マナスル峰で凍傷した指の治療を2003年8月で終わりにし、ネパールのアンナプルナエリアを歩いた時の記録です。 2002年9月3日 カトマンドゥ カトマンドゥに着く。マナスル峰での遭難から11ヶ月振りにモハンダイと再会する。ここに来ると、昨年の事がついこの間の事のように思えてしまう。泣きながら抱きついてきた当時の彼の姿と重なってしまい、目頭が熱くなる。
9月4日 カトマンドゥ 一晩経つと落ち着いてくる。いつものように朝のミルクティーをいただき荷物の整理を始めると、日本での現実から遠ざかり、ここのライフスタイルに変わっていく。日本を出る直前から体調が悪かったので、古事記の本を読みながら11日までモハン宅で静養する。 声を出して読んでいると、古事記は絵文字を見るように語りの場面が浮かんでくる。こうしてみると、古事記は文字で伝えられてきたのではなく、様々な語りが広がり、その中で心の中に残ったものが語り伝えられてきたのかもしれない。当時の状況を考えると、文字は為政者が必要としたのだろう。国をまとめるために社会をまとめるために必要としたのだろうと思う。
9月11日 カトマンドゥ 日本の伊東さんに出発前のFAXをする。
9月12日 カトマンドゥ〜ポカラ〜フェディ ツーリストバスでカトマンドゥを出発し、ポカラでタクシーに乗換える。タクシーに乗った直後、気分が悪くなり吐いてしまう。コンディションが悪いので、今日は、車から降りたフェディに泊まる。
9月13日(曇り) フェディ〜ビチュクベルカルカ 午前6時35分発。このルートは10年前と変わらぬ雰囲気があった。のどかな田園風景と小さな集落、そして竹で作ったバッテイ(茶屋)があった。今では一般ルートと言われなくなってしまったが、私には楽しいルートである。 ダンプスにて朝食をとる。オーストラリアキャンプで昼食をとる。 午後2時10分、デオラリ、ポタナを通りビチュクベルカルカに着く。小雨がちらついていたが本降りにならないで済む。モンスーン明けが間近なので、そのうち青空が見えるだろう。体力が回復していないので今一つ調子が出ない。調子が出るまでビスターリ・ビスターリと行こう。
9月14日(晴れ後雨) ビチュクベルカルカ〜ジヌダンダ 午前7時15分発。青空が広がる。1時間ほど歩くとアンナプルナサウス、ヒウンチュリが見える。TOLKAである。分岐点のLANDRUKからチョムロンに向かう。橋を渡ると日差しがまともに当たり暑い! リバーサイドで昼食をとる。汗でびっしょりとなったシャツを脱ぐと腰のあたりにズガ(蛭)が付いていた。パンツ一丁になり、シャツとズボンを乾かす。 午後1時40分、ジヌダンダに着く。到着早々シャワーを浴び洗濯をする。 午後2時、急に雲が広がる。雨が降ってきた。モンスーン末期の様子である。明日も早めにロッジに入ったほうが良いだろう。
9月15日(曇り) ジヌダンダ〜シヌワ 一晩中、犬が吠えるので眠れないでしまう。 午前7時55分発。蒸し暑く喉が乾くので40分ほど登った所でお茶にする。 このバッティには下半身麻痺の少年がいた。両手で身体を引きずりながら皆の所に行き、ご飯を食べている。子供達は余り手助けをしない。そのことが当たり前のように見える。母親は他の子供達と分け隔てなく育てていた。その少年は自分で出来ることは自分でしていた。 ここでは区別や差別など考えようもないのだろう。彼らは違いを認めて共に生きていた。 チョムロンでチェックポストに行き、ロッヂで昼食をとる。このロッヂにはアンナプルナB・Cから戻ってきて泊まるので、テント・食糧等を預けて行く。 午後1時10分、シヌワに着く。途中でカブトムシがひっくり返っていたので助けてあげた。 すると突然昨年の栗原君を思い出す。彼を助けることが出来なかった・・・と思う。 プラカッシュさんから、この村の事を聞く。
私達の社会はどうだろう? 豊かな日本の多くの地域では、それが出来ないでいる。流通手段であるお金振り回され、溢れる物に取り憑かれ、自分達が作ったシステムに振り回されている。
9月16日(曇り時々晴れ後雨) シヌワ〜ヒマラヤ 午前7時発。プラカッシュさんが冴えない顔つきをしている。昨夜トランプに負けたらしい。夜中にトイレに起きた時、まだやっていたので相当にいれ込んだのだろう。
