていました。ここにブルーポピーという珍しい花が咲いていました。とてもきれいでした。なんにもない所に咲いているからきれいだと思うのかもしれませんが、みんな生きているんだと感じました。

そして、今日は『山と大地』というタイトルなので、極東シベリアのチュクトカ半島に行ってきたことを話します。1991年の3月に、この半島をスノーモービルで縦断した時のことです。ここには人間が、まだ踏み入れたことのない山があると聞いたので行ってみました。現地に行くと、山はないと言われてしまいました。ここは大地だ。大地のうねりだというのです。小高い山の上に登り眺めてみると、なるほど、大地のうねりだと思いました。知り合いに、ここで拾った石を調べてもらうと、ここは過去に大規模な泥岩流が発生した場所だろうと言われました。おそらく、普賢岳の千倍以上の泥岩流が発生したのではないかということです。ここはまさしく、大地のうねりが現れている場所でした。このような場所は、ツンドラ地帯といいます。雪と氷で固まった地面の深さが300mもある凍土でした。ここは、チベット以上に何もないところでした。

ここに住むチュクチ人はトナカイを遊牧しながら暮らしていました。動物がいるから人間がいるのは分かりますが、動物は、いったい何を食べているのでしょう。目で見た感じは何もありません。不思議でした。しかし、トナカイの群れの中に入ってみて分かりました。トナカイが雪面を掘って、何かを食べていたのです。彼らに訊いたら、ミネラルという言葉がかえってきました。よく見たら苔がありました。なるほど、と思いました。トナカイは苔を食べていました。そして、人間はトナカイに塩を与えていました。ここでも人も動物も共に生きていたのです。すべての命が共存していました。

じつはですね、今日は特別に、この写真をお見せします。ここは岩手山の焼け走りです。この写真を見てどう思いますか。今までの風景と比べて緑が多いと思いませんか。この大地は不毛の大地ではありません。沢山の植物にあふれた生き物達が棲む大地です。ここは大白森という場所です。ここに行った方は知っていますね。ニッコウキスゲの花がとてもきれいです。これは焼け走りに咲いているコマクサです。可憐な姿が、見る人の心を打ちます。私達が住んでいる大地は、緑豊かな命のあふれる世界なんです。



今、日本では限られた森林を伐採して、自分達に都合のいいように開発しています。新しい家を次々と建てています。お金のある方は建てて間もないのに、壊して、また建て直します。これが豊かさの現われなのでしょうか。

 私達は物に溢れる世界に生きているため、とても大切なことを見失っています。地球という大きな恵みの中で生かされていることを忘れています。ほんとうの豊かさとは、お互いを気遣い感謝し、人も動物も植物も、共に生きていると感じる心を持つことではないでしょうか。その事をヒマラヤの大地と、そこに住む人々に教えられました。そして、その事を多くの人達に伝えてゆかなければならないと感じました。

 

時間が来ましたので、これで私の講演を終わらせていただきます。質問の時間をとっていますので、足りない所は質問で、お答えさせていただきます。

 

今日は、このような場所を提供して下さった盛岡山友会の皆様に感謝申し上げます。そして、私の話を最後まで聞いていただいた皆様に感謝いたします。またこのような機会がありましたならお話させていただきます。

 

ありがとうございました。

盛岡山友会主催 岩手県民会館にて


「環境を守る]
(2006年12月25日に講演)


 今日は環境を守ることについて講演を依頼されましたので、私の体験を通してお話させていただきます。

 最初に、何のために環境を守るのか?なぜ守らなければならないのか?

 言葉では「二酸化炭素が増えている」「温暖化が進んでいるため」「省エネしよう」「節電しよう」と言っていますが、実態とは随分とかけ離れています。

 では、具体的に私たちは何をしなければならないのか?そのことを私のヒマラヤでの体験を通してお話します。

私はこれまで数多くの登山をしてきました。1991年からは、それまで勤めていた仕事を止めヒマラヤを中心とした活動をしています。

今日は、その中で特にヒマラヤの奥地に住んでいる人々の姿を通してお話をさせていただきます。

「エベレストの写真」

写真の山はチベット側から見たエベレストと周辺の山々です。標高5300mから撮影しました。

私のヒマラヤ登山は、このような岩と氷の世界で行います。5000m以上の山々に25回以上行ってきました。8000m峰には13回挑戦させていただき3座に登ることが出来ました。

このような世界から麓に降りてきて村の人達に会うと、とてもうれしくなります。言葉はわからないのですが声を掛けられると、とてもうれしいのです。

なぜこんなにも心が惹かれるのだろうと思いました。

「麓の写真」


「収穫作業の写真」


このように彼らの住んでいる場所は荒涼としています。私たちの世界に比べると、とても過酷な場所です。

ここはムスタン地方のカクベニ村です。ちょうど秋の収穫作業をしている所です。限られた耕作地から好天の時期を逃さないように村の人達が総出で農作業をしていました。20分も歩けば通り過ぎてしまう集落です。大人だけでなく子供たちも一生懸命働いていました。

「動物との写真」

これは山のほうから移動してきた山羊です。ここで取れる作物だけでは栄養が取れないので、このように家畜を飼っています。短い夏の間は、草を食べに標高の高い場所に放牧して秋になると山から麓に下ろします。大切に育てています。そして必要な分を食べます。

限られた環境の中で生きてゆくためには、そこに育つ物すべてを利用して生きています。

「授業中の写真」

奥地にある学校の様子です。農繁期は朝6時から2時間と夕方の4時頃から2時間くらい授業をしていました。ここでは小さい子も大きな子も一緒に勉強しています。学校に来られない子も多いです。ここでは、お父さんお母さんに「行きなさい」と言われて来ていません。

「言葉を覚えたい。計算方法を知りたい。早く覚えて、社会に出て働きたい」と話していました。しかも、一人ひとりに教科書が行き渡っていないのでノートに写しています。さらに奥地ではノートも鉛筆も少ないので石盤に蝋の石で書きながら勉強していました。

子供たちは「勉強したい」と言って、1時間以上も山道を歩いてきています。

先生は一人ひとりの目線に合わせて教えていました。

彼等から「学ぶこと、教えること」の原点を教えてもらいました。

「老人と赤ん坊」

おじいちゃんが子守をしながら洗濯をしていました。小さな集落で、家が三軒しかありませんでした。人影がなく、この2人だけでした。

若いお父さんお母さんが農作業に行っている間、子守をしていたのです。

この子の遊び相手はおじいちゃんだけです。泣いてわがままを言っても諦めてすぐ仲直りをしました。

とてもほのぼのとした様子ですね。ここではお年寄りにも大切な役目があったのです。

私は辺境の地と言われる所をいくつか見てきましたが、奥地に住む人達ほど、お年寄りを大切にしていました。そこに住む子供たちは、お年寄りを大切にする両親や地域の人達の姿を見て育っています。

当たり前のことですが、自然に大切なことを学んでいました。

「母と子」

この写真は、私がお茶を飲みに立ち寄ったロッジで撮影した物です。

ちょうど、お乳を欲しがる時間だったのですね。待ってくださいと言われました。

日の差し込む暖かい場所でお乳を与え始めました。私達を気にかけずに自然に与えていました。

とても感動したので写真を撮らせていただきました。

生れて間もない赤ん坊にとって母親との時間は大切です。子供に母乳を与える時間なので、私たちにお茶を出すよりも子供のことを優先しました。何が大切なことなのかを良く知っています。

元気で丈夫に育って欲しいと願う気持ちが感じられます。

先ほどのおじいちゃんと子供の光景と、この母と子の光景に愛情の原点を見たような気がします。

「花の写真」

ヒマラヤに咲く花の写真です。これはブルーポピーです。ヒマラヤの青いけしの花と言います。とても有名です。

厳しい環境の中で、ほんのひとときを精一杯咲いています。植物たちも限られた場所で限られた時を一生懸命生きていました。

とても可憐ですが、たくましさを感じました。

「笑顔の写真」











次にヒマラヤに住む人達の笑顔を見てください。

この人達を見てどう思います?着ているものが粗末で「貧しいなぁ、かわいそうだなぁ」と思いますか?