バンブーまでは樹林帯を上ったり下ったり何度も繰返す。時折、マチャプチャレとアンナプルナV峰が見える。写真を撮るが逆光のため、今ひとつであった。
午前11時40分、ヒマラヤに着く。ここで昼食をとる。スパゲティがおいしかった。無愛想なサウジ(主人)だったが料理の腕は良かった。 昼食を食べ終わった頃に雨が降り出す。一昨日から雨が早く降り始める。山間に入ったせいだろう。今日はここまでとする。
午前7時35分発。歩き始めて間もなく目眩がする。急な登りを急いだせいだろうかと思った。血圧が下がったときのように目をつぶると真中に円い光が広がる。目を開けると光の残像が残り目の焦点が合わないでしまう。深呼吸をして、ゆっくり歩くと10分ほどで消える。 デオラリで朝食をとる。ここのロッジには炬燵があった。とても暖かかった。 午前11時20分、マチャプチャレB.Cに着く。今日は朝からどんよりしていた。ここに着いて間もなく雨が降り出す。標高が高くなったので順応を考えて、ここに泊まることにする。
9月18日(雨後曇り) マチャプチャレB.C〜アンナプルナサウスB.C 朝から雨のため、しばらく様子を見る。 プラカッシュさんの話によると、アンナプルナV峰の韓国登山隊の人達がプジャー(祈願祭)のときに殺した水牛の肉を捧げたため天気が悪くなったという。この地域では牛と豚を殺してはいけないことになっているのにシェルパが注意しても聞き入れてくれなかった。中には怒って帰ったシェルパもいた。 午前9時20分発。雨は上がり日が差して来たので出発する。マチャプチャレB.Cを出るとお花畑が広がる。日が差してきたせいか鳥や虫が飛び交う。 しかし、日が差したのも束の間であった。空にポッカリと空いた青空は厚い雲に閉じられてしまった。 午前11時、アンナプルナサウスB.Cに着く。霧が立ち込めて辺りが良く見えなかったが、踏み跡がしっかりしているため迷うことなく到着する。
9月19日(晴れ後曇り) アンナプルナサウスB.C〜ドバン ようやく晴れる。朝早く起きて写真を撮る。しかし、ヒウンチュリ、アンナプルナサウス、バラシカルは雲の中で撮影できないでしまう。
午前8時35分発。降りて直ぐ岩穴に潜んでいた山羊の赤ん坊を見つける。山羊達は移動してしまい、このままでは死んでしまうので上のロッジに持って行く。
昨夜は、高度が下がったせいで良く眠れる。 午前7時55分発。バンブーでプラカッシュさんが死んだ山蛙をもらってくる。ザックの上に載せて日干しにし、後で傷薬にすると話す。シヌワで昼食をとる。
午後1時、チョムロンに着く。ロッジの手前で道路を清掃している生徒達の写真を撮らせて頂く。
午前7時発。グリジョンで朝食をとる。近くにいた鹿の写真を撮ろうとしたが逃げてしまう。橋を渡ると登りとなる。余りに暑いので休みながら行く。メルチェの藁葺き屋根が印象的なので写真を撮る。 午後12時25分、タダパニに着く。メルチェからは樹林帯となり暑さをしのげたが、少しバテ気味となる。夕方に雷が鳴り、雨が降る。午前は晴れるが午後は崩れる様子なので明日も7時に出発しようと思う。今日は暑かったのでビールを3本も飲んでしまった。
午前7時25分発。バンタティで朝食。台所にシバ神、ブッタ、ラクシュミ神を祭ってあった。 破壊の神、苦しみを救う仏、利益を与える神が混在していた。神々は対立することなく必要とする彼らの中に存在している。 ここの女性達は、私に声を掛けてくれ笑顔を与えてくれた。心が和んだひとときであった。 バンタティを出発してから、いつの間にかマナスル峰での事を考えながら歩いていた。 あの時、出発の1ヶ月前に車にはねられて腰を痛めた事を言い訳にして、常にセカンドに甘んじていた。全力で山に向えなかった、そして栗原君を救出できなかった・・・。 あれから1年経って見えなかった自分の姿が見えてくる。力の無い私が無理をして登山を続けていた。そして遭難。当然の結果だった。 私の目指す登山は、僅かな心の隙でも致命的な状況に陥る。それを忘れていた。私の甘さが私を苦しめる。思い詰め、責め続けても、どうにもならない。どうしようもないが、どうにかしなければならない。 デオラリで昼食をとる。 午後1時25分、ゴラパニに着く。
9月23日(雨後晴れ) ゴラパニ〜タトパニ
午前7時20分発。シーカで、雨の中、草を運んでいる女性達の写真を撮らせてもらう。 ガラで昼食をとる。ドルビダンダから日差しが強くなる。暑いので日陰で何度も休みながら歩く。 午後1時55分、タトパニに着く。ビールを飲んで一息ついた後、温泉に行く。ついでに洗濯もする。温泉に来ていた人達をフランス人と思っていたらイスラエル人であった。 プラカッシュさんに聞いたら、ゴラパニ、アンナプルナB.Cにも沢山いたとのことである。この頃、イスラエルの観光客が増えているらしい。 ネパールは、彼らにとって安全な国であった。2001年9月11日以降、彼らが旅行できる地域は狭められてしまった。
温泉の後、プラカッシュさんの靴と電池を買う。
9月24日(曇り時々晴れ) タトパニ〜ガサ 夜中に鈴虫が侵入する。耳を差すような音で目が覚めてしまう。眠れないので、2人で捜しだして外に出す。しかし、その後なかなか寝つくことが出来なかった。 午前7時30分発。ルプサで昼食をとる。ガルコーラからドンキーが目立ってくる。モンスーン明けが近いのかもしれない。ここのドンキーは、ジョムソン、ツクチェなどからポカラにりんごを運び、帰りに食糧・雑貨品等を運ぶ。この街道は相変わらぬ風情がある。 午後2時30分、ガサに着く。ガサに入る手前の橋で軍の検問を受ける。 マオイストの侵入を防ぐためガイドのチェックが厳しかった。ここには軍人が70人位いる。見えるだけでも小さな要塞が7箇所ある。 橋の手前でも、マシンガンを持った私服の軍人が6〜7人で巡回していた。軍服だとすぐに狙撃されるので、マオイストの仲間と区別がつかないように私服で巡回しているそうだ。 2年前は、とても考えられなかった。
9月25日(雨) ガサ〜ツクチェ 午前7時5分発。レティで朝食をとる。ラムジュンにて川を渡渉する。このとき、プラカッシュさんの通り渡れば良いものを、上流まで行き迷ってしまう。結局、彼の通りに歩く。 午後1時35分、ツクチェに着く。ヒマラヤンホテルに泊まる。久しぶりにインドラさんと会う。 明日は裏山に登るので、ここに二泊する。標高3800mのムクティナートから標高5400mのトロンパスを越えるため、ここで事前に順応をして行く。
午前6時40分発。ヤクカルカで朝食。ここはツクチェピークとダウラギリT峰に行ったときに何度も通ったので覚えていた。ツクチェピーク登山から11年も経ってしまったが、ここに居ると、ついこの間のような気がしてくる。マルファ側からフランス人の男女が来る。彼らは休まないで先に行った。 午後12時10分、デオラリに着く。私の高度計では4500mある。休んでいるとフランス人の男の人だけが登ってくる。話を聞くと、2人は迷ってしまい、女性は疲れて下で待っているという。私達は天気が悪いのでここから降りると話したが、彼はもう少し上に行くと登って行った。私達は、彼がまた道に迷うのではないかと思った。それに下に居る女性のことも気になった。 午後12時30分発。30分程降りると身体が動かなくなる。最初は手と足が痺れてきて、そのうち硬直してしまった。プラカッシュさんを呼び止めて、水とカロリーメイトを頂くと5分ほどで歩けるようになった。彼が、そばにいてくれたので助かった。 ヤクカルカまで降りたがフランス人の女性と会えなかった。気になったが、降りることにする。 午後2時40分、ロッジに着く。疲れた!しかし、4500mまで行くことが出来た。これでトロンパスは一日で越えることが出来るだろう。
9月27日(曇り) ツクチェ〜エグレバッティ 午前7時40分発。ジョムソンのムーンライトホテルで昼食をとる。ミナの母親に、モノジさんから頼まれた手紙を渡す。 今日は、ネパールのツーリズムDayであった。ツーリズムチェックポストに寄ると、今日、最初にチェックを受けたツーリストと言われ記念のTシャツを頂き、カタを掛けてもらう。ポリスチェックポストにも寄る。
午後2時、エグレバッティに着く。 ここに来る道が変わっていた。カリガンダキ河を挟んで反対側に道が出来ていた。ここには、新しく出来た橋を渡って来る。