私はこの笑顔を見ると、とてもしあわせそうだなぁと思ってしまいます。決して物が豊かでないのに、なぜこんなにすばらしい笑顔をするのだろうと思ってしまいます。

その答えは、写し出された写真の中にありました。

彼等は、人間として大切なことを知っていました。

人も動物も植物もすべてを大切にしよう。「共に助け合い、共に生きてゆこう」「そうしなければ生きてゆけない」ということを知っていました。

そして精一杯生きていました。だからこんなすばらしい笑顔が出てくるのです。

「岩手山の写真」


最後に岩手山の写真を見てください。焼け走りで撮った写真です。

どうです?何か感じませんか?緑が多いと思いませんか?

私たちの住んでいる所は緑に溢れる大地です。先ほどまでの荒涼とした大地ではありません。私たちは、命に溢れる豊かなすばらしい大地に住んでいるのです。

私は帰ってくるたびに、ここに住むことができてとても幸せだと感じます。こんなすばらしい環境に生きている、生かされていると感謝をしています。

私は、この気持ちを伝えようと思っています。とくに次の時代を担う人達に、未来を担う子供たちに伝えてゆきたいと思っています。

今は講演会を通じてお話をさせていただいていますが、それ以外の方法も考えています。

みなさんも子供や孫たちに伝えてみませんか?

自分が感じたこと、感動したことを、こんなにすばらしい環境に生かされていることを伝えてみませんか。すべてはそこから始まると思います。

お役所や学校からではなく、家族の中から、自分たちから始めてみてください。

そして、子供たちに、未来を託す子供たちに、このすばらしい世界を残してゆきましょう。

その思いが環境を守ることに繋がると思います。


最後に

今日は地球環境を守ることを、ネパールの体験を通して話していただきたいと言われ、お話しさせていただきました。

最初にお話ししましたが、環境を守るのは「何のためか?」「なぜなのか?」このことが自分の中ではっきりしなければ、なかなか進まないと思います。

ロータリークラブが運動している「ポリオの撲滅活動」についても、同じことがいえると思います。

環境を守ること、ポリオの撲滅活動など、私たち大人は何をするべきなのか。

その原点がヒマラヤの奥地にありました。

辺境の地で生きている人達は、人も動物も植物も共に、この大地で生きていることを知っています。決して一人では生きてゆけない、助け合わなければみんな生きてゆけない、という当たり前のことを知っていました。

私たちの社会は、自分だけのことに囚われて、共にこの世界に生きていることを忘れています。

知識では知っていますが、それを理解している人は少ないのです。分かっているつもりとは、分かっていないことに気がつかないのです。

私たちの国は、世界で最も豊かな国になったと言われます。ほんとうにそうでしょうか?

夢と希望に溢れるこの国で、失望し不安を抱きながら生きていませんか?

この国に生れて幸せだと感謝できる人が何人いるでしょう。

 彼らは厳しい自然環境の中で精一杯生きていました。その中で生きてゆかなければならないことを知っています。

 そして、限られた世界の中で家族を大切にして、共に生きているものを大切にして生きています

 学校で教えられなくても、家族の中で地域の中で自然に身について、人間として生きてゆく一番大切なことを知っていました。

 私が撮影した彼らの姿は、彼らの心の現れです。とても心が豊かです。

今、私はこんなことを思いながらヒマラヤを登り続けています。

 ありがとうございました。
                            
   東ロータリークラブ主催 盛岡グランドホテルにて


ホーム       プロフィール       山旅人の詩       山旅人の思い       旅の記録