9月28日(晴れ) エグレバッティ〜ムクティナート 快晴である。昨夜は、銀河を窓から見ることが出来た。荒涼とした大地に輝く銀河、感無量であった。 午前7時50分発。ジャルコットで昼食をとる。途中でカクベニから来た少年とジャルコットの手前まで一緒に歩く。 休息のときに水を分けて上げると、りんごをくれる。ゴンパ(お寺)に行くところだと言う。12才位の少年であった。 ストックを使いたいと言うので貸してあげると、別れる時にストックを下さいと言われる。私は「トロンパスを超えるときに必要です」と言い、返してもらう。 そのときの、少年のなんともいえないしぐさに、思わず「フォトOK」と言ってしまった。「だめです」と言われる。 私は無遠慮に話してしまったことを後悔し、少年のはにかんだ表情に心が痛んでしまった。 午後12時50分、ムクティナートに思ったより早く着く。 ツーリストが沢山いた。私達のホテルには15人位泊まっていた。他のロッジにも沢山泊まっている様子である。ここは他のエリアより人気があるのだろう。 村の中を歩きながら4年前に訪れた頃を思い出してみた。新しいホテルが何軒か増えて電信柱と電線が目に付くようになった。しかし、村の周りの風景は変っていかなった。 ここはラマ教とヒンズー教の聖地である。ここでは他の地域と違い争いが無い。共存していた。共存というよりは、対立していないだけかもしれない。ここには物事を相対的に考えて、常に唯一のものを求める近代の思想がないようにみえる。ここでは存在する全てが必要であり、全てに意味を持っているようだ。対立する前に、互いの存在の意味を問いて考える思想がみえる。ここの本質的な物事は変わっていなかった。
9月29日(晴れ) ムクティナート〜トロンフェディ 午前3時55分発。10時20分、トロンパスに着く。写真を何枚か撮る。トロンフェディハイキャンプで昼食をとる。 午後1時30分、トロンフェディに着く。なにげなく残金を調べたら1万ルピーしかない。 慌てて残りの日数を調べる。今日を入れてカトマンドゥまで戻るには9日間かかる。ルピーが必要なのはポカラまでの7日間。そのうち1日はテント泊なので実質6日間である。ベニからポカラまでのタクシー代も必要である。節約してゆかねばならない。
9月30日(晴れ) トロンフェディ〜マナン モンスーン明けを待っていたかのように、ここから沢山のツーリストがトロンパスに向った。 午前7時10分発。ヤクカルカで朝食をとる。KHENJANGKHLAでカングサールに行く近道を見つけるが、蕎麦の種が欲しいので、ティンキまで行くことにする。 ティンキでロッジを捜すが、刈り取りで忙しいと断られる。マナンまで行くことにする。 午後1時、マナンに着く。マナンも忙しそうだったが泊めてもらえる。ここを訪れるのは4回目であるが天気に恵まれたのは初めてだ。ガンガプルナ峰、アンナプルナU峰、V峰、W峰が見える。ちょうどマチャプチャレB.Cの後ろ側に来たことになる。
夕食時、プラカッシュから実家の話とマオイストの事を聞く。
話を聞いていると、私の悩みなどは些細なことだと思えてしまう。
10月1日(晴れ) マナン〜ティリチョベースキャンプ 夜中に顔の左側から肩と腰にかけて弱い痺れを感じる。頭の事故の後遺症か、それとも順応がうまくいっていないのかもしれない。 しかし、夜中に小便が沢山でた後、痺れがなくなる。しかも今朝、サウジから蕎麦の種を分けてもらい、気分が良くなる。 7時30分発。蕎麦の花の写真を撮りながら歩く。今年は豊作らしい。 カングサールで朝食兼昼食をとる。隣でお茶を飲んでいた1人旅のフランス人もティリィチョレイクに行くと話し掛けてくる。私と同じ48才で独身であった。 フランス人は先に出発したのだが、砂礫の急斜面で立ち往生していたのでロッジまで案内をする。 午後2時30分、ティリチョベースキャンプに着く。ティンキガング峰、カングサールカング峰が見える。 到着早々、フランス人は部屋代が高いと文句をつけていた。その様子に私達はあきれてしまう。 ここは奥地にある、たった一軒のロッヂである。ここにロッヂがあるおかげでテント・食糧等を持たないで来ることが出来る。カトマンドゥから運ぶ労力を考えれば、決して高くないことが分かる。 (因みに私達2人は、食事が付いて1435ルピーである) 彼が私にも同調するように促したので「ここは高いとは思わない、高いと思うならテント・食糧・燃料を持ってくればいい」と話す。すると、彼は怒ってしまった。 私はテント・食糧・燃料を用意して、ガイドと共に荷物を担いで来ている。できるだけ節約しながら旅をしている。私は、私なりに安全で安く旅をする方法を考えてきているが、彼は自分に都合が良すぎる。彼は、ご都合主義者である。
10月2日(晴れ) ティリチェベースキャンプ〜ティニガオン 午前5時25分発。午前8時20分、ティリィチョレイク東端のタルチョーに着く。 10時頃、湖岸で朝食兼昼食をとる。その後、湖岸に沿って北側に回りこむ。道が無くなった所から40度位のガレ場を登る。 この道は一般ルートではない。以前来た時、ロッヂのサウジから教えられた近道である。高度差200mを登りきるとベレムナイトの化石の所に出る。
午後2時30分、メソカントラパスを通過する。 午後4時頃、テント場の予定地に着く。水がないのでティニガオンまで行くことにする。 午後7時40分、ティニガオンに着く。この先は、夜に歩くと襲われる危険があるので、今日は、ここに宿を取ることにする。 この辺りは暗くなると門がしっかりと閉じられてしまう。何軒か回り戸を叩くが、だれも出てこなかった。 プラカッシュはびくびくしながらついてきて、銃を向けられるから気をつけるようにと話す。 表通りはだめなので裏の路地に回る。すると裏木戸が少し開いて明かりが漏れていた家があった。英語と日本語で声を掛けると10才位の男の子が出て来てくれた。 プラカッシュにネパール語で話してもらうと、奥にいた母親が出てきてくれ、私たちを入れてくれた。この家で一番良い部屋に案内され、遅い時間であったが夕食を出してもらった。 のどが渇いていたので「ビールがないですか」と尋ねると、わざわざビールを買いに行ってくれた。心暖まるもてなしに感謝の気持ちで一杯となった。
10月3日(晴れ) ティニガオン〜ラルジュン
出発の前に子供たちの写真を撮る。日本に帰ったら、写真を送ると約束をする。 午前8時発。ツクチェに着く。ヒマラヤンホテルで昼食をとる。 インドラから泊まって行くようにと進められたが、先を急ぐのでお断りをする。するとモノジに渡すようにと手紙、ジャム、オレンジブランデーを頼まれる。私はウワ(麦)のブランデーと苦蕎麦の種をもらう。 小野さんの知り合いから写真と住所を書いたメモ用紙を渡され、小野さんに渡すように頼まれる。 出発間際には皆の写真を撮ってくれと頼まれ、日本にいるロサニーとサユリに送って欲しいと言われる。カンチ(モノジの妹)からもモノジに渡してくれと手紙を頼まれる。次々と色々なことを頼まれて名残惜しいが、先を急ぐと言いツクチェを後にする。 午後2時30分、ラルジュンに着く。
10月4日(晴れ) ラルジュン〜タトパニ 午前6時40分発。カロパニでチェックポスト。レティで朝食をとる。食事が出来るまで待っていると、土間の奥で若い母親が赤ん坊にお乳を与えていた。仲睦まじい光景に心を奪われる。写真を撮らせてもらった。 外を見ると山羊の群れがポカラに向っていた。ダサインの祭りが近づいてきたせいか、日ごとに群れの数が増えている。 ルプサで昼食をとる。 午後4時50分、タトパニに着く。
10月5日(晴れ)タトパニ〜ポカラ 午前6時50分発。ティプリンで朝食をとる。真夏のような暑さの中を歩く。 ガレソワールで昼食をとる。ここから小型トラックに相乗りしてベニまで行き、ベニからタクシーに乗りポカラに行く。 午後5時、ポカラに着く。モナリサホテルから、コスモトレックとモハンダイ宅に無事に終えたと電話をする。
10月6日(曇り後晴れ) ポカラ〜カトマンドゥ 午前9時30分発。グリーンラインのバスに乗る。 午後4時、コスモトレックに着く。伊東さんにFAXをする。
私はこの後、予定通りクーンブに向った。しかし、チュクンで風邪を引き38.5度の熱が出たため引き返した。19日にカトマンドゥに戻り、また伊東さんにFAXをする。
10月22日、関空便で日本に帰る。
振りかえってみて(2004年10月記)
私はこの時、まだ指が充分に使える状態でなかった。そして、このままでは何も出来そうもないと思っていた。このままでいるのが辛かった。それならお金のあるうちに旅をしようと思った。それがネパールだった。 私自身、当時の自分の状態がよく分からない。今思うと、結局、ヒマラヤの見える所に行きたかったのだと思う。
日記を整理してみて、自分を客観的に見ることが出来た。マナスル峰から1年後の旅は、私を問い詰める旅だった。そして事故から3年が経った今、登山に関しては幾分自身を取り戻した。今年のK2登山でそれを感じた。前向きの行動が自信となった。しかし、心の傷は、まだ時間がかかりそうだ。 |